近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

東京多摩市の古墳群とは!

2012年05月04日 | 歴史
東京多摩市の古墳群について、概観してみる。

西日本から始まった古墳造営は、畿内では3世紀中頃、東京都内では4世紀後半、そして多摩市内の古墳群は、更に200年ほど経った、6世紀後半~7世紀前半と見られている。

多摩川に沿った地域では、多くの古墳が見つかっており、下流域ほど古く、上流に向かうにつれ新しくなることが分かっているが、度重なる洪水被害から上流に移動したものと考えられる。

又古墳時代当時、多摩川下流域では、多摩丘陵の直下まで、海岸線が侵入していたと考えられている。



写真は、古墳時代の東京湾海岸線。

古墳時代当時、田園調布の亀甲山古墳近くまで海岸線が迫っていた。

又“あばれ川”多摩川の洪水は、記録があるものだけでも1589から1859年までの間に62回の洪水があつたと云う。

頻繁な洪水災害により、痕跡が残されていないこともあるが、多摩川下流域では、古墳時代に人が住んでいた形跡が認められない。

多摩丘陵上の古墳時代の開始は、田園調布の多摩川台公園内「亀甲山古墳」の全長約100m・後円部約90m・円の高さ約9mで、多摩川下流域の武蔵野の中心地が、この地にあつた例示といわれている。



写真は、多摩川市内を流れる大栗川。

多摩川市内では、多摩川に注ぐ大栗川の下流に沿った和田・百草の台地上に6~7世紀の古墳が集中している。

多摩市は、日野市と府中市の南にあり「多摩ニュータウン」と云う巨大住宅街が存在する、人口15万人ほどの都心のベッドタウンとして急発展してきた。

和田・百草地区の丘陵上には、稲荷塚古墳・臼井塚古墳・庚申塚古墳・塚原古墳群などが存在し、また、大栗川対岸には中和田横穴墓群・日野市の万蔵院台古墳群が所在する。

これらはまとめて和田古墳群と呼ばれ、都内でも有数の古墳群のひとつ。

昭和58年に野猿街道の拡幅工事に伴う発掘調査以降、塚原古墳群として、現在までに10基の古墳が発見され、その規模・埋葬施設・副葬品など貴重な発見が相次ぎ、未だ地下には古墳が眠っているものと思われる。

多摩市内の古墳は、稲荷塚古墳が全国的にも数少ない八角形墳であるほかは、全てが円墳で、周溝が巡らされ、溝の内側は盛土がなされ、その中央に埋葬する石室が設置される形態が一般的であった。




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