近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅤ

2006年09月18日 | 歴史
次にわずか3年ほどの間に、ここ丹波に史実として残る、光秀公治世の功績を紹介する。
例えば堤防を築き、由良川の流路を変えて洪水を防ぐ治水・灌漑事業、楽市楽座を開くことによる商業の発展、地子銭(宅地税)免除の特権を与えることによる商業振興等々、民衆の高い支持を得ていたことが伝承に残されている。
折しも、戦国の当時、丹波では小豪族が割拠し、皇室領も収奪され、高い租税率と戦乱に生活を圧迫されていた民衆は救世主の到来を待ち望んでいたと云う。
将にグットタイミングで、丹波の国人と民衆に対して、光秀は常に穏やかに接し、民衆の立場で善政をしいたことにより、絶大なる支持を得たと云う。
この間、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、福知山音頭に今でも謡われるほど、広く・永く市民に親しまれている。





写真は上から、御霊神社の入口・本堂など全景・光秀に纏わる歌碑。
前述の点について、もう少し具体的に紹介すると、
先ず御霊神社創建の由緒は、光秀の御霊を慰め、その善政に感謝する庶民の心から生まれたと云う。
江戸時代元禄の頃には、火災・水害・地震などの災害が頻発し、人々はこれを光秀公の怨霊のなす所と恐れていたため。
ここ御霊神社には光秀が書いた古文書3点が残されているが、これらは市指定文化財として保存され、又この神社には光秀の霊も合祀されている。
又この神社には、光秀の功績を謳った讃歌が石碑に刻まれている。
「免税と決めて、光秀名を残し」と謳われた、”汀亭”の作品。



更に今日まで庶民とともに、生き長らえてきた“福知山音頭と踊り”は現在市指定文化財として親しまれているが、元々領民たちが築城の際、石材・木材などを城内に運ぶ時に、「ドッコイセ・ドッコイセ・・・・・・」と手振り、足振り面白く唄い出したのが始まりと伝えられている。
福知山音頭の歌詞については、光秀の善政を称え・偲んだものが多いと云う。
例えば「明智光秀丹波をひろめ、ひろめ丹波の福知山」とか、「お前見たかやお城の庭を
今が桔梗の花ざかり」など。



写真のように、当時の光秀の功績・史跡は福知山城資料館に多く残され、訪れる人々の心を捉え、和ませる。
逆臣の汚名を被せられた光秀を、祭神として祀った町衆の行動は、光秀に対する特別な思いの帰結であったと云える。


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