アイヌ文化は、13世紀頃に成立したと云われている。
北海道固有の擦文文化(7~13世紀)を継承しつつ、オホーツク文化(5~13世紀)と融合し、本州の文化をも摂取することで生まれたと考えられている。
擦文文化の影響では、土師器・須恵器などが日本海ルートを通じて北陸地方から流入し、住居も円形・楕円形から方形に変わり、栽培では米を含む雑穀類が住居内から数多く出土している。
オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化の影響では、海獣猟・漁労に重点が置かれ、発見された貝塚からは数多くの骨角器が出土している。
写真は、“サッポロピリカコタン”に展示された、アイヌ民族の典型的文様。
擦文時代の前に当る続縄文時代(紀元前後から8世紀)の土器の文様に似せた、アイヌの衣装に描かれた文様・アイヌ文様は、アムール川流域や樺太中部~北部の諸民族の文様とも類似しているらしい。
というようにアイヌ文化は、様々な文化との交流を経て形づくられ、バラエティーに富んだ文化の複合体と云える。
写真は、苫小牧市の“タブコブ遺跡”から出土した、続縄文時代のクマの装飾がついた土器。
オホーツク文化の影響を受けた、クマの骨塚や住居中央の長方形の炉などアイヌ文化の核心を持っている。
写真は、アイヌ習俗・“イヨマンテ”という霊送り儀式絵図及び“白老町アイヌ民族博物館”で演じられた、アイヌ古式舞踏の“イヨマンテ”。
特にクマを特別視する世界観があったが、これはアイヌ文化に共通するもので、アイヌにとって重要な“クマの霊送り儀式”は、オホーツク文化に源流があった可能性が高い。
叉アイヌ文化にとって欠かせないのが、本土からの移入品の影響であり、アイヌ文化を生んだ契機には、日本本土との交易が挙げられている。
多様な文化の影響を受けたものの、アイヌ文化のエッセンスには、“神(カムイ)”が大いに関わっている。
アイヌは人間を意味し、アイヌ民族は「自分たちに役立つもの」或いは「自分たちの力が及ばないもの」を“カムイ”と看做し、日々の生活の中で、祈り・様々な儀式を行っていた。
それらの神々には、火・水・風・雷などの自然神、クマ・キツネ・シマフクロウ・シャチなどの動物神、トリカブト・キノコ・ヨモギなどの植物神、舟・鍋などの物神、更に家を護る神・山の神・湖の神など、人間である“アイヌ”に対するものは、全て“カムイ”と看做されていた。
そして人間であるアイヌとは、「人間として知恵に富み、感性が豊かである」といった意味が込められた抽象的な言葉が、“アイヌ”であると云われている。
と云うことで、アイヌ文化の特徴は自然を崇拝し、自然のバイオサイクルで生活していたことにある。自然界をカムイとして謙虚に祈り、自然の恵みに感謝し、カムイとの互助精神で、自然を改造・破壊・汚染することなく生活してきた民族と云える。
しかし自然崇拝をモットーとしたアイヌ文化は、世界中の原住民が滅ぼされたように、私権社会との接点ができると、あっという間に滅ぼされてしまった。
北海道固有の擦文文化(7~13世紀)を継承しつつ、オホーツク文化(5~13世紀)と融合し、本州の文化をも摂取することで生まれたと考えられている。
擦文文化の影響では、土師器・須恵器などが日本海ルートを通じて北陸地方から流入し、住居も円形・楕円形から方形に変わり、栽培では米を含む雑穀類が住居内から数多く出土している。
オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化の影響では、海獣猟・漁労に重点が置かれ、発見された貝塚からは数多くの骨角器が出土している。
写真は、“サッポロピリカコタン”に展示された、アイヌ民族の典型的文様。
擦文時代の前に当る続縄文時代(紀元前後から8世紀)の土器の文様に似せた、アイヌの衣装に描かれた文様・アイヌ文様は、アムール川流域や樺太中部~北部の諸民族の文様とも類似しているらしい。
というようにアイヌ文化は、様々な文化との交流を経て形づくられ、バラエティーに富んだ文化の複合体と云える。
写真は、苫小牧市の“タブコブ遺跡”から出土した、続縄文時代のクマの装飾がついた土器。
オホーツク文化の影響を受けた、クマの骨塚や住居中央の長方形の炉などアイヌ文化の核心を持っている。
写真は、アイヌ習俗・“イヨマンテ”という霊送り儀式絵図及び“白老町アイヌ民族博物館”で演じられた、アイヌ古式舞踏の“イヨマンテ”。
特にクマを特別視する世界観があったが、これはアイヌ文化に共通するもので、アイヌにとって重要な“クマの霊送り儀式”は、オホーツク文化に源流があった可能性が高い。
叉アイヌ文化にとって欠かせないのが、本土からの移入品の影響であり、アイヌ文化を生んだ契機には、日本本土との交易が挙げられている。
多様な文化の影響を受けたものの、アイヌ文化のエッセンスには、“神(カムイ)”が大いに関わっている。
アイヌは人間を意味し、アイヌ民族は「自分たちに役立つもの」或いは「自分たちの力が及ばないもの」を“カムイ”と看做し、日々の生活の中で、祈り・様々な儀式を行っていた。
それらの神々には、火・水・風・雷などの自然神、クマ・キツネ・シマフクロウ・シャチなどの動物神、トリカブト・キノコ・ヨモギなどの植物神、舟・鍋などの物神、更に家を護る神・山の神・湖の神など、人間である“アイヌ”に対するものは、全て“カムイ”と看做されていた。
そして人間であるアイヌとは、「人間として知恵に富み、感性が豊かである」といった意味が込められた抽象的な言葉が、“アイヌ”であると云われている。
と云うことで、アイヌ文化の特徴は自然を崇拝し、自然のバイオサイクルで生活していたことにある。自然界をカムイとして謙虚に祈り、自然の恵みに感謝し、カムイとの互助精神で、自然を改造・破壊・汚染することなく生活してきた民族と云える。
しかし自然崇拝をモットーとしたアイヌ文化は、世界中の原住民が滅ぼされたように、私権社会との接点ができると、あっという間に滅ぼされてしまった。
ただハッキリしていることは、縄文人・アイヌ民族・琉球人のDNAが同じ叉はそれに等しいという点です。
実は小生が、縄文・アイヌ・琉球に大いなる関心を持ち、現在取組んでいるのも、その一点に尽きます。
アイヌ文化が何年頃からこの世に現われたのか、記録にもなくはっきりしていません。
特に北海道・東北北部は、稲作文化が届かなかった結果、弥生時代という時代区分がありません。
むしろこの時期でも縄文時代の生活文化、狩猟・漁労・採集を継続していましたので、北国では”続縄文時代”と呼んでいます。この後もオホーツク文化時代、擦文時代等、本土文化とは異質の、蝦夷地ならではの時代区分で古代史を区切っています。