近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天皇あれこれー奈良県宝来町の安康天皇に纏わるストーリーとは!

2011年12月19日 | 歴史
安康天皇に纏わるストーリーを続けます。

そこで、安康天皇の父・允恭天皇陵を、以下紹介する。

大阪府藤井寺市の市野山古墳・允恭天皇陵は、国府台地の北端に築造された墳丘長約227m・後円部径約140m・前方部幅約160m・前方部の高さ23.3m・後円部の高さ22.3mほどの全国第20位の前方後円墳。

允恭天皇陵と呼ばれているが、陵名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)で、宮内庁によって第19代允恭天皇の陵墓に比定されている。









写真は、市野山古墳・允恭天皇陵の空撮、同入口光景、同天皇陵後円部から望む前方部光景、前方部から望む後円部方面光景。

允恭天皇は、17代履中天皇と18代反正天皇の弟で、「倭の五王」の内の「済王」とされている。

「宗書」倭国伝によれば、443年に倭国の済王が使者を派遣し、貢ぎ物を贈り、「珍王」をしのぐ「6国の諸軍安東将軍・倭国王」という高位に任ぜられたとある。更に451年には宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたと云う。

北に向いた前方部がやや開き気味なため、墳丘の周りに掘られた周濠の外肩もやや広がっている。墓山古墳や太田茶臼山古墳(継体陵)ときわめてよく似た平面プランで造られていて、規模もほぼ同じであるという。

その整美な外観は、古墳時代中期の代表的な墳形であると言われている。

出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされるが、近くに国府八幡神社、唐櫃山古墳・長持山古墳・衣縫塚古墳などがある。

前方部を北に向け、墳丘は3段築成で、くびれ部両側に造出しを備えている。周囲には幅25~40mの内濠と外堤、さらにその外側に溝をめぐらせている。

外側の溝は後円部や前方部側では確認されていないため、全周しない可能性がある。

この外堤の上部平坦面の幅はほぼ20mで、これは後円部側の周濠の幅約40mの半分に相当する。

さらに、外堤の外側に18m~20m幅の外周溝が存在したことが判明しており、この溝と堤で約40m幅の周庭帯を造っていたことになる。

外堤の周りに溝が掘られていたことから、二重周濠を持つ古墳ではないかとされているが、溝は0.6~2.0mと底が浅く、しかも南から北へ丘陵が大きく傾斜しているため、水を湛えていることはなかったとされている。

内部施設や副葬品については不明で、外堤上で円筒埴輪列は確認されていないが、外側の溝から埴輪が出土していると云う。





写真は、允恭天皇陵周濠外堤が民家に占領されている光景及び後円部外堤に建てられた民家群。

外堤の調査によって、この堤の上で奈良時代の遺構が見つかっている。

ということは、奈良時代には王陵として認識されておらず、当時から古墳の領域に人々が住み着いていたことを示している。





写真は、允恭天皇陵の宮の南陪及び国府八幡神社の桜木間から覗く同天皇陵の宮の南陪遠景。

本古墳は周囲に8基の陪塚が築かれている。1基の方墳以外は、すべて円墳か小型前方後円墳。

出土した埴輪は、窖窯(“あながま”と読み、登窯の意)で焼成された製品で、円筒埴輪のほか家・盾・靱・蓋・人物等の形象埴輪が出土している。

円筒埴輪の特徴は、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のものよりかなり退化が進んでおり、むしろ岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)のものに近いとされる。

従来の埴輪編年によれば5世紀末とされているが、最近では5世紀中葉とする説が有力。

これは倭の五王「済」の年代と近く、「済」を允恭天皇に比定する説が有力なことから、市野山古墳=允恭天皇御陵という宮内庁の考えも、あながち的外れではないのでは、と見られている。



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