近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 はじめに

2007年04月15日 | 歴史
いよいよ本日から「歴史上著名人物の史蹟探索」という本題に戻し、今回は幕末から維新にかけての風雲児、第15代将軍・徳川慶喜(「慶喜」と略称)を取上げる。
慶喜の功績については、古今東西にわたり評価が分かれる。

慶喜に対するニックネームには、「卑怯者」・「二心殿」(変わり易い)・「豚一殿」(豚肉好きの一橋家慶喜殿の意)・「頑固者」等々、どちらかと言えば、汚名に属するマイナス評価が今日にも残る。

一方で、インテリ政治家、朝廷に対する忠義を貫いた一徹政治家、押しと引き・捨てる勇気・生き残りを賭けた政治力・機先を制するなど、知略・忍耐力には高い評価が与えられている。





写真は、慶喜の肖像及び晩年の写真。

慶喜を考える場合、幼年時から少年期にかけての生活環境、特に父・徳川斉昭と生母・有栖川宮王女登美宮吉子による厳しい英才教育、「水戸学」の思想・家訓など「水戸藩」で育った環境が慶喜の人格形成に大きく影響したと思われる。

歴史の大転換期に身をおいた慶喜は、前半生と後半生とは全く違った、いわば二度の人生を生き、特に後半生は苦悩・苦闘に満ちた前半生のご褒美のような、優雅な風流・趣味の世界にトップリ浸り、45年間の余生を堪能したと思われる。

「大政奉還」・「王政復古」・「江戸無血開城」を経て、1868年7月に齢31歳で蟄居し、水戸から清水港に入り、以降東京巣鴨に転居するまで、30年弱を駿府、現在の静岡市内で隠遁生活を送った。

折しも、個人的なかかわりではあるが、私の曾父も徳川幕府旗本として、江戸を追われ、慶喜はじめ多くの家臣・ファミリーと共に、生活の糧を求めて、駿府移住を選択したようだ。

当時2万人にも及ぶ幕府難民が一挙に駿府に移住したが、元々家康以来徳川幕府に縁が深い地元駿府住民の温かい支援・もてなしでは長続きせず、食糧難と共に、疫病の蔓延など不慮の衛生環境にも抗し切れず、多大な犠牲を余儀なくされた。

慶喜の優雅な生活とは対照的な、動乱からの復興・生残りをかけた、江戸難民の取組みについては後日詳述する。

と云うことでこれからしばらくの間、慶喜を中心に、幕末から維新にかけた激動の時代を時系列に沿って、史実・悲劇・秘話・逸話・著名人物像・戯言などを通じて、当時を振り返り、史実・歴史上人物の再評価、今日的新発見・教訓などを探索できればと念じている。




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