<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



マレーシア航空の行方不明やロシアによるクリミアの併合のニュースに隠れてしまって、すっかりその出来事が伝えられなくなってしまっているニュースがある。
それも日本にとって非常に重要なニュースだ。
どういうものかというと、
「台湾の行政府を学生が占拠」
という現在進行中の事件なのだ。
このニュースをマトモに報道しているのは産経新聞ぐらいだけなのだが、実にこの現在進行中の事件は東アジアの問題点をしっかりと炙りだしている政治事件なのだ。

そもそも、台湾の学生がなんで自分の行政府を占領しているのか。
このような過激な事態に陥っているのには理由がある。
これは40年前に左巻きの学生が東京大学安田講堂を占領して死人を出した事件とは全く違う、正反対の行動なのだ。
学生たちは、国民党の馬英九総統が中国と結んだ自由貿易協定の一種の撤回を求めた愛国心あふれた行動なのである。

「協定により台湾の中小企業が潰れてしまう!」

と学生たちは主張し、協定の撤回を求めているというのだが、そんなことだけで行政府を力づくで占領することは無いだろう。
実際の背景には、

「台湾の中国に売ろうとしている不貞なやつ。馬英九と国民党をやっつけろ」

というメッセージが込められているのだ。
なぜなら、台湾は中国ではないのだ。

台湾という国に住む国民のアイデンティティは中国人のそれとは大きく異なる。
中国では「ダマされないようにしなさい」と言って子供を送り出すという。
これに対して台湾では「仲良くしなさい」と言って子供送り出すという。
この相手を見れば「泥棒と思え」主義は現在の中国を見ているとよく分かる通り、彼の国の民度を表していると言えるだろう。
一方、相手との「和」を尊ぶその姿勢は、日本のそれと同じなのだ。

台湾は中国ではない。
むしろ、日本に近い。
それも限りなく酷似したアイデンティティを持った1つの国家であって、地理的要因と合わさって、この台湾で起きていることの意味は日本人にはマレーシア航空機の行方よりも、クリミアの併合よりも重要なのだ。

この日本と台湾の関係の重要性をわかりやすく解説してくれているのが加瀬英明著「日本と台湾」(祥伝社新書)だ。

台湾の国際的な法的立場と現実の立場の違い。
日本との歴史文化の関わりなどが、わかりやすく書かれていて東アジアの日本の立ち位置を学ぶ上でとても大切な情報が溢れている。
実は台湾は日本にとって唯一の兄弟国家であり、台湾の安全保障や経済力、台湾人の思想などが、そのまま日本の安全保障や経済、文化まで影響を及ぼす。
このことを日本人はもっと知るべきだと思っているのだが、事実はそうではない。
私自身、本書を読むことで、その重要性を確認できたようで、何かこう、スッキリした感じがするのだ。

何にスッキリするのかというと、ここ数年間というもの韓国や中国のような論理と真実と真心の通用しない国のニュースばかり目にしていると、日本は本当に孤立するんじゃないかと思うことも有り、正直気分のいいものではない。
ところが台湾という「マスコミと外務省が中国の一部」と勘違いしている独立国家は親日的であることはもちろんのこと、お互いに補完しあう非常に重要なパートナーであることを認識しなければならない。
とりわけ日本人側はそうなのだろう。
台湾における日本の存在感と同等の意識を日本人も台湾に対して持つことが重要だ。
そういう意識が歴史の歪曲や経済政策的意地悪に負けることのない根性を醸成できるのではないだろうか。

ところで、この著者の加瀬さんのような人がいることで台湾とは正式に国交がない割には、特別な協定がいくつも結ばれていることに納得したのであった。
本書には書かれていなかったが、例えば、台湾の人は日本へ来ると台湾で取得した自動車免許のまま日本国内で自動車の運転ができる。
一方、日本人も同様に日本の免許証で台湾国内を運転できる。
つまり台湾と日本の間には自動車免許に関する国境がないということは、あまり一般に知られていない。
また、現在中国人がノービザで観光旅行にやってくるが、この原因は台湾人に対してノービザを実施していたことに中国政府がクレームをつけた結果ということも、あまり知られていない。

そもそも外務省の気弱で不勉強な外交官が、台湾人とは全く別民族で他国の中国人に「同じ中国人」としてビザを免除してしまったために、大勢の日本人が犯罪によって殺され、あるいは財産を奪われる結果を生んでいる。
何度も言うが、台湾人は中国人ではない。
台湾人を中国人という人は日本人はアメリカ合衆国日本州のアメリカ人であるというのと非常に似通ったアホな感覚を持っている人だ。

本書を読んで、まともな隣国台湾をもっと知る人が増えると良いなと思った一冊なのであった。

なお、冒頭の話題に戻るが、そんなこともあったので学生による行政府の占拠事件は日本のアイデンティティを多く持った若者たちによる中華文化に対する抵抗でもあるに違いないのだ。



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年末のある日。
ここんところノンフィクションかビジネス読本ばかり読んでいて頭の中がすっかりと固くなっていたので、ここは柔らかくするために、何か違ったジャンルのものを読まなければならないと思った。
そこで候補に挙がったのが、笑えるエッセイか、まったく違う世界へ連れて行ってくれる時代小説か歴史小説。
笑えるエッセイとなると土屋堅二のユーモアエッセイを選んでしまうので、それはそれで構わないのだが、もっと何かいいものを、と考えていた。
そこへケネディ駐日米国大使の父君JFKにまつわるエピソードのニュースが新聞を賑わした。

「米国大統領として初の訪日を計画していたケネディ大統領は上杉鷹山を知り、尊敬していた」
と。

おお、上杉鷹山といえば「漆のみの実る国」の藤沢周平があるではないか。
ということで、年末は頭を柔らかくするために藤沢周平の時代小説、それも痛快剣術物の「よろずや平四郎活人剣 上下巻」を再再読することにしたのであった。
これなら読むのは久しぶりだし、すでに持っている本を読むことになるので新たにお金を使わずに済むしで、条件は最高だ。
そこで、実家の我が部屋にある蔵書棚からこの作品を引っ張りだし、あっという間に読了してしまったのだった。

「よろずや平四郎活人剣」は1992年から何回かに渡ってNHKで放送された時代劇「腕におぼえあり」の原作の一つになった作品で、旗本の末弟が市井と共に暮らすのだが、その生活費を稼ぐために「よろずもめごと仲裁いたします」という商売をはじめ、様々な依頼を得意の剣術を駆使しながら解決するシリーズ物だ。
これが、面白い。
暗さがなく、人情味に溢れ、スカッとするストーリーが目白押しで、昨今こういう時代小説はすっかり見ることができなくなったサンプルのような作品なのだ。

見どころはいくつかあるが、その見どころの骨格を成しているのは主人公を取り巻く人々だ。
平四郎の友達、北見十臓と明石半太夫。
平四郎の兄夫婦、神谷監物と里尾。
そしてなんといっても後半に登場する元許嫁の菱沼(塚原)早苗が花を添え、物語に青春物のようなワクワクドキドキ感をもたらすのだ。
登場する借金取りや商人、食い物屋、娼婦なども、それぞれに個性豊かで江戸の終盤を見事に描いているのだ。

この小説をはじめて読んだのはもう20年近く前になるが、その時は年に数回しか東京へ行くことがなかったのだが、今では仕事でしょっちゅう東京へ出かけ、宿泊先は浅草にとり、本所や深川あたりを歩きまわることも少なくない。
したがってこの小説の舞台になっているエリアにかなりの土地勘が出来ており、今回読み進めていくうちに「両国橋」や「1つ目橋」などの地名が出てくると、現代の風景と重ねあわせ、遥か江戸時代の人の行き来を想像するのにも厚みが増していることに気づいて、再再読なのに楽しさがよりアップしていたのであった。
ちなみに私の会社の東京のオフィスは両国橋から遠からぬ馬喰町にある。

年末の読書にふさわしい爽やかな気分にさせてくれた藤沢周平にまたまた感謝なのであった。

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私が子供の頃は、コンピュータのことを電子頭脳と呼んだ。
アニメの鉄腕アトムでも鉄人28号でも、頭脳に内蔵されているから電子頭脳。
今の子どもに、電子頭脳なんていうと、中国語かと勘違いされる恐れのある古い言葉だ。

今や生活に溶け込んでいるコンピュータは、そもそも半生記ぐらい前までは「計算に従事する人」を意味したという。複雑な計算を大勢の人々が人力で解いていく。
そういう仕事があったことに驚きを感じるが、そのコンピュータという人の仕事が、そのままコンピュータとなったのだと思うと、呼び名というのはなかなか面白いものだ。

「チューリング 情報時代のパイオニア」(NTT出版)B・J・コープランド著はそんな人力計算の時代にプログラミング型のコンピューターのコンセプトを生み出した英国人数学者の物語だ。
時代は1930年代。
日本ではやっと東京と大阪で地下鉄が走りだした頃。
そんな昭和のはじめにコンピュータのコンセプトはチューリングという優秀な数学者が論文として生み出し、それがやがて第二次世界大戦中にドイツの暗号を解読するための技術として具現化していく。
この行程が歴史的には別段ふせられてもいないのに、知られることが少なくスリリングだ。

コンピュータは今日のように電子工学が発展する前に、まず歯車やカムなどを使った機械式のものが登場した。
私が子供の頃はタイガー計算機という機械式の計算機があって、おもちゃにしては叱られたものだ。
この機械式のコンピューターの最古のものはギリシャで発掘されたアンティキテラと呼ばれる古代ギリシャ時代の超精密天体運行計算機だ。
あまりに精密な特殊技術が必要だったためか、きっとコストが異様に高く千年以上の歳月、この歯車式計算機の存在は忘れされるのであるが、それがルネサンス期以降、再開発され、第二次世界大戦に入ったころ、歯車がリレースイッチに代わり、さらに真空管に変わって現代のコンピュータの基本が誕生したという。
その中心的人物が、実はアメリカ人のノイマンでもなく、もうっと後年に現れるビル・ゲイツでも2人のスティーブでもなくアラン・チューリングという人物であったというわけだ。

このこと、本書を読むまで私もまったく知らなかった。

しかも知らないことだらけで、初の真空管を使った本格的演算装置は第二次世界大戦中にイギリス政府によって開発され、それを用いたことにより、ドイツ人が絶対解読不能と自負していたエニグマという暗号装置を解読するのに利用され、人のコンピュータが何ヶ月もかかる計算を数時間で成し遂げた。その結果、ドイツの秘密作戦をことごとく解読し、終戦を早めたという。
そんなこともまったく知らなかったのだ。

しかもしかも、チューリングが作ったコンピュータは現代のコンピュータの仕組みと同じであり、プログラミング式で、暗号解読はもちろん、音楽制作、ゲームなど、いま私たちが日常親しんでいるIT技術のやっていることをほとんどやってしまっていた、ということも知らなかっただけに大きく衝撃的なのであった。

強いて違いを述べれば、扱えるデータ量が格段に違うことと、計算速度が大きく異なっているところだ。
当時扱える基本データ容量は4kバイト程度だったようだが、現在ではギガバイト、テラバイトは当たり前、という時代に突入しつつある。
速度は当時2週間かかったような複雑な計算も、現在では安物のパソコンでも1秒でこなしてしまう、そんな違いでしかない。

ともかく、この伝記かつPC誕生物語は特別な知識を持たずに楽しめる、驚きに満ち満ちた素晴らしい科学歴史読み物なのであった。



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先日、新聞だったか雑誌だったか、ある記事を読んでいると、

「日本の神道ほど奇妙な宗教はない。戒律というものが存在せず、ただ八百万の神というものに祈るために存在するのだ」

ま、それがホントかどうかは分からないが、確かに神道では戒律についてあまり小うるさいことを言われることはない。
神社は午前中にお参りしなさい、とか、そんなことをやったらバチが当たる、程度の話しか聞いたことがない。
だから、戒律だとかモラリティを担っているのは日本では仏教ということになる。
神道は多神教だが、それこそ色んな神様が存在していて、それを下地にしてこそ宮凬駿の「千と千尋の神隠し」みたいな世界が生まれるのだろう。
上方落語には「貧乏神」なるビンボーの神様まで登場する。

ある物臭なオトコに貧乏神が取り付くのだが、あまりにオトコがだらしなく、そのまま死んでしまうと死活問題だということで、貧乏神が甲斐甲斐しく働くという噺だ。
落語だけに陽気でビンボーだからといって陰々滅々したところもまったくない。
それが日本の宗教観なのかも知れない。

中東や中国、時にはヨーロッパで宗教紛争などがあると、日本人には何のことやらさっぱりわからない、というのも日本人の宗教観の現れだろう。
なんで人々の幸せと安寧を願う宗教で殺し合いをするのか理解できないのだ。
日本の歴史でも宗教での対立は度々経験しているが、どれもこれもカルトに類するものか反社会的なものに対する対立という図式があり、思想信条で対立するというのは、まま理解しにくいものがある。
石山本願寺や一向一揆などはカルト的要素がふんだんにあり、当時としてもその異様な信仰度合いが時の為政者をして見過ごしにできないものがあったのだろう。
またやがて島原の乱などに発展し、存在そのものが維新を迎えるまでタブーになってしまうキリスト教も、その信仰を恐れたというよりも、来日した宣教師やそれについてきた有象無象な人たちが日本人を海外に拉致し奴隷として人身売買にこれ励んでいたこと、など反社会的なことが発覚したから厳禁とされてしまったという。
ちなみに日本史において奴隷制は存在すらしたことがない、マリアルス号事件を待つまでもなく「奴隷って何?そんなことしていいの?」という文化なのだ。

このように少々社会や日本の価値観から逸脱したものは受け入れられず、それでいて世界にはそういうものがたくさんあるので、なかなか世界スタンダードな宗教観というのが日本人には根付かないのかもしれない。

講談社プラスアルファ新書「キリスト教は邪教です」を買って読んだのは、なにもキリスト教に対して悪意をもっているからではない。
私の親友知人の中にもカトリックからモルモン教徒まで、さまざまなキリスト教の信者がいるので誤解されると困るのだが、稀代の変わり者であるニーチェが著者ということもあり、キリスト今日についてどのようなことをニーチェが述べているのか大いに気になったので書店で見つけるなり即断で買ってしまったのであった。

で、内容は予想通り、面白いものであった。
多分に訳がよく出来てるということもできるが、皆が思っていてもなかなか言えないことを論じていて、例えば、
「聖母マリアは相手なしでキリストを授かった」といういわゆる処女受胎について「ありえないウソ話」と切って捨て、聖書に登場する数々の奇跡の物語を「ヨタ話」、教会を利権と悪の権化というような意味合いに断言しているところは、ビックリするよりも、あまりにハッキリと言い過ぎているために笑ってしまったくらいであった。

かといってニーチェはキリスト教そのものを否定するのではなく、現在の聖書と教会を非難しているのであって、これらはキリスト教の本来の思想(残念ながら私の家は真言宗なんでよくわかりませんが)はキリスト教開闢の後世にその利権構造が作られねじ曲げられてしまっているという趣旨で本書を執筆したという。
いうなれば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつである。

本書執筆後にニーチェは発狂したので本書がまともな著作の最終作だそうだが、キリスト教へのこの辛辣でかなり的を射た批判を書くことは、読む側が楽しむことができるとしても、その精神の苦悩は考えてもあまりあるものに違いないのだ。

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東北大学の元学長西澤潤一先生がその著書の中で、
「科学で解決できないことはない。今できなくても、未来には必ず科学が解き明かす」
というようなことをおっしゃっていたのを記憶するが、曖昧なものについてはなかなかそのメカニズムを解明することは今の科学でも困難だ。

その代表格が「宇宙」。

宇宙はどのくらいの大きさがあって、何時生まれて、これからどうなるのか。
という疑問にとどまらず、そもそも「宇宙」って何故存在するの?
というようなことを考え始めると、かなりの確率で「ビョーキ」になってしまいそうなくらい、重大な謎の一つだ。

一方において、身近にも解明の難いものが少なくない。
例えば、
「室内蛍光灯は明るいほど仕事や勉強の効率が上がる。」
という思い込みがあるけれども、これも単なる思い込みで、最近の科学では光はその時に行っているジョブの内容や状況、目的に応じた適切な色温度や明るさがある、ということがわかってきている。
例えば数学の勉強をしているときは白っぽい光が集中でき、国語の勉強をしているときは黄色っぽい光のほうが想像力が働き効果的なのだという。

最近は植物工場の情報が一般にも流れてきているので「光の色」については多くの人々がこれまでの思い込みが明らかな間違いか、間違いに近いものであったことに気づきだしているに違いない。

リチャード・ワイズマン著「その科学が成功を決める」(文春文庫)は、そういったこれまで「それが正しい」と思われていたことを科学的に調査分析し、その結果をレポートした、なかなか興味溢れる科学ノンフィクションであった。

どこの会社でもグループワーキングの大切さや、チームプレーの大切さが説かれ、それがイノベーションの元となる重要な要素であると教育され、実践を要求される。
重要な決定事項も話し合いを重んじる。
それが民主主義社会における企業の役割だ、と説かれるのだ。
とりわけ最近増殖してい「コンサルタント」と呼ばれる人たちには、そういうことを盛んに推し進め、クライアントの同意を得ようと必死になっている人たちが多いが、こういう人たちの説教は話半分がいいんじゃないか、むしろお偉方に不興を買うことの無いように、丁重に追い出すよう働きかけるのが適切ではないかと私は思っていた。
コンサルタントが10人いれば役立つのは1人くらいで、あとはそのコンサルタントの話を聞くぐらいなら、ビジネス系の雑誌や漫画を読んでいる方がよっぽど有効ではないか、と思っていたのだ。

実際、プロジェクトの推進などはグループで出来たものではない。
皆の意見が交錯し、どの人の意見を立てても不興を買いそうで、結論は持ち越し。
なかなかプロジェクトは前に進まず頓挫する。
という、まあ丁度昨年まで四の五の理屈ばかりを並べて結局何もできなかった民主党政権のような状態に陥るのが、オチである。
これに対し、諸説を徹底的に否定し、個人が強力な指導力でグループを引率するプロジェクトはあっという間に結論が出て、出てくる結果も斬新で、気がついてみると、次のプロジェクトにもうかかっている、という極めてポジティブな現象を観察することができる。

その代表格がジョブスが存命中のアップル社ではなかろうか。

本書ではこのように、大勢で同意を得ながら進めることが適切であるというのは伝説にすぎないことを立証した例や、最近の若い人たちの一部がハマっている「自己啓発セミナー」には実はなんのメリットもなく、デメリットの塊であることが科学的に分析されている事例が紹介されていて、実に面白いのだ。

ということで、うちの会社のお偉いさんも、本書を読んで目覚めてくれれば嬉しいと思っている私なのであった。


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1981年のスペースシャトル”コロンビア号”の打ち上げ以来、宇宙へ行くことはそれほど特別ではなくなってしまった。
いや、まだまだ特別だけど、遊園地のアトラクションの親玉のような機械に乗って特別な訓練を積んだ宇宙飛行士だけが宇宙へ行く時代ではなくなったことは間違いない。
一昨年、スペースシャトル計画が終了。
人類が宇宙に行くにはソユーズ宇宙船しか手段がない今日だが(中国の有人宇宙船には乗りたくない)、現在宇宙へ人を運ぶために開発されている乗り物は単なるロケットではなく、航空機の延長線上にある「宇宙船」であることも、スペースシャトル以前と、その後の大きく異なっている部分なのだ。

この特別ではなくなった宇宙飛行。
つまり昔は特別だった。
人類は選ばれし人のみが生きて帰れるかどうか分からない乗り物に乗って宇宙へ飛び出した。
宇宙船と呼べるような代物ではなく、単なるカプセル。
そこにガスバーナーの親玉程度の制御エンジンを取り付けて地球をグルグル回っていた。
そんな時代が1981年まで続いていたのだ。

その最初の宇宙旅行はもちろん超特別だった。
なんといって宇宙空間なんか誰も行ったことがないので、行ったら何が起こるのかわかない。
そんな状況でミサイルを改造したようなロケットの先っちょに取り付けた宇宙カプセルに乗って飛び出して行った人がロシア人ユーリ・ガガーリン。
人類初の宇宙飛行士。
日本では、
「地球は青かった」
と言ったことになっている宇宙飛行士だ。

J・ドーラン、P・ビゾニー著、日暮雅道訳「ガガーリンー世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で」(河出書房新社)はガガーリンのバイオグラフィを中心に初期の宇宙飛行に関する様々な事故や政治、人間模様が描かれている興味溢れるノンフィクションだった。

ガガーリンを中心にロシアと一部アメリカの宇宙飛行の黎明期を描いている。
その内容は劇的だ。
初期の宇宙飛行がいかに危険で技術的に未熟であったのか。
そして政治がすべてにおいて、主導していたのか。
ということを改めて知ることのできた。

例えば、宇宙飛行を成し遂げた後のガガーリンの人生については、一般人の私たちはあまり知ることがなかった。
国との約束で、初の宇宙飛行についても詳しくは語らず、ただ歴史の人とのみとなり、フルシチョフに利用された、ブレジネフに疎まれ、たった36年で閉じた人生。
その生涯を知ることは一人の宇宙飛行士の人生を知ることにとどまらず、第二次世界大戦後に展開されった東西冷戦時代の大国の意地のようなものを今更ながら付きつけられた感じがして、歴史の罪深さを感じるのだ。

それにしても宇宙への冒険は多くの犠牲者を出したものだ。
今私たちは気象観測、テレビ中継、電話、ネットなどで宇宙開発技術の穏健を十二分に受けている。
地球軌道上には宇宙ステーションさえ浮かんでいて常に誰かがそこに滞在し、科学技術その他の発展に尽くしている。
しかし、そこへ行くために払った代償はスペースシャトルで亡くなった14人の宇宙飛行士や科学者、一般人も含めて決して少なくない。
宇宙へ行くのは、技術的に単なるロケットに頼ることはなくなった時代かも知れないが、まだまだ危険がつきまとっているのだ。

本書で取り上げられている最も印象的な事故はガガーリンの事故死ではなく、その数ヶ月前に起こったソユーズ1号の事故だと思う。
なぜなら、この事故には当時の宇宙開発に対する国家の、そして社会の、すべての歪みが詰め込まれていたからだ。
ソユーズ1号は未完成のまま打ち上げられ、船長のウラジミール・コマロフは自分が確実に死ぬことを知りながら宇宙へ旅だった。
それを阻止しようとできる限りの抵抗を試みたガガーリンの姿が胸を打つのだ。

ガガーリンによる人類初の宇宙有人飛行から50年をきっかけに翻訳された本書は宇宙のみならず、科学に興味ある人にとって必読の書であることは間違いない。

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リーマン・ショック以来だろうか、通勤電車の中で読書をする人の中に図書館の本を読んでいる人が少なくないことに気づくようになった。
それもたまにではなく、結構頻繁に見かけるようになったのだ。
なぜ図書館の本かと分かるかというと、書店の紙カバーもなく書籍を裸で持ち、その書籍の背表紙には「○○市立図書館」とかいう図書館の分類シールが貼られているからだ。
書籍の購入には多額の費用がかかるためか、それとも書店においていない本が読みたいからなのか、図書館の書籍を電車の中でよく見かけるようになったのだ。

かくいう私も図書館はよく利用する方だ。
どの程度利用するのかというと、月に2~3回利用するのだ。
その主目的は仕事のことで調べ物をする時と、暇つぶしをしたい時だ。

仕事で図書館を利用するなどというと、どことなく「キザで嫌なやつやな」と思われる人もいるかもしれない。
が、なんといっても私の会社は、経営者一族が偉そうなことを言いながら権力をふるいながらも、実は仕事に利用できる書籍もほとんどなく、新製品開発や関連法規を調査するための資料は自分で集める必要がある。
これが大学のラボにいるときなどは大学の図書館を利用すればいいのだが、会社にいる時は結構難渋することになる。

私の会社は大阪南部の臨海部にあり、そこから近くの図書館には自動車を使って出かけなければならない。
しかも近くの公共図書館が規模的に小さな上、当然蔵書量も少なく、近所のTSUTAYAのほうがバリエーション豊富ではないかと疑ってしまうこともある。
図書館といえば文化力のバロメーターだが大阪南部は文化のバロメーターは「祭り力」だと思っているフシがあり、なかなか難しい。
だから図書館というと、堺市や大阪市の市立中央図書館を利用することになる。
実を言うと国会図書館に次ぐ蔵書数を誇る大阪府立図書館も利用したいのだが、東大阪という私のロケーションからは大変不便な場所にあるので使ったことがない。

この図書館、最近は行政、医療やビジネスなどの情報発信基地としての役割を果たしているが、どれだけの人がそのサービスを利用しているか定かではない。
また図書館本来の機能をどれだけ有効に利用できているのか、これまた定かではない。
図書館といえば無料のTSUTAYAだと勘違いしている人もいるかもしれないのだ。
とりわけ武雄図書館などというのが話題を呼ぶと、そう思う人も出てくるかもしれない。

そんなこんなで図書館について何かいい本はないかと日頃感じていたところ、いい本を見つけた。

「図書館に訊け」(ちくま新書)

著者は同志社大学図書館の司書である井上真琴さん。
本書の内容には図書館そのものの利用方法のみではなく、著者の図書館という存在そのものに対するものすごい情熱が漲っているのだ。
それも図書館があらゆるものに対するポータルサイトになる可能性を秘めているのではないかと思えるほどのパワーを感じるのだ。
そしてそれは、今まさに進んでいる図書館革命の一つに過ぎず、本書を読むことで図書館に対する価値観が大きく変わる人も少なく無いだろうと私なんかは考えるのである。
ちなみに、私も図書館といえば無料で情報をさぐれるところ、程度にしか考えていなかったが、本書を読んでその利用方法いかんで人生をも変えるかもしれない存在であることを知ったのであった。

ああ、ビックリ。


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大学の仕事をしていると当然のことながら多くの学者さんとお付き合いをすることになる。
私の場合は主に有機化学や生化学に関係する先生方とお仕事をさせていただいているのだが、こういういわゆる「科学者」という人たちはある共通した個性がある。

それは話が面白いということだ。

専門分野に生涯をかけて仕事をするということは、簡単なようで難しい。
大学教授になるくらいの人は、この難しいことに挑戦している人たちだ。
しかもその学術の世界において一定以上の評価を得ている人たちだから、話が面白いのは当然だ。
その他多数の科学関連の人達は民間企業に入って研究のまね事をするのか、あるいは中学、高校の無名理科教師になるのか、はたまた御用学者かテレビに出る小銭稼ぎのコメンテーターになるのだろう。

こういう優れた科学者というのは職人世界とちょっとした共通性があるように思える。
時々建築現場で働いている左官職人や溶接工、ダクト職人、配管工といった人たちの匠の技を見て感動することがあるが、科学者のそれもまた同じような「科学の匠」という凄さがある。
一つのことをやりぬくというのは、人生を賭したポリシーがあり、ピントがずれないこだわりもある。
それが優れた研究者や職人の親方になると、見かけは頑固そうで怖そうだということになる、
しかし実際は話すと優しく穏やかな人柄に接することになるのだ。

尤も、大学の先生方もその大学のレベルによって多少異なるのも仕方のないことで、ほんの一年ほど前に話題になった東京大学の似非細胞学者だったか「iPS細胞は私のほうが早かった」という一種の丸キな人も現れて困惑させられることもあるのだ。

NHK出版新書の「知の逆転」は話すと面白い東西きっての著名なベテラン科学者にインタビューした「未来への提言」のまとめなのだ。
6人の科学者が登場するが、DNAのらせん構造を解明してノーベル賞を受賞しているジェームズ・ワトソンやベストセラー「銃・病原菌・鉄」の著者ジャレド・ダイヤモンド、「レナードの朝」の著者オリバー・サックスなど。
6人が6人とも実にユニークな人々で、知的でユーモアに溢れ、多少とも皮肉っぽいところが笑わせてくれるのだ。

こういう若くして実績を造り、かつ今もなお世界の発展のために尽くしている人々の言葉というのはユーモアひとつとっても重みがある。
そして誰ひとりとして規格化された個性の人はいないことに気づく。
日本の小中学校では「人々は平等だから」という訳のわからない理論で、個性のある子どもは迷惑者、なんにでも従順なスタンダードな子どもが優等生ということが当たり前になっているが、この考えがいかに間違いであるのか。
世の中を変えるような人物は、このような考え方を持ち、このように生きてきたのだ、ということが実にわかりやすい一冊なのであった。

生涯考える人は、出る杭なのであった。

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遠い昔。
子供の頃の思い出。

子供の頃、私は公団住宅に住んでいた。
間取りは六畳間、四畳半、三畳の板の間、そしてキッチン、風呂、トイレ。
このうちの三畳の板の間をサラリーマンを辞めて起業したばかりの父が事務所に使っていたことがあった。
私は幼稚園に入るかはいらないかというような年齢の時で詳細は覚えていないのだが、ねずみ色の事務机と黒い電話が置かれていた。
実際にそこで父が仕事をしていたという記憶はないのだが、色んな人が訪れていたことは本人から聞くまでもなく母の証言からも伺える。

その訪問者で最も困ったのは「ヤクザ」だったという。
辞めた会社の顧客を父がとったとかで、その会社の部長級のオッサンがヤクザを連れて我が家に文句を言いにきたことがあったのだという。
さすがの母もこれには恐れをなしたようで、
「こわかったよ」
と今でも時々話しをするのだが、私の父は今もそうだが法学部出身者らしく法律知識を駆使してヤクザもろとも追い払ってしまったという。
実際に法律を盾に脅したのかどうかは分からないが、金でケジメを付けたのかも知れず、結果的に愛結したということは、父の度胸は大したものであった今になってよくわかるエピソードである。
で、その時の私はといえば、母に抱きついて離れなかったのだという。
子供心にも怖かったに違いない。

私の父は大学出のくせに若いころは喧嘩っ早く、私が生まれる前はヤクザを殴りつけて警察沙汰になり、本人が学生時代インターンでお世話になっていた弁護士の先生にお世話になり大目玉を食らうこともあったらしい。
先生は後に首相になった岸信介と同窓で、先生自身は大阪弁護士会の会長もやったことのあるエライ人だったのだが、面倒を見ていた学生、つまり私の父はヤンチャで結構手を焼いたのではないかと思える。
この弁護士の先生は私の名付け親でもあるところを見ると、父は生涯頭のあがらなかったのは祖父とこの先生だけだったようだ。
頭は悪くないくせに、喧嘩早い父はそれはそれで昭和30年代を生きる若き男としてはなかなか面白いところもあったのだろう。
男というものはエピソードがないよりも有る方が、なんとなく良いように思えるのは私だけではあるまい。

そういう意味において、シンガーソングライターで作家のさだまさしのお父さんも結構面白い人だったようだ。

小説「かすていら」は著者のさだまさし自身が危篤の父を見舞いつつ往時を思い出す、私小説なのだが、これが実に面白い。
父の死に直面しながら悲壮感は一切無く、父と息子の男としての生き方が著されていて、なんとも清々しい気持ちになるのだ。

無論さだまさしのお父さんも普通の人ではなかった。
生い立ちそのものが劇的でさえ有る。
ヤクザとの格闘と親交。
悪徳不動産屋との駆け引き。
破産。
引越し。
雲隠れ。
などなど、波乱に富んでいる。
これがあの「親父の一番長い日」の親父のモデルかと思うと笑えてくるのだ。

ハチャメチャな親父とそれを支える母、長男である著者と弟、妹の家族。
そしてこの家族をとりまく知人や友人が実に素晴らしく、実に人間味が溢れている。

「かすていら」は甘く奥行きと厚みのある暖かな人間模様を描いた傑作な物語だと思った。
さだまさしの歌のように涙と笑いが溢れているのだから。




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私が中学3年生だった1977年の秋。
テレビはアメリカのミニシリーズドラマで話題は持ちきりだった。
そのミニシリーズの題名は「ルーツ」。
アメリカ史のダークサイド、黒人奴隷の家族についてアフリカで奴隷狩りに遭ってから、現代に至るまでのストーリーで、かなり衝撃的な内容だった。
モデルはその作家のアレックス・ヘイリー。
一種のタブーを扱ったドラマだけに本国アメリカでは視聴率40%以上を獲得し、社会現象にまでなった。

西アフリカで囚われた少年クンタ・キンテが奴隷船で米国へ。
上陸した港の奴隷市場で買い叩かれて白人の農園へ。
数々の虐待にもめげず、主人から与えられた「トビー」という名前を拒否しつつ、彼は本名クンタ・キンテを捨てずに部族の誇りを捨てずに生き続けた。
結局、彼は二度と故郷のアフリカに戻ることはなく、そのまま彼は米国で娘を授かり、その娘の成長を見届け米国で奴隷として亡くなった。
その娘が息子を授かり、奴隷解放令以降、その息子が自由な黒人として新天地へ旅立つ所で最初のシリーズは終了。
以降は「ルーツ2」に引き継がれた。
クンタ・キンテの孫から始まり、3代先の作者のアレックス・ヘイリーまでが描かれた。
ドラマのクライマックス、現在のアフリカを取材で訪れたアレックス・ヘイリーは、祖先がいたと思われる部族の長から長い物語を聞かされる。
何時間にも及ぶ物語の末に先祖のクンタ・キンテの名前に出会うのだ。

あまりの感動に、アメリカ版大河ドラマとしてもてはやされ、刺激を受けた人たちが自分のルーツを探し当てようと家系図を調査、辿る運動がにわかに高まったのであった。

ところで、人というのはどこまで先祖を遡ることができるのだろう。
人の祖先を遡ることは難しく、1000年以上続く確実な家族といえば、正直天皇家以外に無いのではないかと思ってしまう。
さらにこれを人類一般に当てはめて、例えば「日本人はどこから来たのだろう?」と問いかけると、ほとんど訳がわかならない。
アジアだから北京原人に至るのか、はたまた別の原生人類に至るのか。
それに対する解答はついこの間まで存在しなかった。
調査するすべが無かったのだ。
ところが、科学の進歩が、歴史をも解明することが可能になりつつあるということに衝撃を覚えたのであった。

ブライアン・サイクス著、大野晶子訳「イヴの七人の娘たち」(ヴィレッジブックス)は女性のみが遺伝的に受け継いでいくというミトコンドリアDNAを用いて人の先祖を追い求めた科学ノンフィクションだ。
なんでも、欧州では殆どの人が7人の女性に行き着くという、「人類みな兄弟」的結果がでているのだという。
古代人の化石からDNAを採取することに成功し、しかもそのゲノムを解読し、現代人のそれと比較した結果だからという、
「そんなこともできるのかい」
という驚きなのだ。

筆者はアルプスの山中で発見されたアイスマンのDNAを解読したことで知られる科学者であり、その信ぴょう性は著しく高い。
人間、祖先を6代前どころか2万年4万年と遡れば、かなりの頻度で「親戚だった」という証拠が見つかるというのも驚きだ。
DNAは生命が生み出した、自然のデータファイルなのであった。

本書にはいくつかの読み物としてのキーポイントがある。
前半の学会で巻き起こった議論の応酬と学者間の闘いは、アカデミックな世界の生々しい人間臭さを浮き彫りとし、後半の7人の女性の物語はDNA調査の結果に基づいた作者の創作だが、物語というよりも、当時の様子をイメージする助けにもなり、かなりユニークだった。
また、いわゆる「ミッシングリング」問題についても結論を出していて、ネアンデルタール人とクロマニオン人の間に遺伝的繋がりはなく、数万年前までは「人」にカテゴライズされる動物が複数存在したことの証でもあるということも、大いに驚きなのであった。
クロマニオン人はDNAでも明らかに現代人のそれと同じで、現代ヨーロッパ人の祖先であることも確認されているようだ。
しかしネアンデルタール人がなぜ没落し、最期の一人がイベリア半島で死を迎えることになったのかの謎は、大部分は想像の世界に包まれているのが現状だ。

読んでいて私がイメージしたのは、もしかするとビッグフットやヒマラヤの雪男は細々と生きながらえているネアンデルタール人の末裔ではないか、というイメージも浮かんできたのであった。

ともあれ、おしまいには日本人についてのDNAの解析結果も載っていて、これもまた興味をそそられるところなのであった。

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