全英連参加者のブログ

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教職の専門職大学院について その3

2005-10-07 00:00:27 | 気になる 大学研究

 産経新聞の社説欄《正論》に9月末取り上げられていた。
 京都大学教授西村和雄さんの意見である。

 以下に引用し、自分の考えをまとめたい。

*****

【引用ここから】
 9月26日 《正論》専門大学院で教員の質低下は止まず


 幅広く優秀な人材確保にも逆行
 京都大学教授・西村和雄

 新たな参入障壁の可能性
 中央教育審議会のワーキンググループは、高い専門性を持った教員を養成する専門職大学院の基本構想をまとめ、専門性と実践力を備えた教員を送り出すべく、2007年4月開校を目指すことを決めた(日本経済新聞2005年6月7日)。
 これに対して、宮内義彦オリックス会長を議長とする政府の規制改革・民間開放推進会議が「新たな参入障壁になりかねない」と「待った」をかけている(朝日新聞2005年6月23日)。
 実は、規制改革会議は2004年12月にも、緊急提言をまとめ、文部科学省が進める義務教育改革に対し、教員養成大学院の設置構想の再考などを求めている。
 緊急提言では、「教員養成のための専門職大学院の制度化を公的に図っていくことは不適当」と述べていた。
 規制改革会議の指摘は傾聴に値する。問題の背景は、現在、教員免許法が、教育学部以外の出身者が教員になることを難しくしていることもある。特に2000年度から実施された新しい教育職員免許法では、教科専門科目の履修必要単位がそれまでの半分かそれ以下へと削減された。
 教科専門科目が削減された代わりに、昔でいう教育原理や教育心理等の教職科目の必修単位が増加され、他学部の学生が教員資格を取ることは、一層難しくなった。
 アメリカの教育改革で重要な意味をもつ報告書『危機に立つ国家』(1983年)では、「教師養成プログラムは『教育方法』の課程に重点を置きすぎており、学ばねばならない『科目指導』の課程が犠牲になっている」と批判している。それを日本では、今になって、一層進めているのである。【ここまで】

【感想】
 多様化する生徒、その保護者、教科指導だけにとどまらない教師の業務。これらに対応するため、教科指導はもちろんのこと、教育原理、心理学、果ては保護者対応のコミュニケーション能力まで、多種多様な知識、経験、学習が必要であることは事実だと思う。これらを教師は求められている現実がある。これまで、ともすれば教えることをしっかりするように教師は求められてきたが、それだけではすまなくなったのである。
 現在西村先生の言うように、科目指導の重要性が認められ、求められ(叫ばれ)ているが、教育原理や教育心理等の教職科目の必修単位を削ることもできないのだと思う。
 …どっちも正論なので、非常に悩ましい。

【引用ここから】
 教育学部学生の学力低下
 私が戸瀬信之慶応大学教授と共同で1998年から2000年にかけて行った国立大の教員養成系大学の学生の算数・数学力の調査では、小学校レベルの単純な問題4問を全問正解したのは24%だけであった。教員の卵の学力は年々低下している。
 団塊の世代が退職し始めると、たとえ低学力であっても、大量に新規の教員を採用せざるを得ない。それが、生徒のさらなる学力低下を引き起こし、学力はデフレ・スパイラルに落ち込む。新規の教員が教育学部以外から供給されないために、教育学部の学生の学力低下が、教員の学力低下に直結するのである。
 だからといって、学生の低い学力を専門職大学院で高めるのは難しい。問題の改善策は、むしろ、適性があれば、他の学部の出身者でも、また社会人でも、教員になりやすくすることである。
 規制改革会議の表現を借りると、「教員養成のための専門職大学院の修了者をアプリオリに適切な人材と位置付け、このような大学院の制度化を図ることは、本来適切な資質を持つ者をかえって排除する悪しき参入規制そのものであり、むしろ、こうした制度変更は、中長期的に教員の資質低下につながる懸念が大きいものと言わざるを得ない」のである。

 中略

 再び、規制改革会議の提言から引用しよう。「教員専門職大学院は諸外国にも例がなく、そのような大学院修了者がそうでない者よりも教師として優れているという前提は成り立たない」【ここまで】

【感想】
 大学生全体の、いわゆる「学力」は落ちているとされる。これは何も教育系学部学生に限ったことではない。むしろ、ここ数年の教育系学部人気のおかげで、落ちていない(あがっている)方である。
 西村先生の意見の通り、何も教育系学部のみが教員免許状を取り、先生にならなくてもいいのだと思う。自分のように高校で教えている者の場合、教育系学部出身者は少数派であり、それ以外の学部(おおよそありとあらゆる学部)の出身者がごちゃごちゃいる方が常態である。僕は、バラエティーに富んだ大学の学部学科で育った(学習した)人間がいる教師集団の方が、いいのではないかと感じている。やっぱり特定の学習履歴(集団としての遺伝子の多様性に乏しいというのは言い過ぎか)の者だけの集団よりも、多様な方が組織としても強いのではないかと思う。
 …誰だ雑種の方が強いとか言っているの。

 小中学校でも、非教育系学部出身者でも、適性あるものを教壇に立てるようにする…教員免許状を取り、正規の教員になれる…方法を考えるべきだ。それが仮に、修業年限が4年半でも5年でもいいのではないのか。そのための学習の場が、専門職大学院と言うのであればわかるが、現在の段階では、まず専門職大学院ありきのような気がする。
 人材登用の幅を広げることができるのか。正直疑問がある。専門職大学院の修了者が、そうでない者よりも教師として優れているという前提は成り立たないとある。その通りだと思う。
 残念ながら西村先生の意見でも採り上げられていないが、現職教員のリカレント教育を行う機関としての教職の専門職大学院のあり方が取り上げられていない。任用するものの質の向上ももちろん大事だが、現職教師がもっともっと勉強しやすい状況ができなければいけないのである。

 誰かこの点について、もっともっと意見を言ってくれないかな。僕のような考え方は少数派なんだろうか。

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 いろいろ考えて、書いてみました。
 上記引用の原本は以下のアドレスで読むことができます。(10月6日現在)
 http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/kyoiku.html

 この中の【教職員】、《正論》専門大学院で教員の質低下は止まず(2005.09.26)、です。

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 自分の考えを書いている間に、インターネットで別の記事を見つけた。「専門職大学院、TACと栄光が申請を取り下げ」とある。栄光は栄光ゼミナールを運営する会社で、「日本教育大学院大学・教職研究科・学校教育専攻」と「日本翻訳大学院大学・翻訳研究科・英語翻訳専攻」の設置を申請していたはず。新聞記事だと、教育大学院大学のことは書かれていない。こちらは申請がそのままなのか、栄光の2校の大学院構想そのものが頓挫したのか。
 …何がおきたのか、調べようと思う。


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