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「神との親しさ」(4) 愛の実践と聖霊 を推薦します

2007年08月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

「神との親しさ」(4) 愛の実践と聖霊

 有名な「神との親しさ」という黙想の本は、以前は聖伝のミサの典礼暦に合わせて書かれ、それに合わせて出版されました。

 以前の版で8月1日から9月の終わりまでの黙想として配置されていた黙想は、今では「神との親しさ」(4) 愛の実践と聖霊 で読むことが出来ます。

 この黙想の本で言われている愛の実践は、実際に極めて難しいものです。何故なら、私たちの利己心と傲慢とがこれ程の愛を実践することに恐れをなさせるからです。しかし、とても美しいページですので、兄弟姉妹の皆様には是非、この本を手に取って黙想して頂きたいと願うと同時に、すこし引用してご紹介致します。


10 「愛は利己的でない」より以下引用。

 愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛は妬まず、誇らず、たかぶらない。非礼をせず、自分の利を求めず、いきどおらず、悪を気にせず。

caritas patiens est benigna est caritas non aemulatur non agit perperam non inflatur non est ambitiosa non quaerit quae sua sunt non inritatur non cogitat malum
(コリント前13:4-5)

 愛は疲れない。
 愛は恩を知らないものに対して不忍耐にならない。
 愛は拒絶にあっても怒らない。それどころか愛と親切を保ち続ける。
 愛は感謝を要求せず、人を疑わない。
 愛は不躾や無礼にも気を悪くしない。
 愛は自分の周囲に冷淡や敵意を見ても、相変わらず、天主の愛のために自分を与えいつも与え続けるという唯一の務めを続けていく。

 もちろん愛も忘恩や侮辱を感じないわけではない。
 それどころか、細やかなこころであればあるほど、愛に反する一切に対してますます感じやすくなるものである。

 しかし、愛は自分の権利を擁護したり、人の忘恩に抗議したり、幾らかの正義を求めたりして、感情的にならない。・・・

 真にこまやかな兄弟的愛徳を実行しようとするまさにその時、自分になされた不正に対する憤慨や抗議の気持ちがもっと強くわき起こってくることも希ではない。・・・

 正義とか他人への戒めとかを口実にして、こうした感情と妥協しそれに従って行動するものは、やがて酷く気むずかしい人となり、愛徳は大きく損害を受けるだろう。

 特にこうした忍耐強い愛、大なり小なりの不正、無理解、侮辱を見逃すことの出来る愛を実行する必要があるのは、・・・

 針で刺されるような痛みを平和なこころで甘受して苦しんでいる様子を見せたりしない愛、仕返しとして自分を苦しませていることを相手に感づかせようとしない愛を実行する必要があるのは、共同生活においてである。・・・


11 「愛は全ての人に自分を合わせる」より以下引用。

 愛は自分の立場を頑なに固守しない。
 愛は他の人が自分に合わせることを期待せずに、それを要求せずに、むしろいつも隣人と和合する。

 天主は人間となるほど、私たちと同じレベルに下られた。それなのに私たちは兄弟達の考え方、好み、必要に自分を合わせるために、自分の「パーソナリティー」の小さな踏み台から降りられないと言うのであろうか。

 「あの人たちは間違っている。あの人たちは粗野で、恩知らずで、ある種の要求や繊細さが分からない」と私たちは他人のせいにする。何という間違いだろう! 私たちの愚かな要求は、何と卑しいのだろう! 

 死ぬべき肉体をまとい、人々の間で生活するほど、私たちのレベルにまでお下りになった天主の御子、永遠の御言葉を眺めよう!

 地上における御生涯の間、主はご自分の仲間として、知識人や完全な教育を受けた人ではなく、洗練された思想や作法をあまり心得ていない単純な田舎者、無学な漁師をお選びになった。

 主は限りない愛の他には、別に他の人と変わったところを見せず、ごく自然に彼らにご自分をお合わせになった。・・・

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日
【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

旧約の大司祭カヤファの権威と天主への従順

2007年08月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

カヤファの権威と天主への従順


 旧約の大司祭カヤファ(或いはカイファ Joseph Caiphas, Joseph Caiaphas, Qayyapa)は、天主の御摂理によって、正当に任命された合法的大司祭だった。ポンシオ・ピラトの前任者、ローマ総督ヴァレリウス・グラトゥス(Valerius Gratus)によって大司祭と正当に任命された。しかしカヤファの権威は天主から来た。カヤファはイスラエルの人びとにとって天主の代理者だった。旧約の大司祭の最高のそして究極の目的は、約束の救い主(メシア)を人々にこれがそうだと指し示すことであった。カヤファの任期は、西暦十八年から三十七年までだった(フラヴィウス・ヨゼフスの Antiquitates による)。 西暦三十六年、ポンシオ・ピラトの任期は終わりを告げ、シリア総督ルチウス・ヴィテリウス Lucius Vitellius がユダヤ問題に干渉して三十七年カヤファを解任したからだ。

 前任の大司祭アンナ(任期:西暦六年から十五年)は、カヤファの舅だった(カヤファは裕福な大祭司アンナの娘と結婚した)ので、婿であるカヤファは引退したアンナの影響を受け続けた。しかしカヤファこそ公式の大司祭であったし、衆議所の正式な長であった。

 私たちの主イエズス・キリストが聖金曜日に十字架の上で御死去された時、イェルサレムの神殿の至聖所の幕は真っ二つに裂け、旧約が無効になったことを意味した。聖マテオはこう書いている。「イエズスは、ふたたび大声で叫んで、そして息を引き取られた。あたかもその時、神殿の幕は、上から下に二つに裂け、地はふるい、岩はさけ、墓はひらけた・・・。」

 西暦七〇年、ローマ皇帝ティトゥスは、反逆のユダヤ人たちを平定し、その際イエズス・キリストの預言通りイェルサレムの神殿は崩壊された。旧約のいけにえと司祭職はついに機能することが出来なくなった。天主のみが、旧約の司祭職に終止符を打つことが出来た。

 私たちの主イエズス・キリストさえも、御生涯の間、カヤファの大司祭としての権威を疑問に付したことがなかった。イエズス・キリストは、ポンシオ・ピラトがローマ皇帝の代理者として持っていた、ユダヤを統治する権威を疑ったこともなかった。その反対だった。イエズス・キリストは、ポンシオ・ピラトの命ずるままに受難を甘受し十字架を担われた。

 もしもカヤファが正統な大司祭ではなかったとしたら、正真正銘の大司祭ではなかったとしたら、御受難は無かっただろう。天主の御一人子を排斥して死に渡すことが出来る人間は、そしてローマ当局に執行を依頼することが出来る人間は、正当な大司祭しかなかった。そしてカヤファがその有効で正当な権威を持った最高の大司祭だった。

 そして正式な天主の大司祭として、ユダヤ教の最高権威者として、カヤファはイエズス・キリストを死刑と定め、イエズス・キリストに従う全ての人々を迫害した。


 聖パウロは、カヤファの後継者である大司祭アナニアと衆議会員たちを前にしたことがある。聖パウロは目が悪かったのでよく見えなかった。パウロは、アナニアの命令によって口を打たれたが、自分の無罪を主張してアナニアに抗議して、アナニアを「白塗りの壁よ」と呼ぶ。これは「お手洗い」とか「化粧室」とか「厠」とか「Water Closet」とかと言われているような婉曲的な言い方だ。周りの人から「あなたは天主の大司祭を侮辱するのか」と教えられ、パウロは彼がが大司祭だとは知らなかったと言い、脱出の書 (22: 28) を引用して自分の過失を認めた。「実に、"あなたの民のかしらを呪うな"としるされています、といった。」

使徒行録第23章にはこうある。

 パウロは、衆議会員たちをみつめていった。「兄弟たちよ、今日まで私は、良心に従って、天主のみ前に正しくふるまってきました」。
 すると大司祭アナニアは、そこにいた者にパウロの口を打てと命じた。そこで、パサロは「白く塗った壁よ、天主はあなたをお打ちになるだろう!あなたは、律法に従って私を裁くために座りながら、律法にもとって私を打てと命ずるのか!」といった。
 その席にいたある人が、「あなたは、天主の大司祭を侮辱するのか」といったので、パウロは、「兄弟たちよ、私はあの人が大司祭だとは知りませんでした。実に、"あなたの民のかしらを呪うな"としるされています」といった。

Intendens autem concilium Paulus ait viri fratres ego omni conscientia bona conversatus sum ante Deum usque in hodiernum diem
Princeps autem sacerdotum Ananias praecepit adstantibus sibi percutere os eius
Tunc Paulus ad eum dixit percutiet te Deus paries dealbate et tu sedens iudicas me secundum legem et contra legem iubes me percuti
Et qui adstabant dixerunt summum sacerdotem Dei maledicis
Dixit autem Paulus nesciebam fratres quia princeps est sacerdotum scriptum est enim principem populi tui non maledices


 聖パウロはここで私たちにはっきりと教えている。たとえ邪悪な当局であっても、私たちは権威を尊敬しなければならない、と。

 しかし、長上の権威と職務は天主から与えられた限りのあるものである。地上の権威は、天主の御旨を私たちが遂行することが出来るため与えられたものだからだ。もしも、地上の権威が残念なことに天主に逆らう時、私たちはこの権威を尊敬しつつも、この逆らいには従うことが出来ない。イエズスは、つきしたがってきた大群衆をかえりみて、おおせられた。「私のもとにきても、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない。」(ルカ14:26)


 聖ペトロと使徒達も私たちに同じことを教えている。使徒達は、神殿でイエズス・キリストのことを説教していることを当局に逮捕され、教えることを厳禁された。しかし聖ペトロと使徒達は、大司祭の命令を無視しなければならないと判断し、こう答えた。「人間よりも、天主に従わなければなりません。」(使徒行録5:29)

 使徒行録にはこうある。「さて、かれらを、衆議所の中に立たせて、大司祭がたずねた、「私たちは、あの名で教えるなと正式に禁じておいた。それなのに、あなたたちは、イェルザレム中を自分たちのおしえでみたしたではないか。そして私たちの上に、あの人の血を負わせようとするのか」。ペトロと使徒たちとは、答えた。「人間よりも、天主に従わなければなりません。私たちの先祖の天主は、あなたたちが木にかけて殺したイエズスをよみがえらせました。天主は、痛悔と罪のゆるしとをイスラエルにあたえるために、右のおん手をもって、かれを、かしらとし、救い主としてあげられました。私たちは、このことの証人です。私たちと、そして天主がご自分に従う者におあたえになる聖霊とです」。かれらはこれを聞いてはげしく怒り、殺そうとくわだてた。」


 使徒から伝わるカトリックの「伝統」のなかには、「誤謬は憎むが、権威には敬意を払う」、「罪は憎み、罪人は憐れむ」という伝統がある。


 だから私たちは、司教様の人格や他のコメント者の人格をけなすように取りかねない表現に注意しよう。

 ルネッサンスによって、天主中心から人間中心主義へと重心が移った時、ルネッサンスの人々は天主を排斥することは考えてもいなかっただろう。しかし結果は天主を排斥することになった。

 高度近代技術社会の時代になって、人間から高度技術に重点が移った。その時人間は、人間を軽んじることは考えていなかっただろう。しかし、実際には、機械と高度技術は、人間を機械の歯車の一つ、コンピューターの一部として見なし、人間の間化を進めてしまった。

 共産主義革命によって、革命家は唯物論に適う労働者のための物質に溢れる世界を夢見ていたかも知れない。製造や農業を軽んじることは考えていなかっただろう。しかし実際には、貧困と飢饉と人間の隷属化がやってきた。

 ロシアの強制収容所を体験したソルジェニーツィンは、二十世紀を「石器時代」「原始人時代」だと呼んだ。二十一世紀になって、人間は、ますます非人間的になり、動物のようになり、残酷になりつつあるように思われる。天主の御助けによって、私たちは、何とか人間らしさを維持しなければならない。そのためにも、カトリックの聖伝を天主の御助けによって守っていこう。「誤謬は憎むが、権威には敬意を払う」、「罪は憎み、罪人は憐れむ」という伝統を本当の意味で防衛していこう。


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【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

「キリストにならいて」 の「他人の欠点をしのぶことについて」より

2007年08月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

「キリストにならいて」は、幼きイエズスの聖テレジアが暗誦していた本ですが、いつ読んでも多くを学ぶことができ、慰められます。ですから兄弟姉妹の皆様にもご紹介致します。次は、第1巻、第16章からです。

16 他人の欠点をしのぶことについて
Cap. 16. De sufferentia defectuum aliorum.

1. 天主の御旨があるまで、人は、自分と他人との欠点をしのばねばならない。それは、あなたをためし、また寛容にするための、よい方法で、それがなければ、私たちの功徳には、大して価値がないと考えよ。またその場合には、天主の助けによって、あなたが、それを快く忍べるよう、よく祈らねばならない。

1. Quæ rarissime homo in se vel in aliis emendare non valet, debet patienter sustinere, donec Deus aliter ordinet. Cogita quod sic forte melius est pro tua probatione et patientia, sine qua non sunt multum ponderanda merita nostra. Debes tamen pro talibus impedimentis supplicare, ut tibi dignetur Deus subvenire, ut possis benigne portare.

2. ある人に、再度注意をしても、反省しないなら、口論するな。悪を善にかえることを知る天主に、すべてをまかせよ、それは、天主の僕のうちに、その御旨と光栄とがあらわされるためである。他人の欠点や短所を、忍耐強くしのぶように努めよ、あなたにも、他人にしのばせねばならない多くの欠点がある。自分で自分を、思いのままにすることさえできないのに、どうして、他人をあなたの思いのままにすることができよう。私たちは、他人に完全であってもらいたい。しかし、自分自身の欠点を直そうとはしない。

2. Si quis semel vel bis admonitus non acquiescit, noli cum eo contendere, sed totum Deo committe, ut fiat voluntas sua, et honor in omnibus servis suis, qui scit bene, malum in bonum convertere. Stude patiens esse in tolerando aliorum defectus, et qualescumque infirmitates, quia et tu multa habes, quæ ab aliis oportet tolerari. Si non potes te talem facere qualem vis, quomodo poteris alium habere ad beneplacitum tuum? Libenter videmus alios perfectos, sed tamen proprios non emendamus defectus.

3. 私たちは、他人がきびしくいましめられることを望むが、しかし自分がいましめられることは望まない。他人が充分自由にふるまえることは悲しむが、しかし自分の要求が拒否されることは望まない。多くの規則によって、他人が束縛されることは望むが、しかし自分の自由が束縛されることは、しのべない。それは、他人を自分と同じはかりで計ることが、いかにむずかしいかを証明する。みなが完徳に達したら、天主への愛のために、他人をたえしのぶことは、なくなるだろう。

3. Volumus quod alii districte corrigantur, et nos ipsi corrigi nolumus, aut negari quod petimus. Alios restringi per statuta volumus, et ipsi nullatenus patimur amplius cohiberi. Sic ergo patet, quam raro proximum, sicut nos ipsos pensamus. Si omnes essent perfecti quid tunc haberemus ab aliis pro Deo pati?

4. しかし天主は、「たがいに重荷をしのぶ」(ガラツィア6・2)ことを、私たちに習わせるために、そうお定めになった。だれ一人として、欠点のない人、重荷のない人、自分に満足している人、自分の知識に不足を感じていない人はいない。私たちは、たがいに忍びあい、慰めあい、助けあい、教えあい、戒めあわねばならない。したがって、人の徳は、逆境のときに一層よくわかる。徳をおこなう機会は、人を弱気にはしない。むしろそれは、その人のひととなりをあらわす契機となる。

4. Nunc autem Deus sic ordinavit, ut discamus alter alterius onera portare, quia nemo sine defectu, nemo sine onere, nemo sibi sufficiens, nemo sibi satis sapiens, sed oportet invicem portare, invicem consolari, pariter adjuvare, et ammonere. Quantas autem virtutes quisque fecerit, melius patet occasione adversitatis. Occasiones namque hominem fragilem non faciunt, sed qualis sit, ostendunt.

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【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出
小さきものよ,われに来たれ
神との親しさ(6)
収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察 by ソルジェニーツィン

「キリストにならいて」 の「性急な判断をさけるべきこと」より

2007年08月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 「キリストにならいて」からの引用です。

14 性急な判断をさけるべきこと
Cap. 14. De temerario judicio vitando.

1. 他人をさばかず、自分をかえりみよ。他人をさばくのは、無駄なことで、あやまることが多く、罪におちいることも多い。しかし自分自身をさばくのは、いつもためになることである。私たちは、好悪の感情によって、事をきめがちである。自愛心に目がくらんで、正しくさばく自由を失う。

1. Ad te ipsum oculos reflecte et aliorum facta caveas judicare. In judicando alios homo frustra laborat, sæpius errat, et leviter peccat. Se ipsum vero judicando et discutiendo semper fructuose laborat. Sicut nobis res cordi est, sic de ea frequenter judicamus. Nam verum judicium propter privatum amorem faciliter perdimus. Si Deus semper esset pura intentio desiderii nostri, non tam faciliter turbaremur pro resistentia sensus nostri.

2. 天主が、いつも私たちののぞみの、唯一の対象であれば、自分の考えに他人が反対しても、それほど心を乱されることはないだろう。しかし往々、私たちを左右するものが、内にかくれていたり、外からきたりすることがある。ひそかに、意識せずに、自分のためばかりを計って事をおこなっている人が多い。この人々は、事が思いのままにすすんでいる間は、平和に生きているように見える。しかし思いどおりにいかなくなると、すぐうろたえ、悲しむ。友人、同国人、修道者、信仰者の間でも、よく仲たがいが生じるのは、その感情と意見の相違のためである。

2. Sed semper aliquid ab intra latet, vel etaim ab extra concurrit, quod nos etiam pariter trahit. Multi occulte se ipsos quærunt in rebus, quas agunt, et nesciunt. Videntur etiam in bona pace stare, quum res pro eorum velle fiunt. Propter diversitatem sensuum, et opinionum satis frequenter oriuntur diffensiones inter amicos et cives, inter religiosos et devotos.

3. 長い習慣をすてることは、なかなかむずかしい。また、だれも、自分と違う意見を強いられることを好まない。もしあなたが、どんな人も承諾しなければならないイエズス・キリストの教えよりも、あなた自身の考えと手腕とに、かたくなに重きをおくと、あなたは、ごくまれにしか、また長い年月ののちにしか、霊の光に照らされないだろう。天主は、私たちが完全に服従し、天主に対する愛のために人間的な考え方を越えることを、のぞんでおられる。

3. Antiqua consuetudo difficulter relinquitur et ultra proprium videre nemo libenter ducitur. Si rationi tuæ magis inniteris vel industriæ, quam virtuti subjectivæ Jesu Christi, raro et trade eris homo illuminatus, quia Deus vult nos sibi perfecte subjicii, et omnem rationem per inflammatum amorem transcendere.

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【参考資料】
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【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

「リア王」の苦しみはどんな利益があったのか? 人間の苦しみは無駄なのか?

2007年08月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 リア王についてのつづきです。

 リア王は何故苦しまなければならなかったのか? 王国はバラバラになり、最愛の娘は死を見て自分は死に、忠臣ケントも自分の後を追って死んでいった。この苦しみは、一体どんな利益があったのか? これらの人間の苦しみは無駄だったのか?

 リア王は自分の分際を弁え知っていなかった。傲慢だった。真の愛を知らなかった。しかし、最後にリアは目が覚めた。正気に戻った。自分の愚かさに気が付いた。目が覚めるためには、全てを失ってしまわなければならなかった。

 リア王は次女のリーガンからお供の騎士を一人も付けることができないと言われて、狂ったように家を飛び出る。次女リーガンは父親のことを少しも案じようともしない。

 長女ゴネリルも次女リーガンも自分のステキなお城で快適な生活をしている。掃除の行き届いた暖かい部屋でおいしい料理を食べることができるかもしれない。しかしその心は人間のようではなかった。残酷だった。「痛い目にあった方が薬になる、ドアを閉めて父親をほったらかしにしよう」という。

REGAN
O, sir, to wilful men,
The injuries that they themselves procure
Must be their schoolmasters. Shut up your doors:
He is attended with a desperate train;
And what they may incense him to, being apt
To have his ear abused, wisdom bids fear.


 リア王は嵐に向かって有名な命令を発する。
「嵐よ吹き荒れろ!天上の水の激流(cataracts)と地の下からの水の激流(hurricanoes)がわき起こり、全てをメチャクチャにしてしまえ! 稲妻が光り輝き、雷のとどろきが樹を焼き砕け! 白髪頭の私を打ち、全ての種を滅ぼし尽くし、もはや忘恩の子孫が残らないように!」

KING LEAR
Blow, winds, and crack your cheeks! rage! blow!
You cataracts and hurricanoes, spout
Till you have drench'd our steeples, drown'd the cocks!
You sulphurous and thought-executing fires,
Vaunt-couriers to oak-cleaving thunderbolts,
Singe my white head! And thou, all-shaking thunder,
Smite flat the thick rotundity o' the world!
Crack nature's moulds, an germens spill at once,
That make ingrateful man!


 狂気のあまりリアは自然界さえも自分に対して陰謀を企んだと叫ぶ。自己憐憫と同時に全自然が二人の娘の側に立って企んでいるのだ、と。

KING LEAR
Rumble thy bellyful! Spit, fire! spout, rain!
Nor rain, wind, thunder, fire, are my daughters:
I tax not you, you elements, with unkindness;
I never gave you kingdom, call'd you children,
You owe me no subscription: then let fall
Your horrible pleasure: here I stand, your slave,
A poor, infirm, weak, and despised old man:
But yet I call you servile ministers,
That have with two pernicious daughters join'd
Your high engender'd battles 'gainst a head
So old and white as this. O! O! 'tis foul!

 リア王と道化とは会話にもならない。全くの混乱の中にいる。しかし、リアは、全てを失って目が覚める。人間らしくなっていく。しかしそのためにはコーデリアの愛の犠牲が必要だった。ケントの忠誠が必要だった。


 アレクサンドル・ソルジェニーツィンも「収容所群島」でそれを描く。共産主義の徹底した教育を受けたソルジェニーツィンは、共産党役員演説のロシア語スタイルを批判したことにより、強制収容所に送られた。そこに地上の地獄を見て体験し、その極限の苦しみにおいて天主とキリストを見いだす。ソルジェニーツィンは後に強制収容所の苦しみは「祝福」だったと述懐する。

 全てを破壊尽くすことさえも望む人間の傲慢の盲目さ。全てを失った極限において天主を見いだすことのできる人間の心の高貴さ。人間が目を覚ますために必要な苦しみ。

 ソ連ではロシア人がロシア人を人間とも思わず大量に虐殺した。 地上にユートピアを造ろうとして、人間が人間の計画と人間の意志による人間の望みの儘の世界を造ろうとして、今世界中で堕胎により同国人が同国人を虐殺している。

 ソ連では、自分の持つものがいつ突然として奪われるかも知れなかった。名前、健康、安楽。今から50年前、カトリック教会からミサ聖祭が奪われるなどと誰が想像できただろうか? 将来、私たちから電力が奪われ、インターネットへのアクセスができなくなり、私たちが大切にしてきたと思われるものが突如として無くなる日が来るのかも知れない。

 天主の御憐れみと御恵みによって、天主の御母聖マリアの御取り次ぎによって、その時、それに遙かにふさわしくないけれども私たちに聖パウロと同じことを言う恵みが与えられますように!

「だれがキリストの愛から私たちを離れさせ得よう?患難か?苦しみか?迫害か?飢か?裸か?危険か?剣か?すなわち、「あなたのために私たちは、一日中死にわたされ、屠られる羊のようなものになった」と書き記されている通りである。しかし、全てこれらのことに遭っても、私たちを愛してくださったお方によって、私たちは勝ってなお余りがある。死も、命も、天使も、権勢も、現在も、未来も、能力も、高いものも深いものも、その他のどんな被造物も、主イエズス・キリストにある天主の愛から、私たちを離せないのだと、私は確信する。」


聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
天主の御母聖マリアよ、我らを回心させ給え!



【参考資料】
■ Fatima and the Great Chastisement by John Vennari

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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

第二バチカン公会議の『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

2007年08月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

◆ 『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

【答え】まず異端的な共同体や離教的な共同体を「カトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団」(those Churches and ecclesial communities which are not yet in full communion with the Catholic Church)と呼んでいることに注目すべきです。このことは、部分的な、或いは、不完全な、または一部的な交わりということを想定する表現です。

◆ この充満的な交わり full communion という表現は新しいものか?

【答え】「完全な交わり」(充満的な交わり)と「不完全な交わり」という区別は、第二バチカン公会議の考え出した主要な新しい点です。

 この革新は『エキュメニズムに関する教令』3に出てきます。更に、『教会憲章』14にも「完全に合体している」(fully incorporated) という表現が出てきます。

◆ これに関する教会の聖伝の教えは何か?

【答え】教会の教えは極めて単純です。救いを得るためには、或いは現実に(in re)教会に属しているか【つまり、古典的な三つの条件である洗礼・カトリック信仰・位階制度への従順を満たすことによってです】、
或いは少なくとも望みによって(in voto)教会に属していなければなりません【つまり、暗示的な或いは明示的な望みを持つことによってです】。

 現実に(in re)教会に属していない人びとでも、或る状況では望みによって(in voto)属していることができます。このようなことを教会の霊魂(anima)に属するとも言います。この望みは明示的であったり、暗示的であったりします。明示的であるとは、例えば洗礼を受けようとして準備している求道者の場合がそうです。洗礼を受けてはいないけれど洗礼を受けることによって教会に属することを望むとはっきり態度で示している場合です。暗示的であるとは、異端のプロテスタント宗派に生まれてきたけれども、不可避の仕方によって自分の故意ではなく真理を知らなかったことによる以外はこの異端説を信じなかったような人びとです。カトリック教会が唯一の真理の宗教であると知る主眼がなかったけれども、根本的にそれを受け入れる準備ができているような人びとです。

 従って、カトリック信仰を持っていない人びと、或いは正当な位階秩序に従わない人びと、また自分の置かれた状況を変えようと言う暗示的な望みもないような人びとは、教会には属していません。そのような状態では、永遠の救いを確保することができません。

◆ 第二バチカン公会議の新しいところは何処か?

【答え】第二バチカン公会議は、教会への所属と非所属という二つの中間形態を見つけようとしました。カトリックではないキリスト者らは教会と「不完全な交わり」(『エキュメニズムに関する教令』3、『教会憲章』15)にあるとされ、キリスト者ではない全ての人々は「神の民へ秩序づけられている」(ad Populum Dei ... ordinantur)。

 このことは、教会に属したいという少なくとも暗示的な望みを抱かなくても、望もうが望まないが「神の民へ秩序づけられている」のであるから、救われうるということを暗示しています。

◆ 第二バチカン公会議によれば、一体どうやって、離教的な共同体や異端的な共同体らがカトリック教会と「不完全な交わり」にあると言えるのか?

【答え】カトリック教会から離れたキリスト者や教団が「不完全な交わり」にあると言うために、第二バチカン公会議はラッツィンガー枢機卿が「ドミヌス・イエズス」でそうするように、彼らの持つ「聖化の要素」を取り上げます。これによってキリストの唯一の教会と交わっていることになると言います。

◆ 離教的な教団や異端的な団体であっても聖化の要素を保持しているというのは本当ではないのか?

【答え】プロテスタントが(その内容が多かれ少なかれ変更を加えられているとはいえ)聖書を持っていること、東方離教徒たちが秘蹟を保持していることは本当です。しかし聖伝の神学は、カトリック教会からいわば盗んできたこれらの現実を「聖化の要素」とか「教会の要素」とは呼んだことがありませんでした。教会はこれらをむしろ、真理の宗教の「残骸」と見てきました。

◆ 「残骸」を「教会の要素」と言い換えたことは重要か?

【答え】重要です。何故なら「残骸」ということは極めて重大な真理を表明しているからです。何故なら、カトリック教会から離れることによって、これらの要素は生きているという現実であることができなくなるからです。つまり、死に絶えた「残骸」であり「廃墟」と言うことです。この用語の変更は偶然ではありません。

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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?
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■ 新しい「光りの玄義」について
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■ だから私たちは「カトリック新聞」の聖福音の説明を読むとびっくりするのです
参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

2007年08月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

◆ 第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

【答え】第二バチカン公会議のテキストの曖昧な表現は、保守的な教父たちを錯誤させるために故意に導入されました。最初に公会議文書は教会が常に教えていたこと以外の何ものもの言おうとするわけではない、と主張してそのように幻想を抱かせ、公会議文書が決議されると、これらの文書を盾にとって正統な教えとは全く離れた説を擁護することができるようにするためでした。

◆ これらの曖昧な表現が故意に導入されたという証拠はあるのか?

【答え】カール・ラーナー(Karl Rahner)とヘルベルト・フォルグリムラー(Herbert Vorgrimler)とはそのことを確認しています(K. Rahner und H. Vorgrimler, "Kleines Konzilskompendium". Saemtliche Texte des Zweiten Vatikanums, Fribourg, Herder, 1986, p.21)。

「一致にいたることができない重要な神学問題の幾つかは、いろいろなグループやいろいろな神学的傾向をもっている個人が公会議中、異なる解釈をすることができるような言い回しを選ぶことによってオープンにしておいた。」

◆ 公会議の文書においてそのような曖昧な不正確な言い方がどのようにして正当化されたのか?

【答え】 このような故意の曖昧な言い方は、第二バチカン公会議が司牧公会議であることを望み、教義決定の公会議のために必要な神学的明確さで表明する必要がないという事実から正当化されました。


◆ 計算された曖昧な表現の例を挙げることができるか?

【答え】この曖昧な表現の例の一つに、『教会憲章』において導入された有名な表現「subsistit in」があります。『教会憲章』ではキリストの教会はカトリック教会「においてある(subsistit in)」と言われています。

『教会憲章』8(教会の神的、人的要素)
 ・・・この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。

【ラテン語】
CONSTITUTIO DOGMATICA DE ECCLESIA LUMEN GENTIUM
8. ... Haec Ecclesia, in hoc mundo ut societas constituta et ordinata, subsistit in Ecclesia catholica, a successore Petri et Episcopis in eius communione gubernata(13), licet extra eius compaginem elementa plura sanctificationis et veritatis inveniantur, quae ut dona Ecclesiae Christi propria, ad unitatem catholicam impellunt.

【英語】
DOGMATIC CONSTITUTION ON THE CHURCH LUMEN GENTIUM
8. ... This Church constituted and organized in the world as a society, subsists in the Catholic Church, which is governed by the successor of Peter and by the Bishops in communion with him,(13*) although many elements of sanctification and of truth are found outside of its visible structure. These elements, as gifts belonging to the Church of Christ, are forces impelling toward catholic unity.

◆ 何故第二バチカン公会議はこの subsistit in (のうちに存在する)という表現を採用したのか?

【答え】この subsistit in (のうちに存在する)という表現によって、第二バチカン公会議は「キリストの教会」と「カトリック教会」とを区別しようとしました。聖伝の神学によれば、キリストの教会とは、人類の救いのために私たちの主イエズス・キリストによって創立された超自然の社会であり、すなわちカトリック教会です。

◆ 第二バチカン公会議にとってこの subsistit in (のうちに存在する)という表現は何を意味するのか?

【答え】第二バチカン公会議は、キリストの教会はカトリック教会において完全に実現していると認めています。この具体的で完全な実現性のことを第二バチカン公会議では "subsistentia" と表現しています。

 たとえば、CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH DECLARATION "DOMINUS IESUS" の注56にはこうあります。
(56) The interpretation of those who would derive from the formula subsistit in the thesis that the one Church of Christ could subsist also in non-Catholic Churches and ecclesial communities is therefore contrary to the authentic meaning of Lumen gentium. “The Council instead chose the word subsistit precisely to clarify that there exists only one ‘subsistence' of the true Church, while outside her visible structure there only exist elementa Ecclesiae, which --- being elements of that same Church --- tend and lead toward the Catholic Church” (Congregation for the Doctrine of the Faith, Notification on the Book “Church: Charism and Power” by Father Leonardo Boff: AAS 77 [1985], 756-762).

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳より
56 それゆえ、Subsistit in との言語表現からキリストの唯一の教会が非カトリックの諸教会と諸教団にも「存する」ことができるとする命題を考案する者の解釈は公会議本文の正真正銘の意味とは反する。「それゆえ、公会議が "subsistit" を選んだのはただひとつの真の教会が "存すること" を明らかにするためで、他方、そのためにその目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」(教理省、『レオナルド・ボフの著作"教会:カリスマと権力"についての通知』:AAS 77(1985)756-762)


 しかし同時に、キリストの教会とカトリック教会とが同一ではないと認めています。第二バチカン公会議によれば、カトリック教会の外にも、その他のキリスト教といわれる共同体において「教会の要素」があるために、不完全の仕方で「キリストの教会」が延長していることになっています。

◆ この subsistit in (のうちに存在する)という表現の解釈は確かなのか?

【答え】この subsistit in (のうちに存在する)という表現の解釈は、2000年8月6日の教皇庁教理省宣言『ドミヌス・イエズス』によって公式に確認されました。

「 ...中に存する[subsistit in]」という表現をもって、第2ヴァティカン公会議は二つの教理を調和させようとする。一方では、キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。他方、「その境界の外にも」、つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも「聖化と真理の数多くの要素が存在する」ということである。

With the expression subsistit in, the Second Vatican Council sought to harmonize two doctrinal statements: on the one hand, that the Church of Christ, despite the divisions which exist among Christians, continues to exist fully only in the Catholic Church, and on the other hand, that “outside of her structure, many elements can be found of sanctification and truth”,55 that is, in those Churches and ecclesial communities which are not yet in full communion with the Catholic Church.

更に、つい最近のRESPONSES TO SOME QUESTIONS REGARDING CERTAIN ASPECTS OF THE DOCTRINE ON THE CHURCH
教会に関する教義の幾つかの観点に関する質疑応答(2007年6月29日)
にも同じことが見えます。

第二の質問:キリストの教会がカトリック教会において存在する(subsists in)という断言は何を意味するのか?

回答:キリストは唯一の教会を「この地上に設立し」それを「見える霊的共同体」として制定した(『教会憲章』8)。その最初から諸世紀にわたってその教会は常に存在したし常に存在し続けるだろう。そしてそれにおいてだけキリストご自身が制定した全ての要素が見いだされる。(『エキュメニズムに関する教令』3.2; 3.4; 3.5; 4.6.)「これがキリストの唯一の教会である。われわれは信経の中で、この教会を唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。・・・この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。」(『教会憲章』8:2)

 『教会憲章』の第八番においてある subsistentia (のうちに存在するということ)は、このキリストによって制定された全ての要素がカトリック教会において存在することが継続性・歴史的持続性・存続性を持っているということを意味する。このカトリック教会においてキリストの教会がこの地上において具体的に創立された。

 カトリックの教義に従えば、キリストの教会が、カトリック教会と充満的に交わりにまだない諸教会や教団において現存し働いているということを正しく断言することができる。それはそれらにおいて現存する、聖化の要素と真理とのためである。しかしながら「において存在する」という言葉は、カトリック教会だけに帰されることができる。何故ならまさに、これは私たちが信経において信仰宣言する一性のしるし(われは一なる教会を信じ)に言及するからである。この一なる教会がカトリック教会において存在する。


Second Question: What is the meaning of the affirmation that the Church of Christ subsists in the Catholic Church?

Response: Christ "established here on earth" only one Church and instituted it as a "visible and spiritual community"5, that from its beginning and throughout the centuries has always existed and will always exist, and in which alone are found all the elements that Christ himself instituted.6 "This one Church of Christ, which we confess in the Creed as one, holy, catholic and apostolic […]. This Church, constituted and organised in this world as a society, subsists in the Catholic Church, governed by the successor of Peter and the Bishops in communion with him"7.

In number 8 of the Dogmatic Constitution Lumen Gentium ‘subsistence’means this perduring, historical continuity and the permanence of all the elements instituted by Christ in the Catholic Church8, in which the Church of Christ is concretely found on this earth.

It is possible, according to Catholic doctrine, to affirm correctly that the Church of Christ is present and operative in the churches and ecclesial Communities not yet fully in communion with the Catholic Church, on account of the elements of sanctification and truth that are present in them.9 Nevertheless, the word "subsists" can only be attributed to the Catholic Church alone precisely because it refers to the mark of unity that we profess in the symbols of the faith (I believe... in the "one" Church); and this "one" Church subsists in the Catholic Church.10

第三の質問:「である」という単純な単語の代わりに何故「において存在する subsistit in」という表現が採用されたのか?

回答:キリストの教会とカトリック教会との充満的な同一性を意味するこの表現を使うことは、教会の教義を変えることではない。むしろ、カトリック教会の構造の外に見いだされる「聖化と真理の要素が数多く見いだされ」、それらが「本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促す」という事実から来ており、その事実を明らかにする。
「われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」(『エキュメニズムに関する教令』3:4)

Third Question: Why was the expression "subsists in" adopted instead of the simple word "is"?

Response: The use of this expression, which indicates the full identity of the Church of Christ with the Catholic Church, does not change the doctrine on the Church. Rather, it comes from and brings out more clearly the fact that there are "numerous elements of sanctification and of truth" which are found outside her structure, but which "as gifts properly belonging to the Church of Christ, impel towards Catholic Unity"11.

"It follows that these separated churches and Communities, though we believe they suffer from defects, are deprived neither of significance nor importance in the mystery of salvation. In fact the Spirit of Christ has not refrained from using them as instruments of salvation, whose value derives from that fullness of grace and of truth which has been entrusted to the Catholic Church"12.

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シェイクスピアの「リア王」とカトリック教会の最近の状況

2007年08月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 シェイクスピアの有名な『リア王』(King Lear)を紹介します。

 リア王はイギリスの架空の王である。
 王の宮廷で臣下たちが王を待っている。忠臣ケント(Kent)と腹黒いグロスター(Gloucester)とエドマンド(Edmund)の話が聞こえる。エドマンドはグロスターの私生児である。グロスターは自分の罪を罪とも思わない程、霊的に盲目である。ケントを除いて臣下らは自分の義務を果たしていない。

 ブリテンの老王リアは、八〇歳という高齢のため退位することにした。しかしそのやり方は最悪だった。自分に対する愛情の表現に応じて三人の娘に王国を分け与えようとした。「娘よ、おまえたちの私への愛を語れ!」Speak!

 王の義務は王国に一致を与えること、天主の代理者として管理すること。父親の役目は、子供を愛すること、子供達にとって天主の代理者となること。人間として、私たちの持つものは全て天主から与えられた賜物、当然の権利ではない。八〇という高齢にもなればそのくらい分かっているはず。しかしリア王はそのことに気づいていない。王国は、王である自分の思うようになり、すべて「エエワ、エエワ」で自分の望み通り行けば全ては巧くいくと思っている。父親として、娘たちは自分を全てに超えて愛するべきだと思っている。人間として、全ては自分にとって当然だと思いこんでいる。何という盲目!何という傲慢!何という狂気!

 この悲劇は避けられた。必要でもなかった。しかし王はそれを選んだ。そして自分の利益しか考えていないものどもの言葉を信じ、愛と忠実を捨てた。そして王の失墜と供に皆が苦しむ。

 リアが長女と次女から騙されると同時に、グロスターも自分の庶子エドマンドを信じ、嫡子エドガー(Edgar) を勘当するだろう。

 長女ゴネリル(Goneril)と次女リーガン(Regan)は饒舌な言葉で父王を喜ばせる。リア王は彼女たちが自分を愛していると信じる。

 ゴネリル「どんな言葉よりもあなたを愛します。視覚よりも、空間よりも、自由よりも。」

GONERIL
Sir, I love you more than words can wield the matter;
Dearer than eye-sight, space, and liberty;
Beyond what can be valued, rich or rare;
No less than life, with grace, health, beauty, honour;
As much as child e'er loved, or father found;
A love that makes breath poor, and speech unable;
Beyond all manner of so much I love you.

REGAN
Sir, I am made
Of the self-same metal that my sister is,
And prize me at her worth. In my true heart
I find she names my very deed of love;
Only she comes too short: that I profess
Myself an enemy to all other joys,
Which the most precious square of sense possesses;
And find I am alone felicitate
In your dear highness' love.

 彼女たちの「愛」は本当の愛ではなかった。その「従順」は真実の従順ではなかった。そのことは後に分かるだろう。

 末娘コーディリアは愛の真理を語る。まず語らないことによって。「天主の定めた掟に従って、それ以上でもなくそれ以下でもなく、あなたを愛します。」

CORDELIA
Unhappy that I am, I cannot heave
My heart into my mouth: I love your majesty
According to my bond; nor more nor less.

CORDELIA
Good my lord,
You have begot me, bred me, loved me: I
Return those duties back as are right fit,
Obey you, love you, and most honour you.
Why have my sisters husbands, if they say
They love you all? Haply, when I shall wed,
That lord whose hand must take my plight shall carry
Half my love with him, half my care and duty:
Sure, I shall never marry like my sisters,
To love my father all.

 しかしコーデリアは「不忠実」であり、「不従順」であり、「愛がない」娘だと思われた。しかし見かけ上の「不従順」は本当の従順であり愛だった。

 激怒したリアはコーディリアを勘当し、コーディリアをかばったケント伯も追放される。

KING LEAR
Kent, on thy life, no more.

KING LEAR
Out of my sight!

 コーディリアは勘当された身でフランス王妃となる。ケントは姿を変えてリアに再び仕えるようになる。

 その後リア王は一〇〇名の騎士を連れて娘たちの家を尋ねる。ゴネリルはリア王を招待するが家から追い出してしまう。五〇名の騎士を解雇させて。リアは道化(Fool)から真実と忠実の言葉を聞く。道化だけが、笑わせながら真理を言うことが許される。

 リア王はふさわしい対応を求めて次女リーガンのもとを訪ねる。しかしまたもや裏切られる。リーガンのもとで、リアは誰も供を付けることが許されない。

 リアは、ついに精神の均衡を崩して嵐の荒野をさまよう。しかし、リアはまた王の威厳を取り戻したかのように、自然界に命令する。

KING LEAR
Blow, winds, and crack your cheeks! rage! blow!
You cataracts and hurricanoes, spout
Till you have drench'd our steeples, drown'd the cocks!
You sulphurous and thought-executing fires,
Vaunt-couriers to oak-cleaving thunderbolts,
Singe my white head! And thou, all-shaking thunder,
Smite flat the thick rotundity o' the world!
Crack nature's moulds, an germens spill at once,
That make ingrateful man!


 途中、罪を罪とも思わず霊的に盲目であったグロスターは、リアを保護したかどでリーガン夫妻によって両眼をつぶされ、本当の盲目となる。


 コーデリアは父親を本当に愛していた。勘当され名誉を失い、悪者にされていた。しかしコーデリアは父リアを救うために命を賭す。コーデリアは、フランス軍を率いて上陸して父と再会、狂気から一時的に覚醒したリアは自らの愚かさを詫びる。

 フランス軍は敗退し、二人は捕らえられるも、ゴネリル、リーガン、その夫コーンウオール公は内部争いで滅び、エドマンドもエドガー(Edgar グロスター伯の嫡子)の正義の刃に屈して、死に際に改心する。しかしエドマンドの下した命令を取り消すに一足遅く、コーデリアは絞殺され、リアはその亡骸を抱いて息絶える。

Re-enter KING LEAR, with CORDELIA dead in his arms

KING LEAR
Howl, howl, howl, howl! O, you are men of stones:
Had I your tongues and eyes, I'ld use them so
That heaven's vault should crack. She's gone for ever!
I know when one is dead, and when one lives;
She's dead as earth. Lend me a looking-glass;
If that her breath will mist or stain the stone,
Why, then she lives.

 リア王がコーデリアを腕にして嘆く姿は、聖母マリアがキリストを抱いているピエタの像を思い起こさせる。キリストが罪を犯す人類の罪の償いのために十字架で死んだように、コーデリアは父親のために命を捨てた。


KING LEAR
And my poor fool is hang'd! No, no, no life!
Why should a dog, a horse, a rat, have life,
And thou no breath at all? Thou'lt come no more,
Never, never, never, never, never!
Pray you, undo this button: thank you, sir.
Do you see this? Look on her, look, her lips,
Look there, look there!

Dies

 リア王は、最後まで愛されるに値しないはずの自分を本当に愛してくれた娘の死を腕に、その苦しみに耐えきれずに息を引き取る。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 リア王と私たちの愛する母なるカトリック教会の最近の状況と似ていないだろうか? 真理を語り、諸国の光となり、地の塩となり、諸国の教師であるべき、カトリック教会、諸国民を私たちの主イエズス・キリストの唯一の花嫁であるカトリック教会の第二バチカン公会議後の状況に。

 老王リアは、王の権威と義務を放棄した。第二バチカン公会議では、排斥することを放棄した。権威を持って正確な言葉づかいを使って真理を語ることによって憎まれるよりも、むしろこの世から愛されることを望んだ。そしてこの世から愛されるために、この世を愛することを表明することを望んだ。そうすることによって全ては自分の思うようになり、全ては巧くいくと思った。この世は自分を全てに超えて愛するべきだと思ってしまったかのようだ。

 この第二バチカン公会議の悲劇は避けられたはずだった。必ずしも必要でもなかった。しかしそれが選ばれた。そしてカトリック教会以外の利益を考えるものどもの言葉を信じた。この世は饒舌な言葉でカトリック教会を喜ばせるかのように見える。高位聖職者たちはこの世が自分を愛していると信じる。

 ルフェーブル大司教は愛の真理を語った。聖伝に忠実であることによって。カトリック教会と教皇様に本当の忠実と愛とを示すために、どのような屈辱も潔く受けた。ルフェーブル大司教の見かけ上の「不従順」は本当の従順であり愛だった。


【参考資料】
■ Shakespeare's Cymbeline, Archbishop Lefebvre and Divine Providence by David Allen White, Ph.D.
(シェイクスピアのシンベリン、ルフェーブル大司教と天主の御摂理)

■ The Complete Works of William Shakespeare

■ シェイクスピアに関するホームページは、The Bard of Avon:ストラトフォードのシェイクスピアをご覧下さい。

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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
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■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
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■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和1と2
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和3と4
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和5,6,7.8
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 9,10,11
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 12,13,14,15

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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