<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



先日のブログで、

「いっそのことロシアもNATOに加盟を希望したら」

と冗談で書いたのだが、ニッポン放送の「辛坊治郎 zoomそこまでいうか!」の2月
21日の放送をpodcastで聴いていたら、なんと!

「2000年と2002年にプーチンがクリントン大統領に『ロシアもNATOに入りたい』と言ったことがある」

と筑波大の中村教授が話していたのだ。

「えええ!そんなことがあったんですか? じゃあ、NATOの仮想敵国の意味が無いじゃないですか」

と辛坊治郎が訊ねたところ、

「そんなことないですよ。中国があります。」

というのだった。

ん〜〜、もはや遅いがそういうこともあったのかと大いに驚いた放送なのであった。


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地震報道には一定の法則がある。

「それは被害の大きさに関係なく首都圏からの距離に反比例して扱いが変化すること」

東京からの距離が大きいほど、扱いが小さくなります。

阪神大震災は地下鉄サリン事件までの3ヶ月の報道。
熊本地震は在日米軍兵士による強姦殺人までの2週間。
で、今日発生した大分地震は発生から3時間ほど。

東日本大震災はキー局のある東京も被害を受けたので10年経った今も報道中。

メディアの存在ってなんなのか?
地方の扱いを見ていると、その本質がよく分かる。


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テレビを見ていたら小さな子どもが立っていて、何やらモジモジしている。
素人の子供であることは明らかで、なんとなくホンワカしたムードが伝わってくる。

「ピカピカの一年生のコマーシャルみたいやね」

と、一緒に見ていたカミさんが言った。

「ホンマやな」

と私。
その瞬間画面には、
「ピカピカの、一年生♫」
の歌が流れた。

小学館の小学一年生のCMなのであった。

なんと初々しいことか。
そしてなんと爽やかCMだろうか。
小学校入学前の子どもたちのワクワク感、ドキドキ感が伝わってきて思わずニコッとしてしまう。

ここんところ、ひどいCMが目立っていて不愉快になることが少なくない。
名作アニメ「アルプスの少女 ハイジ」を冒涜する家庭教師のトライのCM。
社員総出で制作スタッフが幹部の顔色を伺いながら作ったとしか思えない長谷工のCM。
子供が絶対言わない会社のPRをさも常識でしょみたいに子役に話させる東急リバブルのCM。
例を上げればきりが無い。

それと比べると明らかに小学館のCMのなんと爽やかなことか。
昭和のCMのリメイク。
でもそのホノボノ感がなんとも言えない内容だ。

今年も復活CM ピカピカの一年生。
昭和時代の凄さが今年も令和に輝いていると思った。


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阪神大震災が発生したのが1月で地下鉄サリンが3月。
このとき、報道の軸足が神戸・大阪から一気に東京へ移ったことは今も記憶に生生しく刻まれている。
サリン事件が発生したら神戸の地震が解決した、なんてことはもちろんなく、現場では懸命な救命活動と復旧活動が続けられていた。

以来、テレビもラジオも信頼しなくなった。
儲かればそれでいいというのが彼ら多くの姿勢なので、視聴率を稼げないテーマはたとえ何万人が災害に巻き込まれようが関係ない。
奇異なトピックに集まる姿は、暑い夏場、路上に落ちている犬のう○こに群がる蠅みたいなものなのだろう。

今朝、九州地方でM4の地震が発生。
ちょうどそのときにテレビの「ニュース番組」では今年の「大河ドラマ」の話題が放送されていた。
そもそもこれって報道番組でお伝えする内容なのかどうか疑ってかかる必要がある。
その時、字幕で地震があった旨伝えられたが大河ドラマの「番宣」が中断されることはなかった。

こういう放送局が一般市民から受信料をなる料金を強制的に徴収することを正当として叫んでいるのが理由がわからない。

地震より番宣が大切。
次回、阪神淡路大震災や東日本大震災級の地震が日曜夜に発生したら、多分ドラマが優先されるんだろうな、と思った朝のひとときであった。


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大晦日の紅白歌合戦をテレビで観ていて奇しくもミュージシャンをアーティストと呼ぶ理由がわかった。

テレビやラジオを視聴していると音楽がかかるとき、歌手やバンド、作曲家、作詞家のことを「アーティスト」と紹介されることが多い。
私はそういう呼び方を耳にしてから違和感いっぱいで、なにをもってして音楽関係者を「芸術家」としなければならないのか理解できかなった。

演歌歌手がアーティスト?
アイドルグループがアーティスト?
オーケストラがアーティスト?

なんじゃいそれ?
しっくりこんな。
という感じだった。

で、先日の紅白歌合戦。
テレビでこれを観ていると、というか聴いていると出てくる連中のほとんどを私は知らないことに驚きを覚えた。
いかに世間から隔絶した生活を私は送っているのだろうか。
たはまた世の中に関心を払っていないのだろうか。といささかびっくりしたのだった。

「知らへんのはお父さんぐらいやで」

とカミさんは指摘する。
しかし聴いたことがないことには間違いなく、オープニングの郷ひろみ以降、松平健まで完全にアウェーの状態に置かれてしまった。
誰が出てきて何と歌っても、私には新人発表会とほとんどかわらなかったのであった。

しかしそれだけに「聴くことの質」に関してはかなり公平な判断が付いていた。

まず、これら私の知らない出演者たちにはある特定の傾向があることがわった。

その1:単品のアイドルがいない。

アイドルといえば昔は単品が常識なのであった。
私の時代、山口百恵でも桜田淳子でも、その後の松田聖子にしろ小泉今日子にしろだいたいが単品歌手でグループではなかった。
グループもいたにはいたが、ピンクレディやキャンディーズを除き、特別に秀でた人はいなかったように記憶している。
しかも一人分のインパクトは小さくなく、今のAKBだか日向坂だかなど大集団に圧勝の華やかさがあった。
もしかすると家電や薬と同じようにアイドルの世界も量販になっているのかも知れない。

2:ビジュアル重視

見た目が重視で明らかに歌が二の次であることもわかった。
派手な衣装。
奇異な踊り。
コンピュータ画像や最新の照明設備を駆使したセット美術戦略。
したがって映像のないラジオで聴いていると単なるどんちゃん騒ぎに聞こえてしまう。
一体あれは何なんであろうか。

3:歌詞が聞き取れない

かつて五木寛之がさだまさしの歌詞を取り上げ優れた日本文学であると評したことがあった。
今の歌は歌詞の意味がどうのこうのという以前に何を言っているのか聞き取れないことが多い。
したがって文学どころではない。
発音は外国語のようなイントネーションとよくわからない滑舌の日本語。
日本語であると認識するまで少し時間がかかることもある。
そして頻繁に交じる外国語の単語。
初めてサザンを聴いた高校時代。
桑田佳祐の歌い方は「ありゃなんじゃい」と思ったことがあったが、むしろそれは今やノーマルだ。
しかもたまに聞き取れたらどんなうたも相手を呼ぶ呼び方が「君が」「君が」「君が」でほとんど同じ歌詞のような様相を呈している。

4:そもそも歌がへたくそ

紅白歌合戦ではなく「NHKのど自慢」だったら鐘1つの歌が続出する歌唱レベル。
これには参ってしまった。
あるシンガーは「愛を込めて歌います」といった。
だから期待して耳を傾けていたら声は出ていないわ、かすれているわ、甲高いわ、何を言っているのかわからないでズッコケたのであった。
ある者はソウルミュージック風のバラードを歌い始めたのだが、はやり声が出ていなくてマイクを持っていない方の手の動きだけが米国の著名シンガーのような振り付けで動きつづける。
盛り上がりの部分でも基本ができていないらしく音程が微妙にずれているし、声に伸びがない。
カラオケ大会の様相を呈してきたと思った。
つまり格好だけ洋楽のトップスターをモノマネしたソウルシンガーやラップミュージシャンが紅白に出ているというわけなのであった。

司会の大泉洋が歌い終わった歌手に対して、
「いや〜〜〜〜、感動しました!」
と言ったとき、カミさんが一言。
「心にもないことを言わなあかん商売なんやな〜」

要はシンガーともアイドルともミュージシャンとも言いにくい、そんな人達なのだ。
だから十把一絡げで「アーティスト」とボカして呼んでいるのだろう。
芸術家も舐められたもんである。

なお、東京国際フォーラムから中継ということだったが、あちこち別の場所からも頻繁に中継されるため紅白歌合戦を観ているというよりも、どちらかというと往年の「ザ・ベストテン」を観ている感覚に陥ってしまったのは私だけだろうか。
次回から司会は久米宏と黒柳徹子にしていただきたいと思うNHK紅白歌合戦なのであった。






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オリンピックの中継はもとより高校野球の中継を見ていると地上波のテレビ放送に限界が来ているのがよくわかるようになった。
これは従来であれば気が付かなかった部分だが、インターネットで中継ができるようになってからテレビ放送の弱点がとりわけスポーツ中継で現れてきているのだ。

例えば地上波テレビは以下の放送に対応できない。
・試合時間の延長(サブチャンネルを使うという苦肉の策があるけれども、チェネルを変えなければならないという手間が発生する)
・複数の競技・試合を中継できない。
・応援するチームあるいは選手の側からの選択ができない。
・CMが入る。
・実況や解説が入る。
など

とりわけ複数の競技や試合を中継できないのは致命傷だ。

オリンピックはすべての競技が中継されているわけではなく、人気種目が中心で、しかも自国の競技に重点が置かれて中継される。
だからマイナーな競技や有名ではない国の競技は見ることができない。
これは従来であればなかなか気づかなかっし、興味もなかった特徴だったが、今回の東京2020のように日本人選手が例えばフェンシングで例えば女子バスケットボールで、例えば競輪などで大活躍することになると、当然視聴者の注目はより多くの種目に広がることになり1つのチャンネルしか使えない地上波各局はその役割を十分に果たせなくなる。

そこで登場するのがWEB配信。
インターネットを使った放送だと、準備の問題はあるかも知れないが、すべての競技を放送することができる。
しかもどこででも視聴することができる。

もはや地上波放送はインターネットの付属物という感覚でさえある。
たまたまパソコンやスマホよりもテレビの方が見やすいからという理由程度で選ばれているのではないかと思えるところもなくはない。

高校野球しかり。
もしかすると祭礼の中継もしかりかも。

これから10年以内に地上波放送は大きくビジネス形態を変える時が来るのかも知れない。


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CMが詰まらない。
なぜこんなに詰まらないCMばかり作られるんだろう。

これにはきっと作る側としての「安全策」が悪影響をして「冒険」ができない製作環境になっているのだと推測される。
とりわけ安全や医療などに関係する分野や、不正競争防止法とか独禁法に抵触する可能性のあるものについては神経質になって、よけいに冒険ができないのだろう。

「こんなCMできました」
「そんなの放送するのは危険すぎるでしょ」
「薬事法に抵触しない?」
「他者を貶める内容になってない?」
「セクハラって受け取られない」
「このタレント、不祥事大丈夫?」
なんて具合に。

広告代理店はスポンサーに気を使うあまり、極めて詰まらないCMを生み出しているに違いない。
その反動として、広告代理店や制作側は「安全優先」「気に入られ優先」になってしまい、結果、ごますりCMが出現する。
どういうものかというと、第三者が見ても詰まらないが、内輪で見たらウケるというもの。
ちょうど、お笑い番組で未熟な芸人を見ていてスタジオ内で笑い声が聞こえるが見ている方は「?」という現象ににている。

で、その代表が「スポンサーの社員が出演している」と思しきCMだ。

ある天気予報番組ではスポンサーの不動産業者の店舗が映り、「いらっしゃいませ」のポーズや「どうしまたか?」というようなポーズをとっている。
それがやたら白々しい。
しかも社員には厳つい容貌の男も少なくない、5人ほどの社員が一斉に「いらっしゃませ」をすると、不動産屋ではなく〇〇組の人たちではないかとさえ思えるのだ。

またある大手建築会社のCMでは社員と思しき数十人から百人を越える人たちが現場の作業着やスーツ姿で音楽に合わせて腕を振っている。

ただそれだけ。

作り手側はミュージカルかなにかをイメージしての画面作りなのだろうが、素人にタップダンスやレビューは無理なので音楽に合わせて腕をふるだけ。
見ているだけで疲れてくる。

こういうCMは他にも多数あり、広告といいながら内輪に向けたメッセージ感が一杯で、それら会社とは関係のない視聴者としては「こういう会社の社員にはなりたくない」というその会社の世界に対する違和感がにじみ出てきて正直チャンネルを変えたくさえなるのだ。
でも社員がテレビの画面に出ているので経営側としては「お前たちテレビに出られていいだろう」みたいな空気も漂っているうえに「これで社員の一体感が得られる」なんて自己満足に陥っているのではないかと思えてならない。
なぜなら見えいる方は完全に白けているから。

社内に向けてはいい顔できるのかも知れないが、社員が出てきてそれが何なのが、受け手側の感覚になるのになぜ気づかないのだろう。
これが今のメディアの一角のクオリティだと思うと.........な気分になってしまう。


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昨年のクリスマス。
フライドチキンを買おうと思って近くのケンタッキーフライドチキンへ行くと、
「今日は予約のお客様だけなんです」
と言われた。
この忙しいのに今頃来んな、という意味なのかと思い、他の店へ行っても大方同じような対応で少しムカついたが、それはそれ。
これはこれ。
かの
書き入れ時に予約もせずに行った私が馬鹿なんだろうと思ってモスバーガーへ行ったらモスチキンを簡単に買い求めることができた。
めでたしめでたし。

そこで思い出すのがケンタッキーのコマーシャル。

決り文句が「ケンタッキーにしない?」

この「〇〇にしない?」
というのは東京では「それにしませんか?」という意味になるのかと思うのだが、関西では「〇〇にしない?」と訊かれたら「しません!」と答えるであろう。
ということでテレビのCMで「ケンタッキーにしない?」というセリフを聞いたら、私は「はい、せえへん!モスチキンにします」と心のなかで答えることにしている。



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星野源と新垣結衣の結婚は久しぶりに明るいニュースだ。
もちろん星野源、新垣結衣の熱狂的ファンにとっては暗いニュースかもしれない。
しかしここんところコロナパンデミックに中国の人権弾圧、ミャンマーの軍事クーデーター、埼玉の一家四人殺傷事件などの暗い話題がいっぱいだっただけに少しは社会にポジティブな影響が出ればいいな、と思ったのは言うまでもない。
たぶん、ラジオで「私は本田翼よりも新垣結衣の方がいいね」と言っていた辛坊治郎氏も太平洋の真ん中でショックを受けているに違いない。

朝のラジオ番組で芸能人の共演者同士が結婚するのは「職場結婚」ということになるというようなことを浜村淳が言っていた。
山口百恵と三浦友和はもう古いのか例に上げられることはなく堺雅人と菅野美穂や篠原涼子と市村正親などが取り上げられていた。
パソナリティーが浜村淳なのでもっと古い長門裕之と南田洋子なんかが例として上げられるかと思ったのだが予想外だった。

何度も恋人や夫婦役で共演すると情もうつってお互いのキャラなんかもよく分かるようになり、結果的に「ほんならホンマにけっこんしようか」となるのであろう。
関西弁で言うかどうかは別として共演するというのは、旅先で出会ったカップルがやがて結婚してしまうというような状況にも合致する共通の経験を通しての成り行きかもしれない。

ということで、実は私も職場結婚。
夫婦役も恋人役もすることがなかった一般部課のしごと仲間でもこういうことになるのであるから、まして嘘でもドラマでカップルになったら現実になってしまうことがあっても不思議ではない。


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今年の大河ドラマ「青天を衝け!」はタイトルがいつ始まるかわからない。
従来のドラマではだいたい冒頭にタイトルがあるか、簡単な解説または前回のおさらいがあったのちすぐにタイトルが流れ始める。
しかし今回の大河は違う。
どうでもいいような徳川家康が登場してグタグタ御託を述べるかと思うと、ストーリーが大方進んだ、ともすればっドラマが始まってから10分以上も経過してやっとタイトルが映し出されることも少なくない。
あまりにタイトルが出てこないので、
「今日はタイトル放送したんやね」
とタイトルが出たのかどうかも忘れてしまうくらいの長さなのだ。

毎回この調子なので全体を通しても同じ様になっていたようで、
「これで第一部”血洗島編”を終わり」
などと先週の大河ドラマは導入部が終わったことを5月になって告げるような有様なのであった。
なるほど、面白いのは面白いのだがなんとなく物足りないストーリーが展開していのはそういうわけがあったのか。
なんとなく合点がいったのであった。

ドラマ自体も渋沢栄一が主人公だそうだが、私には一橋慶喜が主人公と思われてならない物語になっていた。
原作も司馬遼太郎の「最後の将軍」をベースに城山三郎の「雄気堂々」を混ぜ合わせ、適当をエピソードをつないでいるのではないかとさえ感じていたのだった。

それにしてもこの時代の北関東の若者の大胆なこと。
しかし中途半端なこと。
武蔵国からは同時代に近藤勇、土方歳三が輩出されているが、渋沢栄一はそこまで過激にはこの時点では至ることができなかったのだろう。
横浜焼き討ちも断念。
ちょうど彼が横浜焼き討ちを断念した同じ年に長州の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨らが英国公使館を実際に焼き討ちにしていることと比較するとかなりおとなしい。

ちなみにこのような出来事が私の生まれるたった100年前に実際に展開していたことを考えると結構恐ろしいものがある。
1979年に発生したイランのアメリカ大使館人質事件は大騒ぎになったが、1862年に今のようなメディアがあったら江戸からの配信でいくつもの大変なニュースが世界中を駆け巡っていたことだろう。

とうことで、物語は来週ぐらいから渋沢が一橋家に召し抱えられ、やっと主人公としての活躍が始まる。

大河ドラマ。
昔はもっとシンプルな流れだったように思うが時代の流れか、説明が長い。


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