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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

間違って治定された天皇陵ー推古天皇陵・植山古墳とは!そのⅡ

2011年10月12日 | 歴史
間違って治定された推古天皇陵・植山古墳の真相に迫ります。





写真は、植山古墳の史跡公園整備工事中につき立入禁止の看板及び同公園工事中の同古墳墳丘の様子。

植山古墳史跡公園が完成するまでには、数年を要するらしい。

古墳の位置については、「古事記」に言う「大野岡」という所は現在の橿原市には存在しないが、「日本書紀」に云う、蘇我馬子が「塔を大野岡の北に建てた」という記述と、「元興寺縁起」に馬子が塔を建てたのは「豊浦(とゆら)前」(奈良県明日香村)とある事から、「大野岡」が現在の橿原市と明日香村の境界付近にあったものと類推され、現在の橿原市五条野町の植山古墳の位置に合致すると云う。

古墳の規模については、天皇の墓が、6世紀までは大型の前方後円墳だったが、7世紀になると一辺が50mほどの大型方墳に変わる。

植山古墳は長辺が約40m・短辺が約30mの長方形墳で、すこし小さいが、推古天皇が遺言で「竹田皇子の側に葬るべし」と言い残したことと、「最初は皇子の墓だったためさほど大きくなかったが、自分も入るため少し広げて長方形になったのではないか」、と言う説もある。

大勢としては、植山古墳を「推古天皇親子の墓」と推定するに大きな反論はないようで、とすれば天皇陵の内部の一端が、これで少し明らかになるのではないかという期待が高まる。

又この古墳にはこれまで見られない、扉を取り付けるための「くぼみ」が掘られた「敷居石」も見つかっており、新たな発見がまた論議を呼びそうだ。

一方植山古墳は初葬地で、後に現在の太子町にある推古天皇陵へ改葬されたとする説がある。

大阪府太子町にある、磯長谷古墳群は7世紀前半を中心とする蘇我氏系の大王墓の伝承をもつ大形方墳を中心とした古墳群。

現在では、聖徳太子信仰の大道として、街道沿いにある聖徳太子御陵・それを守る叡福寺が霊場となり、太子信仰の道としての性格を強めている。



写真は、今や民家によって占拠されそうな荒涼とした、現在の推古天皇陵墓。

大阪府太子町の外れ、段々畑・ゴルフ場に囲まれ、はたしてどれほど当時の面影を残しているのであろうか?

太子町には、日本最古の女帝・第33代推古天皇陵(即位は592年、39歳の時、聖徳太子を立てて摂政に任命、執政を全権委任したと言われる)、聖徳太子の父である第31代用明天皇陵、推古天皇の夫・第30代敏達天皇陵、聖徳太子と生母・間人(はしうど)皇后及び妃・膳手姫(かしわでひめ)の三骨が一つの墓に合葬されている一家の御陵等がある。

推古天皇が切り開いた中国・朝鮮半島との交流のシンボル・シルクロードの竹内街道沿いに、推古天皇と共に“大道時代”を共有した他の天皇が一緒に葬られている。




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