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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県で弥生時代のエノキの切り株発見・展示!

2013年07月25日 | 歴史
約2400年前の弥生時代前期のエノキの切り株が、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館で無料展示されている。

話題のエノキ株は、3年前、奈良県御所市の水田跡の隣から200本以上の埋没林の一つとして見つかり、約3年の保存処理を経てようやくお目見えとなった。切り株の幹は直径約80cmで、重さは約1.1tもあるらしい。
弥生人が火や石器を使って切った跡も残ると云う。





写真は、弥生時代のエノキ切株と橿原考古学研究所付属博物館に展示された同切株。

切り株には火を押しつけて黒く炭化した跡も発見。弥生人が切ったと思えば感動も一味違う。

博物館の人気展示物として根付きそう?

切り株は、平成22年の橿考研の発掘調査で、洪水による砂に覆われた状態で出土したと云う。

高さ1m・重さ1.1t・直径80cmで、根を含めた最大幅は5mに達する。根元付近を焼きながら石の斧でたたいて切り倒したとみられる。

調査で掘り出された後、奈良県生駒市の元興寺(がんごうじ)文化財研究所が合成樹脂で補強する保存処理を進めていた。

処理が完了したため、同博物館の玄関ホールで平成25年3月20日から特別展示されている。

平安貴族邸宅跡地の9世紀後半土器に最古級の平仮名発見!

2013年07月01日 | 歴史
昨今の遺跡の中から、一大新発見について、以下更に続けます。

京都市中京区の平安京跡にある平安時代の有力貴族の邸宅跡で見つかった9世紀後半の土器片から、多数の平仮名を記した墨書が見つかったと、同市埋蔵文化財研究所が平成24年11月に発表した。





写真は、今回国内最古の平仮名文字が発見された土器片とそこに刻まれた平仮名文字の解読。

平仮名は勅撰和歌集「古今和歌集」や「土佐日記」が編集された10世紀前半に確立したと考えられてきたが、平仮名が通説より半世紀程度早く完成したことを示す一級の発見で、完成された平仮名の文書としても最古とみられる。

土器片は、右大臣を務めた藤原良相(813~67年)邸跡で出土した。

平仮名は書風から複数の人物が記したとみられ、文字列の多くは意味が不明だが、鑑定によると、皿の裏にある「ひとにくしとお□はれ」は「人憎しと思われ」と読めるという。

別の皿には「かつらきへ」という墨書もあり、当時、宮中で歌われた神楽歌の一節にある「葛城へ」という句とみられる。

毎日新聞は更に続ける。
「貴族の館での供宴に使われたのでは」「呪術的な性格を感じる」等々。

京都市中京区の平安貴族の邸宅跡から見つかった最古級の平仮名による大量の文字が書かれ、解読に当たった専門家の間では、その中身を巡って半年以上も熱い議論が交わされたらしい。

しかし解明できたのはごく一部。多くは謎のまま残ったが、専門家は「研究は急速に進むだろう」と期待を込めた。

皿や高坏(たかつき)に書かれた文字を目にした国語学研究者は、「流れるような筆致にびっくりした」と話す。

しかし、多くの資料が残る10世紀以降の平仮名とは崩し方が異なり、解読は難航。

国宝や重要文化財級の古筆の写真集などを手がかりに一字一字検討していると云う。

9世紀後半の赤田(あかんだ)遺跡(富山県射水市)の調査に関わった富山大教授(日本古代史)は、「平安貴族の館で供宴を開く際、皿に和歌を書いて楽しむことがあった。

今回もそれに使われた可能性がある」と指摘。「古今和歌集(905年)を代表する六歌仙、例えば在原業平(825〜880年)と同時代の教養人が、どんな字を書いていたかがうかがえる第一級の資料だ。

解読に加われたのは学者冥利に尽きる」と興奮を隠せない様子であったという。

土器が出土したのは、平安時代前期の右大臣・藤原良相(ふじわらのよしみ)(813~867)の邸宅跡(京都市中京区)。庭の池から墨で文字が書かれた土器約90点が見つかり、うち約20点にひらがなや、漢字が崩れてひらがなになる途中の「草仮名(そうがな)」が多数書かれていた。

大半は良相が没した867年前後のものとみられる。

1枚の皿(直径13.5cm)の裏には約40字が書かれていた。「け」「あ」「ら」「と」「は」などは現在と同じ形。

今後の更なる研究成果が待たれる。



縄文時代にも大規模な彗星衝突か?

2013年04月21日 | 歴史
2013年2月15日にロシア連邦ウラル連邦管区のチェリャビンスク州付近で発生した隕石の落下という天文現象と、隕石の通過と分裂により発生した衝撃波により引き起こされた自然災害が発生したことは記憶に新しい。

天文上の自然災害と云えば、6500万年前に小惑星の衝突がチリを舞い上げ、気候変動をもたらし、恐竜が絶滅したことは定説になっているが、日本では縄文時代に当たる1万2900年前にも、同様な彗星などの空中爆発か衝突が北米であったらしいことがわかった。



写真は、彗星が地球に衝突したイメージ。

この時期には、急速な寒冷化や人口減少が起きており、人類はすでに破滅的な天体衝突を経験していたことになる。

米科学アカデミー紀要にメキシコや米国などの研究チームが発表する論文によると、チームはメキシコ中部のクイツェオ湖にある1万2900年前の地層を分析。

通常は見られない、急激な加熱と冷却によりできたダイヤモンドの微粒子などが含まれていたことから、山火事や火山噴火ではなく彗星などの空中爆発や地上への衝突が起きたと結論づけた。

1万2900年前は、ヤンガー・ドリアス期と呼ばれる寒冷期が始まったころで、気温低下が続き、北米では人口が減少したり、大型の哺乳類が絶滅したりしたことがわかっているらしい。


青森県蟹田町の大平山元遺跡とは!

2013年04月08日 | 歴史
東北地方の旧石器時代遺跡第二話をお届けします。

青森の大平山元遺跡群は、津軽半島中ほどの蟹田町西外れに所在し,旧石器時代(約16,500年前)から縄文草創期(約13,000年前)にかけての遺跡。

昭和46年に発見された一本の磨製石斧がきっかけとなり,発掘調査の結果,旧石器時代末期の特徴的な磨製石斧と同じ包含層から土器片が検出された。

土器を伴わない段階と見られていた,旧石器末期に土器が発見されたことから“歴史的事件”として大いに注目された。





写真は、大平山元遺跡現場。

大平山元Ⅰ遺跡は私有畑地にあり、文様の全くない親指大の土器片が30点ほど検出され、他方大平山元Ⅱ遺跡は八幡宮境内にあり、地層・石器形態から約16,000年前のモノと見られる、数多くの石器類のほか、石で囲った炉跡・焼け石なども見つかっている。

これらの発見は東北縄文文化の幕明けを物語る一大発見として脚光を浴びた。











写真上から、 石斧など石器類、槍先形尖頭器、削器、石刃及び両面調整石器など。

これらの石器類は大平山元Ⅱ遺跡から出土した旧石器時代のもので、遺跡現場付近から採取できる頁岩製で、今日でも境内の地表面から当時の石器片が顔を出していると云う。
石器工房跡かもしれない。

当時の人々の生活痕跡が窺い知れる。





写真は、石器類と土器片。

大平山元Ⅰ遺跡から出土した土器細片は、無文で隅丸形の平たい底部を持つ鉢形土器と見られ、これまで日本列島各地に分布していた、口縁部に「隆起線文」を持つ縄文草創期の土器とは異なる。

むしろ縄文草創期の隆起線文付土器に先行する祖源的土器と見られ、同一地層から出土した石器と見合う旧石器時代末期の土器と考えられる。

日本最古段階の土器と考えられ、樺太・北海道経由の北方ルートを辿り、遠くシベリアに土器起源を求める可能性を示すものとも云えるが、未だ大陸側には1万年以上古い土器の発見例がないと云う。

いずれにしても津軽半島には縄文文化黎明期を受け入れる文明力が十分備わっていたことを意味する、極めて貴重な発見であった。




旧石器遺跡:青森で史跡指定へ 発掘捏造後は東北初!

2013年03月20日 | 歴史
数年前、発掘捏造問題でゆれた、東北地方に真の旧石器遺跡が見つかったストーリーを、2話に分けて紹介します。

東北旧石器文化研究所(解散)の元副理事長による発掘捏造問題に絡み、宮城県大崎市の「座散乱木遺跡」(ざざらぎいせき)の国史跡指定が2002年に取り消された後、東北地方では初めてとなる旧石器遺跡の史跡指定を、文化庁が検討していることが平成24年5月に分かった。

対象は、後期旧石器時代から縄文時代草創期にまたがる青森県外ケ浜町の「大平山元遺跡群(おおだいやまもと)」。

捏造を見抜けなかった教訓を踏まえ、庁内に設置した有識者検討会で遺物の年代測定などの科学的検証や指定範囲の検討を進め、文化審議会に諮問すると云う。

東北の旧石器研究は、史跡指定の取り消しや日本史教科書からの記述削除などで一時信頼が揺らいだ。

この遺跡から発掘された縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で16,500年前とされ、世界最古の縄文土器と言われている。



青森県蟹田町の大平山元Ⅰ遺跡現場の最新画像。

外ヶ浜町山元地区にはI〜IV遺跡、墓地公園遺跡などいくつもの縄文遺跡が発見されているが、このうち太平山元I遺跡が縄文時代草創期の遺跡である。

これらから出土した石器や土器は、大山小学校の跡の大山ふるさと資料館に保存されて、自由に見学ができるようになっている。

太平山元I遺跡は、現在は民家と民家の間に挟まれた狭い空き地にある。田圃の近くにあるため、縄文時代には湿地帯のすぐ近くの小高い場所だったと思われる。

太平山元I遺跡からは石斧や石核、石鏃などの石器も発掘されている。

ほとんどの石器の材料は地元の川から採れる頁岩からできているが、中には青森県鰺ヶ沢町から持ってきた黒曜石からできている石器もある。

沖縄石垣島で国内最古の人骨発見!

2013年03月09日 | 歴史
史跡・遺跡の最新情報紹介を続けます。

国内最古の人骨が、沖縄・石垣島の洞穴から出土した。

沖縄県教育庁などが発掘調査した、石垣島の洞穴で発見された人骨片が、放射性炭素年代測定法で分析した結果、約2万~1万5千年前の旧石器時代のものであることが分かった。

沖縄本島で出土した山下町第1洞穴人(約3万2千年前)や港川人(約1万8千年前)の骨は、一緒に発掘された炭化物を分析し年代を推定した。





写真は、国内最古の人骨発掘現場及び今回発見された約2万年前の人骨。

今回出土した骨片は、直接分析したものとしては日本最古。直接分析でこれまで日本最古とされていた約1万4千年前の静岡県浜北市(現浜松市)の浜北人を6千年さかのぼる。

東大大学院が放射性炭素年代測定法で分析し、20代~30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、性別不明の成人の中足骨が約1万8千年前、成人男性の腓骨が約1万5千年前のものとそれぞれ判明した。

沖縄県などによると、洞穴では2007年から09年にかけ、約1万4千年前のものとみられるイノシシの骨とともに、人骨9点が出土。うち6点からタンパク質のコラーゲンを抽出したと云う。

洞穴は建設中の新石垣空港の予定地内にあり、人類学の専門家は「日本人のルーツを探る上で画期的な発見だ。今後も洞穴を継続して調べる必要がある」と指摘している。


棺運ぶため周濠を渡る橋の跡か?…堺市のニサンザイ古墳

2013年02月28日 | 歴史
ここでは、又貴重な新発見のお知らせです。

世界文化遺産の国内候補「百舌鳥・古市古墳群」に含まれる堺市の前方後円墳、ニサンザイ古墳の後円部付近で、周濠を渡るための橋の跡とみられる柱穴が見つかったと、堺市が平成25年2月21日発表した。





写真は、ニサンザイ古墳で見つかった柱穴跡及び復元した橋脚想像図。

ニサンザイ古墳後円部の裾と対岸の堤を真っすぐ結んだ長さ約40メートルの橋があったと推定され、他の古墳では例のない遺構という。

専門家は「被葬者の棺を運ぶために造られた橋では」とみている。

市文化財課によると、柱穴は後円部の裾で25個、周濠で4個を発見。古墳の中心線に沿って整然と並び、柱とみられるクヌギ材(直径約20センチ)も一部残っていたと云う。

同課は周辺の堆積物や地層から古墳築造時のものと判断。周濠に木製の橋が架かっていたとみている。

ニサンザイ古墳は、全長約290mの巨艦のような大型前方後円墳にもかかわらず、宮内庁による大王墓に比定されないまま、陵墓参考地扱いのため、拝所も設けられず、民家や市民公園が隣接している情況。

ニサンザイ古墳は「反正陵」とする伝承が、地元では伝わっていたと云う。

現在、宮内庁はこの古墳を、天皇陵の可能性あるとして、陵墓参考地に指定して管理しているが、主体部の構造や副葬品を確認できないため。

現在反正天皇陵に治定されているのは、田出井山古墳だが、ニサンザイ古墳は田出井山古墳に比べて4倍近い面積を占め、大王陵としてふさわしい。



箸墓古墳に立ち入り調査「墳丘に土器の破片散乱」!

2013年02月25日 | 歴史
又ビックな古墳情報が飛び込んできた。
邪馬台国論争に一石を投じそうな、歴史的には画期的試みと考えられる。

邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(全長約280m)で平成25年2月20日午前、日本考古学協会など15学協会の研究者16人が初めて立ち入り調査に入った。陵墓指定している宮内庁が調査を認めた。

邪馬台国論争に絡んで注目度の高い古墳で、古代史解明に欠かせない陵墓研究にとって大きな一歩となった。

何より今回、箸墓古墳を調査できたことが大きい。日本列島で最初に築かれた大型の前方後円墳だから。

築造の時期は3世紀半ばとみられ、「魏志倭人伝」では西暦247年ごろ亡くなったとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の墓の可能性が指摘される。

今回踏査では表面が葺石で覆われている様子などが確認された。







上野写真は、箸墓古墳の最新画像と今回初の立入調査光景。散乱した葺石が散見される。

箸墓古墳は最古の巨大前方後円墳で、ヤマト王権最初の王墓とも考えられている。宮内庁は孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理している。

今回は発掘や採取はできず墳丘の最下段を歩くだけだが、立ち入った研究者たちは過去の知見を検証し、新知見を探した。

調査に入った研究者は「1972年の高松塚古墳の発掘以来の感動を覚えた。東アジアの巨大古墳の出現を考える上で基準となる古墳で、入れた意義は大きい。日本の考古学にとって重大な成果だ」と話した。

陵墓は古事記、日本書紀などの文献を基に、江戸時代末期から明治時代に指定され、現在740カ所あるが原則立ち入りが禁止されてきた。

一方、研究者の間では、文化財としての側面から学術調査を望む声が絶えなかった。宮内庁は1979年以降、陵墓の補修に伴う発掘調査の見学などで年1回程度、限定公開してきたが、宮内庁外の研究者が主体となる調査はほぼ無かった。

15学協会は2005年、11カ所の陵墓の立ち入り調査を要請。宮内庁は2007年に内規を変え、条件付きで立ち入りを認めた。

以後、2008年の神功皇后陵(奈良市、五社神古墳)から毎年行われるようになり、今回で6回目となる。

箸墓古墳の立ち入りを現地で見守った研究者は「1880年に立ち入りが禁止されてから約130年ぶりに入ることができ、この時を考古学者がどれほど待っていたか。ようやくここまできた」と評価した。

研究者は同日午後、卑弥呼の後継者、台与の墓との説がある奈良県天理市の西殿塚古墳も立ち入り調査する。

宮内庁は陵墓(天皇や皇族の墓)への一般の立ち入りを禁じており、研究者の要請で同古墳に入ることが認められたのは初めて。学会の要請による陵墓や、その候補である陵墓参考地の立ち入り調査は8カ所目。

最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳の前方部は、県立橿原考古学研究所などが航空レーザー測量で作製した立体図から、3段構成の可能性が高いとされていた。

しかし、研究者は立ち入り調査後、「実際の様子や後円部との関係から、前方部も4段だった可能性が高い。

中で目視できたのが大きかった」と指摘した。また、「周囲を歩くと石が累々としており、古墳全体が石で覆われていた可能性が高い」と話した。



奈良県明日香村で大化改新の立役者「出会いの場」に精巧な石敷発見!

2013年02月18日 | 歴史
最新の史跡情報を、引続きご案内します。

大化改新の立役者、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が初めて出会った場所「飛鳥寺西の槻の樹の広場」とみられている奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、7世紀中頃~後半の石敷きが見つかり、村教委が平成25年1月30日に発表した。

調査地は飛鳥寺西門の西にある「入鹿の首塚」のすぐ西側。当時の西門の西方約40mに位置する。





写真は、大化改新立役者の敷石跡発掘現場及び敷石跡の拡大光景。

石や砂利を隙間なく丁寧に敷き詰めており、明日香村教委は当時の皇族・貴族らが饗宴や儀式を催した広場にふさわしい空間としている。

石敷きはこれまでも確認されていたが、今回は東西15m・南北24mの広範囲にわたって出土。

このうち東西6m・南北10mの範囲には、15~25cm大の平らな石を精巧に敷き詰め、周りには3~10cm大の砂利を敷いていた。

過去の調査から同遺跡は東西約120m・南北約200mと確認されており、周辺にもさらに石敷きが広がっていた可能性が高い。

また、写真のように、石敷きには石のない円形の部分が2か所あった。

拳大石の石敷きの中央では直径1・9mの範囲で石敷きが欠落。内側は石敷きが整備された後に人為的に掘り込まれた直径約1・5m・深さ40cmの穴があった。

調査区東側では直径3m以上・深さ1・6m以上の穴も見つかった。どちらの穴も性格は不明。

日本書紀で、広場にあったとされる「槻(ケヤキの古名)」などの木の根や、建物の柱の痕跡は今回見つからなかったという。


邪馬台国説で沸いた吉野ヶ里遺跡が26年間の発掘調査を終えた!

2013年02月12日 | 歴史
最新の史跡・遺跡情報を引続きご案内します。

佐賀県の吉野ケ里遺跡で、県教育委員会が昭和61年以来、4半世紀にわたって続けてきた発掘調査が平成24年9月に終了した。

同遺跡の発掘で熱を帯びた邪馬台国論争は、いまだ決着していない。

発掘調査後期の発見が、邪馬台国の女王卑弥呼(生年不明~248年ごろ)の居所に「宮室」「楼観」「城柵」があったという中国の史書「魏志倭人伝」の記述と符合したため、1989年以降、大きな注目を集めてきた。

邪馬台国の所在地については現在、全国で少なくとも30カ所ほど説がある。有力候補地として「畿内説」の奈良県・纒向遺跡があるが、吉野ケ里遺跡を含む「九州説」も根強い。

纒向遺跡には、卑弥呼の墓との説がある前方後円墳があり、3世紀前半では国内最大の高床式建物が2009年に見つかっている。





写真は、吉野ヶ里遺跡公園のマップ及び復元された「北内郭」(手前)と物見やぐらなど弥生時代後期の集落跡、平成24年9月29日、佐賀県吉野ケ里町で。

今後は約2万点に上る出土品を分類して年代測定などを実施し、平成26年に調査報告書をまとめると云う。

遺跡では弥生時代前期から後期の集落跡が見つかり、ムラからクニへと発展する様子が確認された。

前期(紀元前5~前3世紀)は、青銅器を鋳造する道具の断片が出土。

中期(紀元前2世紀~前1世紀)では、巨大墳丘墓や約3千基の甕棺墓から頭部を切り取られた人骨など戦闘の犠牲者とみられる被葬者が見つかっていた。

東京新宿ど真中の市谷で発見された縄文人骨とは!

2013年02月04日 | 歴史
縄文遺跡を追いかけているファンにとって、とんでもないホットニュースが飛び込んできました。

東京都新宿区役所は1月30日に、市谷住宅街のマンション建設予定地から約4千年前の縄文時代のものとみられる11人分の人骨が見つかったと発表した。





写真は、東京新宿区の市谷遺跡発掘現場の光景とマンション建設予定地から見つかった約4000年前の人骨の様子。

見つかった人骨のうち、7人分は保存状態がよく、新宿区は縄文人の暮らしぶりが分かる貴重な資料としている。

当時の縄文人の顔立ちを調べるため、顔を復元することも検討しているらしい。

同区によると、現場は新宿区市谷の住宅街で、昨年11月、マンション建設のため民間業者が発掘調査し、人の脚の骨を発見しビックリ仰天。

その後、約300㎡の地中から縄文式土器とともに次々と人骨が見つかったと云う。

埋葬されていたとみられるが、近くに竪穴住居の跡もあったらしく、縄文ムラの一角であったと想像される。

国立科学博物館が一部の骨を鑑定した。付近は武蔵野台地と呼ばれ、骨が溶けやすい酸性の土壌にも拘わらず、今回の一大発見に至ったことに対して、新宿区文化観光課の担当者は「貝塚などを除き、整った人骨が見つかるのは珍しい」と話している。

新宿区の防衛省近くの住宅街から、11体もの縄文時代の人骨が見つかったとは本当に信じがたい。

これまで関東平野で見つかった縄文時代の人骨は、海に近い貝塚から出土したものばかりだが、今回の現場は海岸線から離れた台地上であり、当時の地形にも想いを馳せる。

新宿区の担当者は、「大変珍しく、保存状態もいいので貴重だ」と興奮気味だったらしい。

今後の更なる珍発見に期待したい。



山形県舟形町の西ノ前遺跡の土偶、国宝に認定申請!

2013年01月30日 | 歴史
最新の遺跡関連トピックスをお知らせします。

文化審議会は平成24年4月、山形県舟形町の西ノ前遺跡から出土した縄文時代中期の土偶と、中国の宋時代画家・僧の普悦が描いた仏教絵画「阿弥陀三尊像」の2件を国宝に指定するよう、文部科学省に答申した。

安国寺(大分県国東市)の「木造足利尊氏坐像」など46件の重要文化財指定の答申も行った。これで美術工芸品の重文は1万478件、うち国宝は868件となる。

国宝の中でも、土偶は高さ45cmで、日本で見つかった全形が分かる土偶の中では最も大きい。

約4500年前に作られたとみられる。デザイン性の高い女性像で、当時の造形技術の高さを示す代表的な資料。

阿弥陀三尊像は希少な南宋以前の絵画で表現力の完成度が高く、東アジア仏教絵画史を考える上で不可欠な作品としている。

☆全身が復元できた土偶には、生命再生への願い・祈りが込められていた!

この土偶は縄文人の姿・形・服装・髪形・顔・手足・表情など様々で各々に個性を創り込んでいる。

土偶の創られた目的は、負傷・疾病などの災い除けとか、出産・繁殖・生産への祈りを表現した等の説があるが、目的・用途は多彩であったと考えられる。

しかしほとんどの土偶はバラバラな断片や残欠状態で発見されていることから、何らかの儀式の後でわざと壊して再び復元できないよう距離を置いて捨てたように考えられる。



写真の造形は、山形県舟形町の西の前遺跡から出土した、約4,500年前の“縄文のヴィーナス”と云われる。
背の高さが45cmもあり、日本最大級の土偶で、今回国宝指定を申請した逸品。

姿・形が美術的・芸術的に優れ、全国的に注目された。

“縄文のヴィーナス”は頭・洞・腰・右足・左足の5つの断片が2.5mの範囲内で見つかったため完全に復元できたと云われる。



世界最古、2万年前の土器 中国で発見、料理に使う?

2013年01月22日 | 歴史
世界規模での最新の発見について、更に続けます。

中国江西省の洞窟から見つかっていた土器のかけらが、土器としては世界最古の2万年前のものであることを北京大などの研究者らが突き止めた。

これまでの最古級とされた中国の土器や日本の縄文土器よりも2千年ほど古いという。
2012年6月29日付の米科学誌サイエンスに発表した。



写真は、中国で見つかった2万年ほど前の土器片。

研究グループは、1960~90年代に旧石器時代とみられる土器のかけらが見つかった揚子江の南100kmの仙人洞という洞窟で、2009年に発掘を始めたと云う。

動物の骨の放射性炭素を使った年代測定を行うなどして、土器の出た地層の成り立ちを調べたらしい。

その結果、一部の土器は2万年前までさかのぼることがわかった。土器には料理に使ったような焼け焦げた跡があるという。

最古の土器が作られた年代は最終氷河期の最中で、食糧が少なかったことから、グループは「土器で料理をすれば、デンプンから豊富なエネルギーを得られる。食糧も貯蔵できる。気候変動が東アジアでの土器の発明につながったのでは?」と推測している。


アイヌ民族のDNAは関東よりも沖縄の人と近い!

2012年12月30日 | 歴史
ここでは、日本人のルーツを探ります。

北海道のアイヌ民族は地理的に近い関東よりも、沖縄の人たちと遺伝的に近いことがDNA解析から証明されたとする研究成果を、東京大学や国立遺伝学研究所などで作る「日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム」がまとめた。

北海道と沖縄では、日本列島に古くから住んでいた縄文人と渡来の弥生人の混血が一部にとどまり、縄文系の人々が残ったとする「二重構造説」を裏付ける成果という。

平成24年11月、日本人類遺伝学会誌(電子版)に発表されたが、当研究チームはアイヌ民族36人と、3世代以上続く沖縄出身者35人の遺伝情報を詳細に調べ、DNAのわずか1文字(1塩基)の違いを約60万か所にわたって分析。





写真は、北海道白老町アイヌ民族博物館の古式舞踏メンバー及び沖縄八重瀬町役場で考古担当の女性。両者の特徴は、丸顔で彫りが深い顔立ち。

すでにデータとしてそろっている関東に住む243人と比較し、アイヌ民族は沖縄出身者により近いことを確認した。こうした傾向はこれまでも示されていたが、データが少なく結論は出ていなかった。

ところで、日本人の先祖をたどる方法として、母親からしか受け継がないミトコンドリアという一種の細菌のDNAを調べる方法があるらしい。

その方法で人類のルーツはアフリカにあるという結果が出たと云う。

 
アフリカで肌の黒い人類が生まれたと仮定します。その中から肌の色が褐色の人種が生まれたとすると、肌の色の違いが諍いの原因となることは十分に考えられる。

肌の色の同じ者同士は親近感を覚えて子供を産み、やがて人数が増えすぎて世界中に移動したと考えるのが自然だ。

しかし、一日に移動できる距離はせいぜい30km。毎日歩いても1万キロ先へ進むには1年はかかる。そんな先を目指して進むことが出来るのは元の世界では暮らせなくなり、未知の世界へ希望を託したことになる。

ちょうど、今から1万年くらい前までは氷河期の時代であったため、温暖化と反対に降った雪が海に流れず循環が少なくなって海水の水位が下がると、至る所が陸続きになって移動可能になった。



写真は、日本人の流入ルート。 

世界中の先住民と呼ばれる人種はこのころに世界中に散って住み着いたものと考えられる。

中央アジアやアメリカ大陸には驚くほど日本に似た人達が住んでいるが、アメリカの先住民であるアメリカン・インディアンにもどこか親近感を覚える。

ちなみに白人は世界中に散った黄色人種の突然変異ではないかと考えているが、これは人種の系統図からも先にアフリカ人が分岐し、その後で白人と黄色人種が分岐していることからも納得が行く。

白人は中央アジアで生まれ、今の欧州地域に移り住んだと言う説もあるが、いきなり金髪で肌が白く目の色が青い人種が生まれると宇宙人のようにも思えたに違いない。

ところで、日本列島に住み着いた遠い日本の先祖は狩りなどをして暮らす縄文人であったが、弥生時代になると、地球自体が寒くなる小氷河期を迎え、さらに寒いところに住んでいた北方民族が暖かいところへと当時陸続きだった日本に移り住んだものと考えられる。

そのとき一緒に稲作の技術と一重まぶたという遺伝子を持ってきて縄文人との間で混血が進むことになり、弥生人は主に西日本に広がり、南西諸島や北海道まではやってこなかった。

従って混血の進んだ日本の本土人と南西諸島に住む琉球人、東日本に住んでいたアイヌ人は、縄文時代の特徴である彫りの深さ、二重まぶたなどの特徴を残すことになり、明らかに違う。
 
江戸時代になって都を東に移し、日本国内で人の移動が多くなったため最近は区別が難しくなって来たが、古くからそれぞれの土地に残る方言や食文化などは、不思議に東西で違っている。

日本遺伝学研究所のホームページによると、どこからやってきたかによって、ミトコンドリアDNAの調査結果に差がでるらしい。

なみに韓国と本土日本ではその差がゼロらしい。また別の調査結果によると、弘前、秋田、仙台には白人と同じウィルスを持った人達が1,2割ほどいるため、そのルーツは白人ではないかという報告もある。

しかし、混血が進んだ日本にとって、日本人は日本語という共通の言語文化を持つが故に日本人であり、それがために日本人は日本で生まれたとする根拠はここにあるようだ。


国内最古、縄文期のイヌの骨と確認 愛媛の遺跡で出土!

2012年12月27日 | 歴史
ここからは、最近の犬事情について検証してみたい。

愛媛県美川村久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で50年前に発見された2体のイヌの骨は、埋葬例としては国内最古の縄文時代のものと確認されたと云う。



写真は、上下と側面から撮影した2体のイヌの頭骨。

慶応大の動物考古学の先生らが放射性炭素を使って年代測定した。日本列島でイヌと人がいつからどう関わってきたかなどを解明する重要な手がかりになりそうだ。

同大日吉キャンパスでの日本人類学会大会で発表されたが、2体のイヌの骨は、1962年の発掘当初から、縄文時代早期(9千年前ごろ)の「日本最古の埋葬犬骨」と言われてきた。

その後行方不明になり、詳細な調査ができなかった。

ところが昨春、同大三田キャンパスの考古資料収蔵庫で見つかり、調査の結果、縄文時代早期末から前期初頭(7300~7200年前)のものと分かった。

同大教授陣は「縄文時代にイヌは狩猟に使われていたと考えられているが、国内で埋葬犬の骨自体を年代測定した前例は聞いたことがない」と話している。