近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

神戸市東部の古墳群とは!そのⅠ

2009年04月19日 | 歴史
前述の通り、神戸市沿岸は、ヤマトから瀬戸内海・朝鮮半島・中国大陸への戦略的海上交通ルートとして早くから注目され、特に弥生・古墳時代には考古学的にもそれを裏付ける発見が相次いできたが、ここでは古墳時代前期の神戸市東部の情況を辿ってみる。

☆処女塚古墳
処女塚古墳は、神戸市東灘区御影塚町にある全長70mの前方後方墳で、前方部幅32m・高さ4m、後方部の幅39m・高さ7mほどあり、箱式石棺が出土。











写真は上から、神戸市東灘区の処女塚古墳公園、本古墳全景、本古墳と背景の六甲山、古墳の西側ビュー及び本古墳から出土した箱式石棺。

築造年代は4世紀前半と推定されている。1922年3月には国史跡に指定された。

主に山陰系土器が出土しており、石屋川流域に存在する郡家遺跡集落の一部とされている。

伝説では莵原処女(うないおとめ)の墓とされているが・・・。
本古墳の所在地から西約2000mの位置にある西求女塚古墳、東約1500mの位置にある東求女塚古墳、それぞれが処女塚古墳の方向を向いた形になっている。

昭和54年の発掘調査の結果、墳丘斜面での葺石の存在、前方部は二段構築であることが分かったと云う。又築造当時は海岸のすぐ側だったのではないかと考えられている。

万葉集や大和物語などに登場する、悲恋伝説の舞台として知られている。

菟原処女の悲恋伝説とは、
「この地に美しい菟原処女が住んでおり、多くの求婚者がいたが、特に熱心だった“血沼壮士”(ちぬおとこ)と地元の“菟原壮士”(うないおとこ)が武器を持っての争いとなり、乙女は立派な若者を自分のために争わせたことを嘆いて死んでしまった。

2人の若者もそれぞれ後を追って死んでしまい、それを哀れに思った人たちが、後々に語り伝えるために3人の塚を築いた、という伝説。」

この伝説は奈良時代の万葉集に登場する歌人たちが歌に詠んでいることから、かなり古い伝説であったらしい。

古墳の築造から、少なくとも400年以上が経過しており、古墳の主の名も分からなくなっていたに違いない。現在処女塚古墳を挟んで東西の求女塚古墳の名称もこの物語によって作られた可能性があると云う。





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