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大化改新の立役者、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が初めて出会った場所「飛鳥寺西の槻の樹の広場」とみられている奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、7世紀中頃~後半の石敷きが見つかり、村教委が平成25年1月30日に発表した。
調査地は飛鳥寺西門の西にある「入鹿の首塚」のすぐ西側。当時の西門の西方約40mに位置する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/9b/bd1e8b452c65a44e78ac1cb04f097130.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/7a/f133e79f7da91b04635fa773fae4b97c.jpg)
写真は、大化改新立役者の敷石跡発掘現場及び敷石跡の拡大光景。
石や砂利を隙間なく丁寧に敷き詰めており、明日香村教委は当時の皇族・貴族らが饗宴や儀式を催した広場にふさわしい空間としている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
石敷きはこれまでも確認されていたが、今回は東西15m・南北24mの広範囲にわたって出土。
このうち東西6m・南北10mの範囲には、15~25cm大の平らな石を精巧に敷き詰め、周りには3~10cm大の砂利を敷いていた。
過去の調査から同遺跡は東西約120m・南北約200mと確認されており、周辺にもさらに石敷きが広がっていた可能性が高い。
また、写真のように、石敷きには石のない円形の部分が2か所あった。
拳大石の石敷きの中央では直径1・9mの範囲で石敷きが欠落。内側は石敷きが整備された後に人為的に掘り込まれた直径約1・5m・深さ40cmの穴があった。
調査区東側では直径3m以上・深さ1・6m以上の穴も見つかった。どちらの穴も性格は不明。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
日本書紀で、広場にあったとされる「槻(ケヤキの古名)」などの木の根や、建物の柱の痕跡は今回見つからなかったという。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
大化改新の立役者、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が初めて出会った場所「飛鳥寺西の槻の樹の広場」とみられている奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、7世紀中頃~後半の石敷きが見つかり、村教委が平成25年1月30日に発表した。
調査地は飛鳥寺西門の西にある「入鹿の首塚」のすぐ西側。当時の西門の西方約40mに位置する。
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写真は、大化改新立役者の敷石跡発掘現場及び敷石跡の拡大光景。
石や砂利を隙間なく丁寧に敷き詰めており、明日香村教委は当時の皇族・貴族らが饗宴や儀式を催した広場にふさわしい空間としている。
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石敷きはこれまでも確認されていたが、今回は東西15m・南北24mの広範囲にわたって出土。
このうち東西6m・南北10mの範囲には、15~25cm大の平らな石を精巧に敷き詰め、周りには3~10cm大の砂利を敷いていた。
過去の調査から同遺跡は東西約120m・南北約200mと確認されており、周辺にもさらに石敷きが広がっていた可能性が高い。
また、写真のように、石敷きには石のない円形の部分が2か所あった。
拳大石の石敷きの中央では直径1・9mの範囲で石敷きが欠落。内側は石敷きが整備された後に人為的に掘り込まれた直径約1・5m・深さ40cmの穴があった。
調査区東側では直径3m以上・深さ1・6m以上の穴も見つかった。どちらの穴も性格は不明。
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日本書紀で、広場にあったとされる「槻(ケヤキの古名)」などの木の根や、建物の柱の痕跡は今回見つからなかったという。
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