近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

宝塚市の安倉高塚古墳とは!

2010年10月25日 | 歴史
今回、巨大粘土槨出土で、大いに話題になった、長尾山古墳に関連する古墳群について更に探索する。

先ず安倉高塚古墳は、宝塚市安倉南二丁目の、県道42号線安倉交差点から東50mの市道沿いにある、古墳時代前期の円墳。

本古墳、武庫川東岸にあたる洪積台地面の西端に立地する4世紀代の円墳で、直径16.5m・高さ2.5mを測り、宝塚市史跡に指定されている。

1937年に、道路工事で墳丘の南半分を削られた際、竪穴式石室が発見され、中から赤烏〔せきう〕7年鏡・内行花文鏡などが出土したらしい。

本古墳は、平成22年10月に、巨大な粘土槨が出土したことで話題となり、現地説明会も行なわれた、“長尾山古墳”と同じ前期古墳として、竪穴式石室を持つ。









写真は上から、断面模型のように残された、安倉高塚古墳の残存状況、同古墳正面の石積み断面、同古墳のシートで覆われた墳頂光景、取り残された巨大石材。

昭和12年に、道路工事で墳丘が破壊され、断面模型のような姿のまま今日に至っている。

同古墳主体部には、竪穴式石室内に割竹形木棺が納められ、 ?烏7年銘神獣鏡1面・内行花文鏡1面・碧玉製管玉3個・ガラス小玉2個などが出土した。



写真は、安倉高塚古墳から出土した、赤烏7年銘神獣鏡。

この四神四獣鏡は、白銅製の鋳造の、平縁の銅鏡で、径17.5cm・紐径3.4cm・紐高1.3cmを測り、呉の赤烏7年のものと見られる。

年号の最初の字は不明であるが、中国の年号で「烏」のつくものは呉の「赤烏(せきう)」のみであることから、当鏡は呉の紀年銘鏡と考えられている。

なお、赤烏7年は西暦244年に当たり、赤烏の年号を持つ呉の紀年銘鏡の出土例は、安倉高塚古墳出土鏡のほかに、山梨県西八代郡三珠町に所在する“鳥居原狐塚古墳”から出土した“対置式神獣鏡”(赤烏元年銘 238年)が知られるのみ。

これらの銅鏡は、卑弥呼が魏へ使いを送ったとされる、景初3年(239年)の時代に近く、3世紀代の中国で製作されたと見られる銅鏡の出土から、その入手経路や副葬された事情などを知る上で、叉古代史を解明する上で、欠くことができない貴重な資料。



写真は、安倉高塚古墳から出土した内行花文鏡。

内行花文鏡は日本で真似して作った、ほう製鏡で、径10.9cmだが、写真のように一部は欠損。
墳丘からも、鉄製の刀・矛・鍬などの破片と葺石・円筒埴輪などが出土しているらしい。

河原石積みされた、竪穴式石室は、全長6.3m・高さ60cm・幅75cmほどで、粘土床が残っていたと云い、朱も残っていたらしい。埋葬施設は、割竹形木棺を使っていたと推察されている。

竪穴式石室は、主軸を北東から南西の方向とし、壁に河原石を用いている。

出土した四神四獣鏡の銘文を復元すると「赤烏七年太歳在丙午、昭如日中、造作明竟、百幽 、服者富貴、長楽未央、子孫番昌、可以昭明、…」となるらしい。





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