近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 明治・大正・昭和初頭の沖縄は?

2008年02月23日 | 歴史
沖縄県として、正式に日本の領土とされた沖縄だが、法整備が遅れ、琉球時代のまま旧来の体制が引継がれていた。

琉球処分後の“旧慣温存”期間である、20世紀初頭までは一部の政党エリートたちの反日抵抗運動などを通じて、反日感情は未だ残っていたが、一般市民の間では、民族自決主義のようなナショナリズムは、存在していなかったと云う。

むしろ琉球処分は、沖縄県民の生活とアイデンティティー観を改変させ、主に学校教育によって、自分たちは日本人だという考え方が段々普及していった。



写真は、明治時代に入り普及した、赤瓦の屋根。
沖縄では、1889年に王朝時代の屋敷・家屋が廃止され、赤瓦の屋根が急速に増えていったと云う。

日本人としての意識は、一般市民レベルでは強く、“旧慣温存策”を廃止するような要求を起していた。

同化政策は20世紀前半まで続き、沖縄住民は、日本人であると云うアイデンティティーを意識して見付ける努力をし、特に日本の文化を身につけることが沖縄人の義務であると認識していたと云う。

日本人は、近代化され進歩した国民であると同時に、深い伝統的な文化も保有する民族であるとの認識を一般には持っていたらしい。

そのような中で、徴兵制・地租改正・市町村制・府県制・衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10~25年遅れて施行された。

1920年代以降、南洋諸島が日本の統治下に入ると、新天地を求めた沖縄住民が、環境の似たこれらの離島へこぞって移住した。
叉同時期に、生活苦からハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移住した。



写真は、一見食べられそうに装うソテツの実。

更に1930年代の世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると、一時的にせよ、飢饉状態となり、貧家では“ソテツ”の実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうハプニングも発生して、“ソテツ地獄”と呼ばれた。

このような沖縄の貧困は、沖縄の近代化・日本化の遅れや、叉明治政府の沖縄社会への政治介入の遅れが、沖縄の経済全体を砂糖産業に過度に依存させたことに繫がり、世界中で砂糖が生産過剰の中で、値段が下がったまま長く継続していたことにも原因している。

それと琉球列島が日本の国境内に入っていたのに、依然として本土日本人からは見放されていたことも、沖縄人の生活レベルが改善されなかった遠因と考えられる。


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1 コメント

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Unknown (猫の誠)
2019-07-21 00:27:28
こんばんは。小生も勉強したいので出典を明記していただけると助かります。
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