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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その6

2014年06月02日 | 歴史
最後に、雄略天皇の足跡を尋ねて、当シリーズを総括したいと思います。

457年、安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である雄略は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王及びその協力者である坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ、允恭天皇の皇子)を攻め、更に履中天皇の第一皇子であった政敵の市邊押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)らを滅ぼした後、泊瀬朝倉宮で自ら即位する。
大伴・物部を中心とした伴造(とものみやつこ)系氏族(祭祀的職掌を掌る氏族)の武力を背景とし、葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であった。

その後、「大伴・物部系」の平群真鳥(へぐりのまとり)が大臣、大伴室屋・物部目が大連に任命されている事から、当時の大伴・物部の二大勢力に後押しされての大王就任だった事がわかる。

雄略23年8月に崩御したが、陵墓は、明治政府によって羽曳野市島泉の“丹比高鷲原陵”とされたが、上述の通り他にも陵墓候補がいくつもあり、真相は闇の中。

雄略9年、天皇は朝貢してこない新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我韓子らを新羅に派遣する。雄略21年(477年)、百済に任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興するが、日本書紀には、他にも小さな闘いを全て武力で鎮圧したと記されている。

これらから、雄略は武力に長じた強力な大王だったと思われ、宋に上表文を送った「倭の五王」の一人「武」に比定されている。

478年、倭王「武」が宋に送った上表文には、「私の先祖は、自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を続け、東は毛人55カ国を、西は衆夷66カ国を征服し、また海北へ渡り95カ国を平定した。」とある。

そして宋王朝から「武」は、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任ぜられている。

『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、又上述した通り、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力。この説に則れば、考古学的に実在が実証される最古の天皇である。

『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝のヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的・画期的な時期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。

独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまします天皇なり」という評価を後世に残したが、雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返されていたことが伝えられている。

日本書紀によれば、吉備氏もこの天皇の御代にその配下に組み込まれた。

勢力拡大の範囲は北から南に及び、上述の通り埼玉県稲荷山古墳出土の大刀の漢文表記の銘文からもその勢いの凄まじさが想像できる。

というように、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。





謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その5

2014年05月16日 | 歴史
雄略天皇に対する評価については、善悪いろいろ取り沙汰されている中でも、数々の悪行は信じがたいほどではあるが、権力者としての力量は朝鮮半島の南部にまで及び、彼に纏わる副葬品の宝物は権力を占う証と言える。

そこで、古文書に見る雄略天皇の生き様を以下紹介する。。

日本書紀によれば雄略天皇は、残虐非道な暴君として記録されている。

例えば、市邊押磐皇子(いちべのおしはのおうじ)を殺したやり方は残虐で、体を切り刻み、馬の飼い葉桶に入れて土中に埋めたと伝えられる。

雄略2年、妃に望んだ百済の池津姫(いけつひめ)が石川楯(いしかわのたて)と密通していることが露呈した。
そこで雄略天皇は激怒して大伴室屋(おおとものむろや)大連に命じて来目部(くめべ)を派遣して二人を磔にしたあげく焼き殺した。

また吉野宮に行幸した際、狩りの獲物の事で部下の言動に怒り、御者を斬り殺した。
雄略天皇はまもなく還幸したが群衆は恐れおののいた。心を痛めた皇后は、宍人部(ししひとべと読み、鳥獣肉の料理人)を設けることを提案して天皇を諫め、天皇もこれに従った。

しかしその後も独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまします天皇なり」という評価 を後世に残す。

雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられている。
日本書紀によれば、吉備氏もこの天皇の御代にその配下に組み込まれた。勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀の漢文表記の銘文からもその勢いの凄まじさが想像できる。

発掘から20年を経て、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀に漢文表記の銘文が発見され、ここに「ワカタケル大王」とあった。雄略天皇を指すとする説が有力である。

これにより熊本県江田山古墳から出土していた鉄刀銘文もワカタケルと解読でき、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

雄略天皇というと、『日本書紀』には非常に荒っぽい天皇と表現されている。あまり良く書かれていないが、『宋書』では、偉大な王の姿を見せている。

そこには、若建大王(わかたけるだいおう)──これは雄略天皇の別名──が、中国に、自分は“武”であるといって遣いを出したと書かれている。

そして彼は日本はもちろん、朝鮮半島の百済や新羅、馬韓、弁韓、辰韓という南の方の国をすべて押さえている権力者であると認めさせたとある。

このように大きな力を持った天皇であるにもかかわらず、1978年(昭和53)埼玉県の稲荷山古墳が発掘されるまでは、ほとんどの歴史書が雄略天皇は実在していないという説を採用していた。

ところが、この古墳から出てきた鉄刀をレントゲン撮影したところ、金文字が115文字書かれ、その中に若建大王という名前が出てきことで、皆驚いたと言う。

更には、熊本県の江田船山古墳から出てきた鉄刀に書かれていたものも、それまでは違う読み方をしていたが、若建大王であるということがわかった。

稲荷山古墳から出土した鉄刀を造った人の名前は、意富比危(おおひこ)の子供の乎獲居(おわけ)と書いてあったが、乎獲居は、天皇を守る杖刀人(じょうとうじん)で、杖刀人はそういう役を担う組織名で、乎獲居はその杖刀人の頭と書いてあり、彼が天皇に差し上げた鉄刀だということが分かった。

江田船山古墳から出た刀には典曹人(てんそうじん)と書いてあり、これは本や資料を管理する役職らしい。

そして文字を書いたのは張安、鉄刀をつくった人は伊太利と記されていた。
要するに渡来系の人たちが鉄刀を鍛え、文字を書いたことになり、雄略天皇はこういう渡来系の人たちを左右に置いて、太刀をつくらせ、それを献上させていたということが分かる。

なぞなぞストーリーー第21代雄略天皇に纏わる謎とは!その4

2014年04月19日 | 歴史
引続き、第21代雄略天皇に纏わる謎に迫ります。

前回展望した河内大塚古墳ほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、6世紀後半築造の年代を考えると、記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。

ということで、下記の仲哀天皇の御陵といわれている前方後円墳が造営年代的にも、雄略天皇陵ではないかと云われている。



上の写真は、藤井寺市の“仲哀天皇陵”。

第14代・仲哀天皇陵(200年崩御)は、墳丘長242メートル、周濠幅約50メートルの大型前方後円墳で、古市古墳群では4番目の大きさ。

別名“岡ミサンザイ古墳”とも呼ばれ、羽曳野丘陵の北東部外縁に位置している。

横穴式石室を採用している可能性があること、また出土した円筒埴輪などから、5世紀後半の築造と考えられている。

仲哀天皇陵にしては、余りに年代のずれがあり、雄略天皇陵ではないかとする研究者が多いと云う。

以上のような事情から、雄略天皇陵は、高鷲丸山古墳か、或いは大仙古墳・仁徳天皇陵か、はたまた仲哀天皇陵か、現状のままでは、迷宮入りしそうな状況。




謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その3

2014年03月21日 | 歴史
はたして雄略天皇陵の真偽は? 真相究明を続けます。

今日まで雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は、幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳。

その墳丘を南北に横切る中軸線を境にして、西側が松原市西大塚、東側が羽曳野市南恵我ノ荘。







写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。

墳丘の長さは約335mで、仁徳陵古墳、応神陵古墳、履中陵古墳、岡山県の備中造山古墳に次いで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。

それ以後宮内庁の管理下にあり、学術調査は今日まで行われていない。

前方部が低く、大きく広がっており、更に後円部の段築がはっきりしないという後期古墳の特徴を備えている。そのため、この古墳が築かれたのは6世紀後半と見なされている。

本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性が高いとされるが、年代的に合致しない。

謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その2

2014年03月01日 | 歴史
雄略天皇の纏わる数々の謎について、更に真相究明を進めます。

雄略天皇の治世下で、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられてきた。

日本書紀によれば、吉備氏も雄略天皇の御代にその配下に組み込まれた。

勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県行田市の“稲荷山古墳”から出土した太刀に漢文表記の鉄剣銘文が発見され、「獲加多支鹵大王(ワカタケル)」とあった。雄略天皇を指すとする説が有力である。





上の写真は、埼玉県の稲荷山古墳から出土した、ワカタケル大王の太刀及び熊本県の江田船山古墳から出土したタカタケル大王の太刀。

これにより“江田船山古墳”から出土していた鉄刀銘文も“ワカタケル”と解読でき、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

渡来系の人たちが刀を鍛え、文字を書いたと見られるが、雄略天皇が渡来系人脈を抱え、大きな勢力を持っていたことが窺える。


謎々ストーリー・第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その1

2014年02月21日 | 歴史
雄略天皇の纏わる、数々の謎について、ここからは真相に迫ります。

第21代雄略天皇(456~479年)は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。気性が激しいため、“大悪天皇”との謗りを受けてきたようだ。

安康天皇が眉輪王に刺殺された後、第5皇子は、王位につくため兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)と兄の八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)をもその黒幕として殺害。

又次期天皇の有力候補だった、仁徳天皇の孫・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を狩に誘い出し射殺して即位。反抗する氏族らを軍事力で鎮圧したと云う。

というように、日本書紀によれば、雄略天皇は残虐非道な暴君として記録され、独断専行の残虐ぶりはその後も続き、多くの偉人を殺害したため、“大悪天皇”という評価を後世に残した。



写真は、大阪堺市の大仙古墳・仁徳天皇(313~399年)陵の正面遠景。

日本書記に残る数々の悪行から尊卑の秩序を保つため、元々雄略陵だった大仙古墳を仁徳陵に当てたのではないかと推測されている。

現実に、大仙古墳の円筒埴輪は5世紀末のもの故、仁徳陵とするのは誤りで、造営時代的にはむしろ雄略陵とするのが正しいと云う。







写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目及びその周濠光景。

羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳は雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方がある。

一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れているが、前方部らしき方墳が認識できる。もともとは円墳で、後から前方部を付け足したという説を裏付ける。

雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称えて、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。

高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。

それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思われるが・・・・・。


雄略天皇に纏わるあれこれー足跡と謎を追って!

2014年02月08日 | 歴史
倭の五王の一人として、確固たる信憑性を得ている雄略天皇に纏わる逸話について、これから6回のシリーズにわたってお送りします。

中国宋時代の宋書の史実により、倭の五王の一人として劇的にデビューした雄略天皇は、足跡を訊ねると表裏双方の側面が重層し、又謎めいたストーリーが錯綜して真相究明が難しいが、それだけに足跡と謎を追ってみたくなる。

○古墳出現の歴史的背景と意義
弥生時代の墳丘墓は、山陰・北陸地方の代表的方形墳丘の四隅を突出させた特異な形態の墳丘墓が営まれた。

しかし古墳時代の古墳はその規模において飛躍的に増大する一方で、弥生時代に見られた顕著な地域的特徴が見られなくなり、極めて画一的になっていった。

→大規模な古墳が、畿内のヤマト・吉備・瀬戸内・北部九州にあるが、玄界灘沿岸には大規模な古墳が見られないことは、それまで中国大陸等交易ルートを一手に握っていた玄界灘沿岸地域に対し、瀬戸内沿岸各地の勢力が畿内のヤマトを中心に連合したためと見られる。

玄界灘沿岸を制圧し、鉄や先進的文物の入手ルートの支配権を奪取しようとしたことが、広域政治連合の契機になったと想定されている。

→連合に加わった各地首長達の同盟関係の確認・強化の為の手段として、共通の墓制である大規模な前方後円墳の造営が始まったと見られる。

このような背景・経過を踏まえて、3世紀~4世紀にかけて強大な権力と財力を持った統一国家、初代ヤマト政権が誕生したものと考えられる。

前方後円墳のまとまりは邪馬台国を中核とした政治勢力の延長と考えられる。

→前方後方墳は、伊勢湾沿岸部を中心とする東海地域の中で成立・普遍化し、3世紀後半には東日本でも60m級の前方後方墳が造営されていた。

しかし3世紀末葉から4世紀前葉になると、前方後円墳の造営が東日本でも急速に広がり、墳形は前方後方墳から前方後円墳に激変していった。

墳形交代は、将に政治勢力の消長を示す事実として意義付けることが出来る。

倭の五王の謎とは!

2014年01月19日 | 歴史
倭人が登場した、当時の中国の歴史書を辿ります。

3世紀半ばに邪馬台国からの朝貢が行われて以来、約1世紀半にわたって中国の歴史書から姿を消していた古代日本の消息が、再び伝えられるようになるのが5世紀初頭。

特に420年宋が興ると、中国史の中に倭が頻繁に登場するようになる。



上の写真は、宋書の夷蛮伝倭国書の一部。

この夷蛮伝倭国書によると、

421年「倭の讃、万里に貢を修む・・・・・」
438年「讃死して弟珍たつ。使いを遣わして貢献す。自ら特使・・・・・」
443年「倭国王済、使いを遣わして奉献す。復以て安東将軍・倭国王と為す。」
462年「済死す。世子の興は使いを遣わして貢献す。・・・・」
478年「興死して弟武立つ。自ら・・・・・・安東大将軍・倭国王と称す。」

以上のように、中国南朝宋の歴史書「宋書」には、讃・珍・済・興・武の5人の倭国王が宋に使者を送ったという記述があるが、これが所謂倭の五王と云う。

この5人の王が記紀に記されているどの天皇にあたるか様々な説があるが、武については雄略天皇の異称、大泊瀬若幼武尊の武の一文字をとって王名を武で表したものと考えられており、武が第21代雄略天皇と云うのが定説。

他にも済が第19代允恭天皇、興が第20代安康天皇と云うのが一般的な説。

又異説はあるが、珍が第18代反正天皇、讃は第16代仁徳天皇もしくはその父である応神天皇とする説が有力で、それぞれ5世紀に君臨した天皇であると考えられている。

「日本書紀」などによると、葛城氏は中国に使者を送った仁徳天皇ら“倭の五王”と姻戚関係を結び、繁栄したと云う。

当時の国内においては、中国側から「倭王」の称号を与えられたことによって、諸豪族に対する支配の正当性を裏付けるのに役立ったと見られる。

その後、古市古墳群や百舌鳥古墳群に大王の墳墓と目される巨大古墳が造られるのは、5世紀を中心にする期間で、この期間はまさに中国文献に登場する倭の五王の時代と重なる。

この5人の倭王の墳墓は、古市古墳群と百舌鳥古墳群に築かれ、倭の五王は国内の政治的安定と東アジアの国際社会への雄飛を巨大な墳丘に託したかもしれない。



謎の4世紀と崇神天皇の出現

2014年01月14日 | 歴史
有史前古代日本の事情・様子が、多少なりともキャッチできる手段として、中国或いは朝鮮半島の歴史書などの間接的記述に頼らざるを得ない。

3世紀の邪馬台国や女王卑弥呼についての記述は「魏志倭人伝」で紹介され、又5世紀後半には中国南朝宋の歴史書「宋書」に讃・珍・済・興・武の5人の倭王が宋に使者を送ったという記述がある。

しかし3世紀半ばに邪馬台国から朝貢が行われて以来、約1世紀半にわたって中国の歴史書から姿を消していたが、唯一当時の情報ソースとして、高句麗の好太王碑の記述が参考になる。

そこで古代日本に関する記事が歴史から消えた空白の150年間の謎と5世紀の倭の5王時代の謎や足跡を、これから数回にわたって辿ってみたい。

先ずは謎の4世紀について、日本国土の統一・大和政権の誕生は4世紀頃とされているが、その成立時期は判然としていない。

「魏志倭人伝」の倭の記述から「晋書」に「倭の五王」の記事が現われる413年までのおよそ150年間は、古代日本の消息は歴史から消えている。

この謎の4世紀が解明されない限り、大和政権の成立も又謎のままとなってしまうが、4世紀後半に朝鮮半島北部で活躍した高句麗の王・好太王の偉業を讃える碑が、高句麗の古都・丸都城に建てられている。

この好太王碑に刻まれている、倭に関する記述に4世紀の倭の謎を解くカギがある。好太王碑の記述の中には以下のような倭に関する記事がある。

1、百済と新羅は高句麗の属国であったが、391年に倭が渡海・侵入して百済・加羅・新羅を制圧した。
2、396年好太王は百済に遠征して臣従させ、倭との関係を断ち切らせた。
3、399年、倭軍の圧迫を受けた新羅は高句麗に助けを求めたが、好太王は平壌まで南下して倭軍を破った。
4、400年に好太王は約5万人の兵を新羅に派遣して倭軍を追出し、任那にまで追い詰めた。
5、404年に倭軍は再び勢力を盛り返して帯方郡に侵入したが、好太王は再び倭軍を破った。

これらの碑文が史実であれば、4世紀後半の時期既に古代日本に海外に派兵する力を持つほど、強力な統一国家・大和政権が成立していたことになる。

この時期には巨大な古墳の築造が始まっていることからも、巨大古墳構築を可能にする富と権力を有する政権が成立してことを裏付ける。

畿内で勢力を持ち始めたのは、第10代の崇神天皇の頃ではないかとするのが一般的で、4世紀中頃に豪族を統合して大和政権が誕生し、崇神天皇が、実在したとされる初代天皇となったと推定されている。

そこで、第10代崇神天皇陵にスポットを当ててみる。

崇神天皇陵は、山の辺の道に沿った代表的な観光スポットにあり、全長240mに亘る堂々とした、古墳時代前期・4世紀後半頃築造の前方後円墳であり、深い緑の水をたたえた濠が美しく静まる。

この小高い丘陵から眺める大和平野(縄文時代は海)と金剛山、大和三山(耳成山、天香久山、畝傍山)、二上山、生駒山等の山々、誠に悠然たる気分になる。

169号線こそ走っているものの農地に囲まれ、墳丘墓の環境は抜群と言える。

169号線沿道の広告用看板等は、風致規制の対象で禁止され、環境保全に対する入念な気遣いが感じ取れる。



写真上の崇神天皇陵は長岳寺から徒歩10分、黒塚古墳からも徒歩10分、直ぐ後ろには櫛山古墳があり、山辺の道散策コース・スポットの一つ。



崇神天皇陵は、写真のように大和の山々を背景に、水鳥が舞う瑞々しい外濠池の環境保全だけでも大変。
実に見事に管理・維持されている代表的天皇陵の一つ。

沖縄最古8千年前の土器がサキタリ洞遺跡で出土!

2013年12月21日 | 歴史
最新の珍しい遺跡発見のニュースを引続き紹介します。

沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で今年出土した土器が、約8千年前(縄文時代早期)の沖縄最古の土器であると、沖縄県立博物館・美術館が確認した。同館が平成25年11月、発表した。

この時期の沖縄地方に、確実に人類が存在したことを裏づける。謎の多い南西諸島の先史時代や日本人の起源を解き明かす発見。



写真は、サキタリ洞遺跡で見つかった沖縄最古の土器片。

土器は最大で約15cm、1個分の胴部の破片が約20点見つかった。

復元すると直径約30cmの鉢になるという。表面には、強弱をつけながら棒状の道具を引いて施したような「押引文」という文様があるが、地表から約2・5mの層から出土した。

一緒にあったカタツムリの殻を放射性炭素年代測定で測ったところ、約8千年前という数値が出た。

出土層のすぐ上には5千年近く前の条痕文土器の層があり、それより確実に古いという。

これまで出土状況が明確な沖縄最古の土器は約6千~7千年前の南島爪形文土器や無文土器だった。
同館は「沖縄で土器が未確認だった空白の時期を埋める成果」としている。

本州や九州などではさらに古い土器があるが、沖縄での土器使用が千年さかのぼることになる。

土器が見つかった地点より下層も調査しており、さらに古い土器が見つかる可能性もあると云う。
同館によると、土器は5千年前の土器が見つかった地層の下層から、イノシシの骨などと共にまとまって出土。

平成21年に始まったサキタリ洞遺跡の調査では、平成24年10月に1万2千年前の人骨と石器も出土している。

約1万2千年前の旧石器時代の地層から、人骨化石や石英製石器、貝、食べかすとみられるイノシシの骨などを発見した。同館によると、旧石器時代の人骨と石器が同じ遺跡で出土したのは初めてで、国内最古の事例となる。



奈良県高取町で円墳発見、巨勢氏一族の墓?そのⅡ

2013年11月27日 | 歴史
乙奈良県高取町市尾の天満神社内で新たに見つかった、円墳について更に続けます。

市尾天満古墳の墳丘は中世の盗掘と、江戸時代まで墓に転用されていた影響を受けているが、基底部と、石室に出入りする通路(幅1.5m、奥行き4~5m)を確認。

内部から出土した須恵器の甕や石材の加工技術から築造時期を特定した。









写真は、市尾天満古墳の円墳墳丘遠景、同墳丘側壁が崩れている様子、同墳丘から望む市尾遠景及び同古墳北側後背面の光景。

墳丘の北側背面は幅40~50m、高さ5mにわたって大規模に造成。墳丘は一部が壊されており、直径は一回り大きい約30mだった可能性があるとみている。

一帯は、大化改新後に左大臣となった巨勢徳太(とこだ)(593~658年)ら巨勢氏の本拠地とされている。

乙巳の変の時、活躍した人物が巨勢徳多で、蘇我入鹿が暗殺された後、蘇我氏はその復讐のために立ち上がろうとしたが、中心は東漢氏だった。

乙巳の変とは中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

その東漢氏をなだめて兵を引かせたのが、巨勢徳多だったと云う。

近くには、巨勢氏の有力者の墓とされる国史跡・市尾墓山古墳(6世紀前半、前方後円墳)や同・市尾宮塚古墳(同中ごろ、同)も存在する。

町教委は「市尾天満古墳は規模や立地、羨道から推測される石室の特徴などから、両古墳の系譜をひく墓とみられ、一族の有力者の墓だろう」と話している。

和田萃・京都教育大名誉教授の話として、「一帯は後に藤原京(694~710年)の造営で国家的な瓦の生産を行った地域。少なくとも7世紀前半には有力な豪族が経済的、技術的な基盤を築いていたことがうかがえる」としている。

奈良県高取町で円墳発見、巨勢氏一族の墓?

2013年11月04日 | 歴史
それでは、市尾天満古墳について、詳細を見てみよう。

奈良県高取町市尾で、7世紀前半の古墳が見つかったと同町教委が明らかにした。

直径約24mの円墳で、横穴式石室の一部も出土した。本古墳は、天満神社敷地内にあり、「市尾天満古墳」と命名された。

一帯は飛鳥時代、蘇我氏らと並ぶ権勢を誇り、大化改新で活躍した大豪族・巨勢氏の本拠地とされており、町教委は被葬者が一族の有力者だった可能性が高いとみている。

奈良の三輪山大神神社の宮司は、代々巨勢氏であったと見られ、巨勢氏は継体天皇の擁立・乙巳の変・壬申の乱等、古代史の大事件には必ず登場する一族で、日本の創始以来続く、名門豪族の一つ。

高取町は、奈良県高市郡の中にある町で、現在、高市郡は、この高取町と明日香村の一町一村しかないが、橿原市や大和高田市の一部も昔は高市郡だったと云う。









写真は、天満神社が鎮座する丘陵、同神社石段に導かれた鳥居、拝殿及び同神社内で見つかった市尾宮塚古墳石室入口。

近鉄市尾駅前の県道120号線を西へ向かうと、県道の右に独立丘陵が迫り、丘上に天満神社が鎮座している。

鳥居の手前に樟の巨木が有る。天満神社は古くからある神社らしいが、創建は不明と云う。

県道から天満神社への緩やかな石段を上がった中ほどに、今回見つかった市尾天満古墳が、拝殿の前から右の脇道へ入ると直ぐ、市尾宮塚古墳がある。





写真は、奈良県高取町市尾の巨勢氏一族の円墳発掘現場及び遺跡周辺の概略地図。

市尾天満古墳は町内遺跡の分布調査で発見されたが、平成25年2月から発掘調査していた。

この続きは次回に譲ります。

奈良県高取町の立地と歴史

2013年10月24日 | 歴史
ここからは、平成25年9月にマスコミ報道された、奈良県高取町の市尾天満古墳の発見に関連して、先ずは高取町について、歴史的意義・背景などを吟味してみたい。

奈良県高市郡高取町は、飛鳥の南に位置しており、町内にも古墳が多数見られる。









写真は上から、奈良県高取町市尾駅周辺の略図、平成25年10月中旬頃の市尾田園風景、同上略図にも表示されている市尾墓山古墳遠景及び市尾の古道・高野街道と刻まれた石碑。

写真の通り、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる位置でもあった。

渡来人の東漢氏がこの地域に定着した有名な明日香村の隣にある。

あまりにも有名な飛鳥の里に隠れてあまり目立たないが、この地も古代には結構重要な地域だった。

古墳時代から飛鳥時代にかけての遺跡が多く残り、飛鳥同様、古代史のふるさとと言っていい。

高取の属する高市郡は、大和地方の中でも特に渡来人たちが多く住み着いた所でもあり、彼らが大陸からもたらした新しい文化は、大和朝廷に多大の技術革新をもたらしたと思われる。

1万5千年前の煮魚? 縄文土器に痕跡、世界最古級

2013年10月03日 | 歴史
世界的新発見と云われる遺跡を引続き紹介します。

縄文時代の草創期に当たる1万5千年前の土器で魚を煮炊きした痕跡を、日英の研究者らが土器の破片から見つけ、平成25年4月11日付英科学誌ネイチャーで発表した。

世界最古級の土器の使い方を示す初の発見で、土器作りの発祥と発展の経緯を知る手がかりになるという。



魚の煮炊きの痕跡が見つかった、1万5千年ほど前の土器片。

英ヨーク大や新潟県立歴史博物館などの研究チームが、1万1200年から1万5300年前の土器の破片を北海道、新潟、鹿児島など国内13の遺跡から101個集め、表面や付着物に含まれる炭素や窒素の同位体、脂質などを分析した。

大半から、海の魚を高温で調理した際に出るのに近い成分が見つかった。土器の外側からは同じ成分が出ず、煮炊きした痕跡と結論づけた。

遺跡の多くは内陸にあるため、サケのように海と川を行き来する魚の可能性があるという。

北海道帯広市の大正遺跡群「大正3」遺跡で発掘された約1万4000年前の縄文土器片から、海産物を煮炊きした焦げかすが見つかったと、日欧研究チームが4月10日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。

土器を煮炊きに使った証拠としては世界最古で、海産物は川をさかのぼったサケ・マス類の可能性があるという。

この研究はオランダ・フローニンゲン大が、土器は狩猟採集時代にアジアから欧州に伝わったとみて行っている調査の一環。

中国江西省の洞窟遺跡では、世界最古の2万~1万9000年前の土器片が見つかっているらしい。

今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前に、温暖な間氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期が始まる。

自然環境の変化は、その都度、人類の生存生活に、大きな試練を与えてきた。それに適応しょうとする懸命な努力が、文化発展の画期となった。

日本列島においても、この現象の例外ではない。この温暖化は大型哺乳類の生息環境の悪化を招き、同時に人類の人口増加による乱獲と相まって大型哺乳類の減少を引き起こし、新たな食糧資源を探す必要性を生じさせた。

それ迄の遊動・狩猟活動主体の生業体系に、根本的な変革を迫られた。

一方、この温暖化は、木の実を豊富に生産する落葉広葉樹の森を育成することとなり、半ば必然的に植物性食料へと、人々の目を向けさせることとなった。

縄文人の生業活動は、落葉広葉樹林の高い植物性食料の供給力に支えられるようになり、これにより、縄文文化的定住を実現するための基盤が、整っていったと云える。


青森県の三内丸山集落、食糧激減のため2℃の寒冷化で消滅!

2013年08月10日 | 歴史
最新の歴史的な新発見について、引続き紹介します。

縄文時代に大いに栄え、当時の日本の中心であったとされる、青森県の「三内丸山遺跡」集落が約4,200年前に消滅したのは、2度の気温低下が原因だった可能性が高いことが分かったと云う。

それまで豊富だった食料用の木の実などが、この寒冷化で激減したらしい。





写真は、4,200年前頃の寒冷化現象の略図と三内丸山遺跡現場に広がる光景。

三内丸山遺跡は陸奥湾の南約3kmにある、縄文時代最大規模の集落跡。

当集落は約5,900年前に成立し、約1,700年後に消滅した。しかし、長期にわたる気候変動の詳しいデータがなく、集落の盛衰と気候の関連は不明だった。

今回、本遺跡から約20km離れた陸奥湾で、水深61mの海底から堆積物を採取し、プランクトンがどのような物質をつくっていたかを手がかりに、当時の海面水温を推定したと云う。

その結果、海面水温は5,900年前から約1,700年かけて、約22度から約24度まで徐々に上昇したが、4,200年前ごろ、約22度まで急激に低下したと云う。気温の低下も、おなじ約2度とみられる。

堆積物中の花粉などを調べたところ、温暖期には陸上では食用に適したクリなどが多く育ち、海中には魚が多く生息できたが、寒冷化して、その環境が失われたことがわかった。

この寒冷化は、この地域に吹く南西からの暖かな季節風が弱まったことなどが原因らしい。

専門家によると、「2度の寒冷化の影響は、思いのほか大きく、数度の温度変化でも、農業などの1次産業は大きな影響を受ける可能性がある」と云う。