近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪府堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!

2011年06月03日 | 歴史
古市古墳群の総括を終えたことに鑑み、ここからは、百舌鳥古墳群を振り返って、その特徴などをハイライトします。

大阪府の堺市には、古市古墳群と並んで我が国を代表する百舌鳥古墳群が所在する。

そもそも古墳群が築かれている一帯の地名そのものが、古墳の造営と関係があるらしい。

『日本書紀』に記された伝承によれば、その昔、この地で古墳の工事中に飛びこんできた鹿の耳から、百舌鳥が飛び立ったことから百舌鳥耳原と名づけたという。

百舌鳥古墳群は、堺の旧市街地の東南方向に位置し、東西・南北とも約4kmのほぼ正方形の区画に、かつては94基の古墳(前方後円墳23基、帆立貝式古墳9基、方墳8基、円墳54基)が存在したと言われている。

第二次大戦後に宅地開発が急速に進んだため、現在は残念なことにその半数近くがすでに
失われてしまい、現存する古墳は半壊のものも含めて48基にすぎないと云う。



写真は、百舌鳥古墳群のマッピング。

本古墳群の中でも、墳長100m以上の代表的な古墳群は、いずれも前方後円墳で、墳長の長い順番に以下の通り。

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、大塚山古墳、乳岡古墳、田出井山古墳(伝反正天皇陵)、いたすけ古墳、永山古墳そして長塚古墳の10古墳を数える。

百舌鳥古墳群は、4世紀末頃に乳岡古墳が築造され、次に履中陵古墳と大塚山古墳、仁徳陵古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳、そして反正陵古墳・土師ニサンザイ古墳の順に、5世紀末頃までに築かれた、古墳時代中期のものと考えられている。

ここで使われた埴輪を焼く窯のひとつが御廟山古墳の南東、百舌鳥川左岸にある、百舌鳥梅町の窯跡で5世紀中頃の築造と考えられ、いまのところ百舌鳥古墳群で発見されている唯一の埴輪窯。











写真は上から、百舌鳥古墳群の中で墳長の長い順番に、大仙陵古墳・伝仁徳天皇陵正面遠景、同陵3重目の外濠光景、上石津ミサンザイ古墳・伝履中天皇陵正面、同陵周濠の様子及び土師ニサンザイ古墳全景。

これら古墳群には、倭の五王中の第17代履中・第18代反正(はんぜい)の2代にわたる王陵が含まれている。

特に、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳は、墳長およそ486m・前方部の幅305m・高さ約33mで、日本第1位の規模を誇る超巨大前方後円墳であり、エジプトのクフ王のピラミットや中国の始皇帝陵と並んで、世界の三大古墳に数えられている。

大仙古墳を造るには、毎日2,000人の人々が働いても15年以上はかかったという権力の象徴的存在。叉墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい、神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼ばれてきた。

ところで世界最大規模の第16代仁徳天皇陵は、出土物から5世紀中葉~末ごろの可能性が高いと言われる。

しかし仁徳天皇(在位:313~399年)は4世紀中葉の人物である為、仁徳天皇陵でないことはハッキリしている。

大仙古墳の出土物等から、この時期に大和朝廷を統一国家として治世した第21代雄略天皇陵である可能性が高いと言われているが・・・・。

いずれにしても、頑迷に発掘調査を拒否している宮内庁方針が変わらない限り、ことの矛盾は今後とも延々と続く。

履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置する、前方後円墳で、大きさは全長約360m・後円部径205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、日本で3番目の大きさ。

履中天皇(在位:400~405年)は、仁徳天皇よりも後の時代の人物とされているが、考古学の発掘成果から、履中陵・上石津ミサンザイ古墳は大仙陵古墳よりも古い時代に造築されたと考えられている。

土師ニサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群の南東の端に位置し、墳丘は3段構築で全長は約290m・後円部径は約156m・高さ約24m・前方部幅は約226m・高さ約22.5mで、前方部を西に向けており左右に造り出しがある。

全国で8番目の大きさで、現在の周濠は一重だが、二重目の濠が一部確認されていると云う。

土師ニサンザイ古墳は、宮内庁が陵墓参考地に指定されているものの、天皇は埋葬されていないとされている。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。

本格的な百舌鳥古墳形成は、古市古墳群にやや遅れて開始され、立地条件も古市古墳群とは異なる。



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