近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群と岩屋古墳とは!そのⅥ

2012年06月03日 | 歴史
龍角寺古墳群のうち、ここでは龍角寺53号墳を取上げる。





写真は、龍角寺53号墳裾の誘導路の突当たりが埋葬施設とその内部。

本古墳は、全長約27m・高さ2.6mの前方後円墳で、古くから写真のように、箱式石棺が露出していたらしい。

石棺は、墳丘のくびれ部にあり、筑波山一帯の雲母片岩を使っている。

石棺の大きさは、縦1.79m・横1.07m・深さ0.96mで、箱式に組み立てられている。盗掘のためか、遺物は皆無。



写真は、復元された龍角寺108号墳の横穴式石室。

墳丘は調査後消滅してしまったが、一辺約16m・高さ約1.0mの古墳時代終末期の方墳で、約2.5mの周溝を巡らせていたと云う。

埋葬施設は、写真のように、小型で特異な横穴式石室。この石室は、4枚の天井石と12枚の板石で作られた、7世紀中頃のもの。

叉周溝からは、直刀・須恵器・鉄鏃などが検出されたと云う。

龍角寺古墳群を造営した首長は、“印波国造”(下総国中部を支配した首長)と考えられているが、浅間山古墳の造営以前は、同じ印旛沼北東部にある公津原古墳群を造営した首長の勢力が、4世紀前半から6世紀前半頃までは、龍角寺古墳群を造営した首長を上回っていたと考えられている。

しかし6世紀末以降、勢力を強めた龍角寺古墳群を造営した首長が、周辺地域では最も大きい前方後円墳の浅間山古墳を造営し、その後、日本最大級の方墳である岩屋古墳を造営し、更には7世紀後半には龍角寺を創建したと見られている。

龍角寺は、県内はもとより東国でも最古に属する寺院で、東国の豪族はこの頃から、古墳に代えて寺院を造りはじめたと云える。

岩屋古墳を築いた当地の豪族が、仏教を取り入れ、“氏族の寺”として建立したものと考えられる。





写真は、現在の龍角寺の境内及び国史跡に指定されている、龍角寺境内の塔跡で、680年に建立されたが、龍角寺本堂の東側に所在する。

塔は昭和45年の発掘調査によって、12m×12mの基壇が存在することが判明。現存する花崗岩製の石は、塔の中心を通る柱の基礎となるもの。

古墳群のうち、岩屋古墳は1941年に単独で国の史跡に指定されたが、2009年2月に、浅間山古墳を含む周辺の古墳群が追加指定され、史跡指定名称は「龍角寺古墳群・岩屋古墳」と改められた。

龍角寺古墳群に隣接する、南隣の公津原古墳群が、4世紀前半から造営されたのに比べ、新しい時期に本古墳の築造が開始されたことがわかる。

更に6世紀前半には船塚古墳が造営されるなど、当初は公津原古墳群を造営した首長が地域の主導権を握っていたものが、6世紀後半には目立った古墳は築造されなくなり、龍角寺古墳群を築造した首長に主導権が移ったものと考えられている。






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