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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 千葉県市川市の“曾谷貝塚”とは!

2007年08月29日 | 歴史
曾谷貝塚は、曾谷春日神社の右手奥の台地上、住宅開発が進んだ住宅密集街の真中に所在する。
昭和54年に“国史跡”に指定されたが、関係者の努力・熱意が実り、東京に近いベッドタウン開発の中で、約42,000㎡に及ぶ土地が、開発されずに保存されるという奇蹟が起こった。



写真は、当貝塚遺跡現場。
写真のように、住宅密集地に残された田畑に今でも貝殻が散在し、当時の面影が浮かんでくる。

 直径約240mの大貝塚で、“加曾利貝塚”より大きく、特に昭和49年から53年にかけて6地点の発掘調査結果、数多くの新事実が判明した。
 縄文後期の住居址33棟・人骨20体や多くの祀り・祈りに関する遺物などが検出された。

又貝製の腕輪の材料として、縄文中期から後期にかけて5種類が使われ、時代により使う材料も異なり、貝輪は特定の職人によって製作されていたことを物語っていると云える。

曽谷縄文人の精神世界を物語る、いくつかの祭祀・儀礼用具を、以下の順番で紹介する。











写真は上から、豊満な土偶、スタンプ型土製品、朱で塗られた貝、異形台付土器、朱塗り土器など、祭祀・祈りに関する様々な儀礼用具が検出された。
貝の捨場として利用する前に、その場所に土器などを埋め、地の霊を鎮める儀礼が行なわれたと見られる。

 又成人・結婚・死などの節目に実施される通過儀礼は、当事者のためだけでなく、集団の仲間意識・結束を高めるためにも、恒常的に行なわれていたと考えられている。

一方祖霊崇拝も、集団の結束を図るための、効果的祀りとして行なわれていたと見られる。
曽谷縄文人も、超自然的存在に対する畏れ・崇拝の念から、必要に応じ儀礼用施設・道具などを作り、願望が実現されるよう各種儀礼が日常化していたと考えられる。


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