アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、
天主の不可変性について、もう一度カトリック教会が何をどのように考えているかを復習してみましょう。
(1)どのような結果であるにせよ、結果というのは原因に以前するものであるから、結果が存在するということは原因が先在することは必然です。
(2)ところで、この世界には何かが動き変化して存在しているということは確実で、感覚によって確認される現実です。これは<私>の心(あたま)の中でだけそう思っているだけではなく、<私>がそう思おうと思わないと、<私>の<こころ>の外の現実としてあることです。
(3)ところで、動き変化するということは、或る状態や場所から別の状態や場所に変わることですから、動き変化するということは、それへと向かって動き変わることが出来る状態(可能態)であるからこそ変わることが出来るのです。
(4)しかし、変わることが出来る状態であるというだけでは変わったことにはなりません。動き変化するということは、まだそうではないけれども動き変わることが出来る状態(可能態)から、それへと変わる結果の状態(現実態)へと変わることです。
(5)しかし同じものが同じ観点のもとで、同時に「まだそうではない」し「もうそうである」ということはできません。例えば、火は同じ意味、観点のもとで、現実に熱いけれども、同時に、まだ熱くないことはありえません。
(6)従って、同じものが同じ観点のもとで、同時に「現実態にある、動かし変化させるもの」であり「可能態にある、動かされ変化させられるもの」でもあるということはできません。従って、動き変化するということは、実際にそれへと変わる結果の状態にすでに現実にある(現実態)ものが、その変わることが出来るものを変える必要があります。つまり、動き変化しているものは、他者によって動かされ変化を蒙っているのです。
(7)こうして「動かし動かされ」という「可能態-現実態」の系列を遡ることが出来ます。しかしこの系列を無限にたどることは出来ません。何故なら、無限にすすむということは第一の何か動かすものが存在していないということだからです。もしもそうであるなら、今、変化して動いているものは無いことになるからです。そこで、他者によって動かされない第一の動かす究極の原因・根拠を措定しなければならなくなります。
(8)そしてこの動かされず第一に動かすものは、「在ることもあらぬ事も出来る可能性」(偶然性)に対する「無ければならない必ずあるべき」(必然性)原因であって、いかなる偶然・可能性をも排除した純粋な完成・現実態にあります。私たちはこれを天主と呼びます。
(9)従って、天主にはいかなる変化もありません。天主は不変です。
さて、
(A) 天主は天地万物を無から創造しました。
「創造する」とは、天主がものごとの全存在を与えることです。ものごとは、創造されて初めてこの世に現実にあるようになります。その前はありません。「創造される」とは、「無い」から「ある」へと変化することです。ただし、創造による変化は、冷たいから熱いへと動くようなその基体を前提とするようなものではなく、これ無しにはいかなるものも有り得ない・実在し得ない、基体の存在も無かった、という絶対的な変化です。
全ての被造物は、存在する前においては、何らかの被造的能力(内在する能力)において存在可能なものだったのではありません。ただ天主がそれらを「在る」へと産出することが出来たという意味において、ただ天主(という他者に内在する)の能力によってのみ、被造物は存在可能なるものだったのです。ものごとを存在に産出することは、全く天主の自由意志によるものでしたし、ものごとを存在のうちに保つこともまた天主の自由意志によります。
被造物から見ると、「創造された」ということは、絶対依存の関係であり、最高度に実在的な関係です。
しかし、天主から見ると、天主は天地万物を創造したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。天主は、この世の現実を創造する義務も必然性もありませんでした。創造しないことも可能であったし、また別の世界を創造することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、今、私たちがここにいる世界を自由に選んで、無から在るへと自由に創造しました。
「創造主」ということは、天主の「定義」ではありません。天主の「本性」でも「本質」でもありません。創造しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。
(B) 今から2007年前、天主の御言葉は、托身し給い人間となりました。
「托身する」とは、天主の第二のペルソナである御言葉が人間性を受容することです。
これは人間本性から見ると、人間が天主性と合体したことであり、托身は、人類全体、さらに被造の世界全体に重大な実在的変化を生じさせました。
しかし、天主から見ると、天主は托身したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、2007年前ベトレヘムで生まれることを自由に選んで、天主でありながら自由に人間性を取り托身しました。しかし、それによって天主の御言葉にも、天主三位一体にも、いかなる変化が生じることも在りませんでした。
「托身」ということは、天主の「定義」にはありません。天主の「本性」にも「本質」にもありません。托身しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。
(C)天主が人間となるということ、これはものすごい出来事です。 人類の歴史、いえ、被造の歴史における画期的な出来事です。真の天主が真の人間となったという、この信仰に、全キリスト教信仰は立っています。
キリスト教の核心とは何か? キリスト教創立以来、一貫して変わらない信仰箇条の本質は何か?
しかし、天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ました。このことについて説明します。
托身する(天主が人となる)とは、天主として永遠にあった・ある天主のペルソナが、時間的世界において人間本性を受容し、人間として存在し生活し活動することです。
ところで、天主の三つのペルソナは、同じ一なる天主であり、その能力は等しく全能です。天主の三つのペルソナは天主の本性を共有しています。つまり本性の次元に属することは共有しうるのです。従って、聖子にできることは聖父にもでき、聖霊にも出来るはずです。つまり、聖子とは別のペルソナも、人間本性を受容するというはたらき(operatio)の主体となることが可能なはずです。何故なら、受容のはたらきの根源は天主の全能であり、天主の能力は自由だからです。
つまり、天主は、聖父が人間となる、聖子が人となる、聖霊が人となるという三つの可能性に対して、共通に無差別に関わっており、この可能性の何れをも選ぶことが出来たはずだからです。聖父が人間となろうがならまいが、時間的世界のことがらに全く関係なく、聖父は聖父であり、また、聖霊が人間となろうがならまいが、時間的世界のことがらに全く関係なく、聖霊は聖霊であり、天主におけるペルソナの発出は永遠に行われているからです。天主の永遠の発出において、聖父、聖子、聖霊が関係し合うことと、そのうちのあるペルソナが托身することとは、全く別の次元に属する問題であるからです。(くわしくは、聖トマス・アクィナス『神学大全第三部第三問第五項』を参照のこと。)
また、天主の三つのペルソナは、同じ一なる天主であり、天主の三つのペルソナは天主の本性を共有しています。つまり本性の次元に属することは共有しうるのですから、人間本性という本性の次元に属するものである限り、人間本性をも共有しうるはずです。従って、同一の人間本性を天主の三つのペルソナが共通に受容することも出来るはずです。受容された人間本性が本性の次元に留まる限り、これは不可能なことではありません。(『神学大全第三部第三問第六項』を参照のこと。)
さらに、一つのことまでは出来るけれども、それ以上のことは出来ない、ということはその一つのことに限られた能力しか持たないことになります。しかし天主の能力は無限で、何か被造のものに限られることはあり得ません。従って、天主のペルソナは、その本性において天主そのものですから、天主のペルソナの能力も無限です。天主の能力が無限である以上、天主のペルソナはただ一つの人間本性を受容しうるのみならず、二つ以上の、いくつもの人間本性を受容しうるはずです。(『神学大全第三部第三問第七項』を参照のこと。)
天主の立場からすれば、天主の能力は無限であり、その選びの可能性は無限です。しかしその無限の可能性の中から、天主の自由の意志に基づいて、三つのペルソナのうち特に、天主の第二のペルソナ、すなわち天主の聖子であり御言葉のペルソナが、ただ一つの人間本性、すなわちイエズス・キリストの人間本性だけを受容しました。この現実に選ばれた御托身は、天主の本能的にプログラムされていたものでもなく、天主が三位一体であるが故に可能になったことでもなく、天主の本性の必然性の結果によるのでもなく、天主の自由な意志に基づく天主のお恵みなのです。天主本性の全能の無限性を前提とする限り、特に聖子が托身する必然性はなく、また天主が人間なる必然性すらなく、全く天主の自由の行為であったのです。
また、それと同時に、三位一体の本質は一でありますから、そのはたらきも一です。つまり、天主三位一体の三つのペルソナは、それぞれ個別にはたらくのではなく、常にはたらきを共にし、分かたれることもなく一緒に一つのはたらきをします。人間本性を受容するというはたらきは、天主そのものに由来します。従って、受容するというはたらきを起こすものは三つのペルソナ全体であって、そのうちの一つだけがはたらき、その他のペルソナははたらかないということはありません。天主の御言葉が人間となり給うたとき、依然として三つのペルソナが共にはたらいているのです。つまり三つのペルソナがはたらいて、一つのペルソナが人間本性を受容するようにしたのです。
だから、公教要理にはこうあるのです。
84 「聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」という第三箇条は何を教えますか。
【答え】使徒信経の第三箇条は、天主の御ひとり子が、聖霊の御力によって、処女マリアの清らかな御胎内で、人間の体と霊魂をおとりになり、お生まれになったことを教えます。
85 御父と御子もイエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造に参与されましたか。
【答え】イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、天主の三つのペルソナが一緒に参与されました。
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●聖ピオ十世会韓国のホームページ
●トリエント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
兄弟姉妹の皆様、
天主の不可変性について、もう一度カトリック教会が何をどのように考えているかを復習してみましょう。
(1)どのような結果であるにせよ、結果というのは原因に以前するものであるから、結果が存在するということは原因が先在することは必然です。
(2)ところで、この世界には何かが動き変化して存在しているということは確実で、感覚によって確認される現実です。これは<私>の心(あたま)の中でだけそう思っているだけではなく、<私>がそう思おうと思わないと、<私>の<こころ>の外の現実としてあることです。
(3)ところで、動き変化するということは、或る状態や場所から別の状態や場所に変わることですから、動き変化するということは、それへと向かって動き変わることが出来る状態(可能態)であるからこそ変わることが出来るのです。
(4)しかし、変わることが出来る状態であるというだけでは変わったことにはなりません。動き変化するということは、まだそうではないけれども動き変わることが出来る状態(可能態)から、それへと変わる結果の状態(現実態)へと変わることです。
(5)しかし同じものが同じ観点のもとで、同時に「まだそうではない」し「もうそうである」ということはできません。例えば、火は同じ意味、観点のもとで、現実に熱いけれども、同時に、まだ熱くないことはありえません。
(6)従って、同じものが同じ観点のもとで、同時に「現実態にある、動かし変化させるもの」であり「可能態にある、動かされ変化させられるもの」でもあるということはできません。従って、動き変化するということは、実際にそれへと変わる結果の状態にすでに現実にある(現実態)ものが、その変わることが出来るものを変える必要があります。つまり、動き変化しているものは、他者によって動かされ変化を蒙っているのです。
(7)こうして「動かし動かされ」という「可能態-現実態」の系列を遡ることが出来ます。しかしこの系列を無限にたどることは出来ません。何故なら、無限にすすむということは第一の何か動かすものが存在していないということだからです。もしもそうであるなら、今、変化して動いているものは無いことになるからです。そこで、他者によって動かされない第一の動かす究極の原因・根拠を措定しなければならなくなります。
(8)そしてこの動かされず第一に動かすものは、「在ることもあらぬ事も出来る可能性」(偶然性)に対する「無ければならない必ずあるべき」(必然性)原因であって、いかなる偶然・可能性をも排除した純粋な完成・現実態にあります。私たちはこれを天主と呼びます。
(9)従って、天主にはいかなる変化もありません。天主は不変です。
さて、
(A) 天主は天地万物を無から創造しました。
「創造する」とは、天主がものごとの全存在を与えることです。ものごとは、創造されて初めてこの世に現実にあるようになります。その前はありません。「創造される」とは、「無い」から「ある」へと変化することです。ただし、創造による変化は、冷たいから熱いへと動くようなその基体を前提とするようなものではなく、これ無しにはいかなるものも有り得ない・実在し得ない、基体の存在も無かった、という絶対的な変化です。
全ての被造物は、存在する前においては、何らかの被造的能力(内在する能力)において存在可能なものだったのではありません。ただ天主がそれらを「在る」へと産出することが出来たという意味において、ただ天主(という他者に内在する)の能力によってのみ、被造物は存在可能なるものだったのです。ものごとを存在に産出することは、全く天主の自由意志によるものでしたし、ものごとを存在のうちに保つこともまた天主の自由意志によります。
被造物から見ると、「創造された」ということは、絶対依存の関係であり、最高度に実在的な関係です。
しかし、天主から見ると、天主は天地万物を創造したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。天主は、この世の現実を創造する義務も必然性もありませんでした。創造しないことも可能であったし、また別の世界を創造することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、今、私たちがここにいる世界を自由に選んで、無から在るへと自由に創造しました。
「創造主」ということは、天主の「定義」ではありません。天主の「本性」でも「本質」でもありません。創造しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。
(B) 今から2007年前、天主の御言葉は、托身し給い人間となりました。
「托身する」とは、天主の第二のペルソナである御言葉が人間性を受容することです。
これは人間本性から見ると、人間が天主性と合体したことであり、托身は、人類全体、さらに被造の世界全体に重大な実在的変化を生じさせました。
しかし、天主から見ると、天主は托身したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、2007年前ベトレヘムで生まれることを自由に選んで、天主でありながら自由に人間性を取り托身しました。しかし、それによって天主の御言葉にも、天主三位一体にも、いかなる変化が生じることも在りませんでした。
「托身」ということは、天主の「定義」にはありません。天主の「本性」にも「本質」にもありません。托身しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。
(C)天主が人間となるということ、これはものすごい出来事です。 人類の歴史、いえ、被造の歴史における画期的な出来事です。真の天主が真の人間となったという、この信仰に、全キリスト教信仰は立っています。
キリスト教の核心とは何か? キリスト教創立以来、一貫して変わらない信仰箇条の本質は何か?
しかし、天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ました。このことについて説明します。
托身する(天主が人となる)とは、天主として永遠にあった・ある天主のペルソナが、時間的世界において人間本性を受容し、人間として存在し生活し活動することです。
ところで、天主の三つのペルソナは、同じ一なる天主であり、その能力は等しく全能です。天主の三つのペルソナは天主の本性を共有しています。つまり本性の次元に属することは共有しうるのです。従って、聖子にできることは聖父にもでき、聖霊にも出来るはずです。つまり、聖子とは別のペルソナも、人間本性を受容するというはたらき(operatio)の主体となることが可能なはずです。何故なら、受容のはたらきの根源は天主の全能であり、天主の能力は自由だからです。
つまり、天主は、聖父が人間となる、聖子が人となる、聖霊が人となるという三つの可能性に対して、共通に無差別に関わっており、この可能性の何れをも選ぶことが出来たはずだからです。聖父が人間となろうがならまいが、時間的世界のことがらに全く関係なく、聖父は聖父であり、また、聖霊が人間となろうがならまいが、時間的世界のことがらに全く関係なく、聖霊は聖霊であり、天主におけるペルソナの発出は永遠に行われているからです。天主の永遠の発出において、聖父、聖子、聖霊が関係し合うことと、そのうちのあるペルソナが托身することとは、全く別の次元に属する問題であるからです。(くわしくは、聖トマス・アクィナス『神学大全第三部第三問第五項』を参照のこと。)
また、天主の三つのペルソナは、同じ一なる天主であり、天主の三つのペルソナは天主の本性を共有しています。つまり本性の次元に属することは共有しうるのですから、人間本性という本性の次元に属するものである限り、人間本性をも共有しうるはずです。従って、同一の人間本性を天主の三つのペルソナが共通に受容することも出来るはずです。受容された人間本性が本性の次元に留まる限り、これは不可能なことではありません。(『神学大全第三部第三問第六項』を参照のこと。)
さらに、一つのことまでは出来るけれども、それ以上のことは出来ない、ということはその一つのことに限られた能力しか持たないことになります。しかし天主の能力は無限で、何か被造のものに限られることはあり得ません。従って、天主のペルソナは、その本性において天主そのものですから、天主のペルソナの能力も無限です。天主の能力が無限である以上、天主のペルソナはただ一つの人間本性を受容しうるのみならず、二つ以上の、いくつもの人間本性を受容しうるはずです。(『神学大全第三部第三問第七項』を参照のこと。)
天主の立場からすれば、天主の能力は無限であり、その選びの可能性は無限です。しかしその無限の可能性の中から、天主の自由の意志に基づいて、三つのペルソナのうち特に、天主の第二のペルソナ、すなわち天主の聖子であり御言葉のペルソナが、ただ一つの人間本性、すなわちイエズス・キリストの人間本性だけを受容しました。この現実に選ばれた御托身は、天主の本能的にプログラムされていたものでもなく、天主が三位一体であるが故に可能になったことでもなく、天主の本性の必然性の結果によるのでもなく、天主の自由な意志に基づく天主のお恵みなのです。天主本性の全能の無限性を前提とする限り、特に聖子が托身する必然性はなく、また天主が人間なる必然性すらなく、全く天主の自由の行為であったのです。
また、それと同時に、三位一体の本質は一でありますから、そのはたらきも一です。つまり、天主三位一体の三つのペルソナは、それぞれ個別にはたらくのではなく、常にはたらきを共にし、分かたれることもなく一緒に一つのはたらきをします。人間本性を受容するというはたらきは、天主そのものに由来します。従って、受容するというはたらきを起こすものは三つのペルソナ全体であって、そのうちの一つだけがはたらき、その他のペルソナははたらかないということはありません。天主の御言葉が人間となり給うたとき、依然として三つのペルソナが共にはたらいているのです。つまり三つのペルソナがはたらいて、一つのペルソナが人間本性を受容するようにしたのです。
だから、公教要理にはこうあるのです。
84 「聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」という第三箇条は何を教えますか。
【答え】使徒信経の第三箇条は、天主の御ひとり子が、聖霊の御力によって、処女マリアの清らかな御胎内で、人間の体と霊魂をおとりになり、お生まれになったことを教えます。
85 御父と御子もイエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造に参与されましたか。
【答え】イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、天主の三つのペルソナが一緒に参与されました。
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●トリエント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』