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「神との親しさ」(4) 愛の実践と聖霊 を推薦します

2007年08月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

「神との親しさ」(4) 愛の実践と聖霊

 有名な「神との親しさ」という黙想の本は、以前は聖伝のミサの典礼暦に合わせて書かれ、それに合わせて出版されました。

 以前の版で8月1日から9月の終わりまでの黙想として配置されていた黙想は、今では「神との親しさ」(4) 愛の実践と聖霊 で読むことが出来ます。

 この黙想の本で言われている愛の実践は、実際に極めて難しいものです。何故なら、私たちの利己心と傲慢とがこれ程の愛を実践することに恐れをなさせるからです。しかし、とても美しいページですので、兄弟姉妹の皆様には是非、この本を手に取って黙想して頂きたいと願うと同時に、すこし引用してご紹介致します。


10 「愛は利己的でない」より以下引用。

 愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛は妬まず、誇らず、たかぶらない。非礼をせず、自分の利を求めず、いきどおらず、悪を気にせず。

caritas patiens est benigna est caritas non aemulatur non agit perperam non inflatur non est ambitiosa non quaerit quae sua sunt non inritatur non cogitat malum
(コリント前13:4-5)

 愛は疲れない。
 愛は恩を知らないものに対して不忍耐にならない。
 愛は拒絶にあっても怒らない。それどころか愛と親切を保ち続ける。
 愛は感謝を要求せず、人を疑わない。
 愛は不躾や無礼にも気を悪くしない。
 愛は自分の周囲に冷淡や敵意を見ても、相変わらず、天主の愛のために自分を与えいつも与え続けるという唯一の務めを続けていく。

 もちろん愛も忘恩や侮辱を感じないわけではない。
 それどころか、細やかなこころであればあるほど、愛に反する一切に対してますます感じやすくなるものである。

 しかし、愛は自分の権利を擁護したり、人の忘恩に抗議したり、幾らかの正義を求めたりして、感情的にならない。・・・

 真にこまやかな兄弟的愛徳を実行しようとするまさにその時、自分になされた不正に対する憤慨や抗議の気持ちがもっと強くわき起こってくることも希ではない。・・・

 正義とか他人への戒めとかを口実にして、こうした感情と妥協しそれに従って行動するものは、やがて酷く気むずかしい人となり、愛徳は大きく損害を受けるだろう。

 特にこうした忍耐強い愛、大なり小なりの不正、無理解、侮辱を見逃すことの出来る愛を実行する必要があるのは、・・・

 針で刺されるような痛みを平和なこころで甘受して苦しんでいる様子を見せたりしない愛、仕返しとして自分を苦しませていることを相手に感づかせようとしない愛を実行する必要があるのは、共同生活においてである。・・・


11 「愛は全ての人に自分を合わせる」より以下引用。

 愛は自分の立場を頑なに固守しない。
 愛は他の人が自分に合わせることを期待せずに、それを要求せずに、むしろいつも隣人と和合する。

 天主は人間となるほど、私たちと同じレベルに下られた。それなのに私たちは兄弟達の考え方、好み、必要に自分を合わせるために、自分の「パーソナリティー」の小さな踏み台から降りられないと言うのであろうか。

 「あの人たちは間違っている。あの人たちは粗野で、恩知らずで、ある種の要求や繊細さが分からない」と私たちは他人のせいにする。何という間違いだろう! 私たちの愚かな要求は、何と卑しいのだろう! 

 死ぬべき肉体をまとい、人々の間で生活するほど、私たちのレベルにまでお下りになった天主の御子、永遠の御言葉を眺めよう!

 地上における御生涯の間、主はご自分の仲間として、知識人や完全な教育を受けた人ではなく、洗練された思想や作法をあまり心得ていない単純な田舎者、無学な漁師をお選びになった。

 主は限りない愛の他には、別に他の人と変わったところを見せず、ごく自然に彼らにご自分をお合わせになった。・・・

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日
【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

旧約の大司祭カヤファの権威と天主への従順

2007年08月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

カヤファの権威と天主への従順


 旧約の大司祭カヤファ(或いはカイファ Joseph Caiphas, Joseph Caiaphas, Qayyapa)は、天主の御摂理によって、正当に任命された合法的大司祭だった。ポンシオ・ピラトの前任者、ローマ総督ヴァレリウス・グラトゥス(Valerius Gratus)によって大司祭と正当に任命された。しかしカヤファの権威は天主から来た。カヤファはイスラエルの人びとにとって天主の代理者だった。旧約の大司祭の最高のそして究極の目的は、約束の救い主(メシア)を人々にこれがそうだと指し示すことであった。カヤファの任期は、西暦十八年から三十七年までだった(フラヴィウス・ヨゼフスの Antiquitates による)。 西暦三十六年、ポンシオ・ピラトの任期は終わりを告げ、シリア総督ルチウス・ヴィテリウス Lucius Vitellius がユダヤ問題に干渉して三十七年カヤファを解任したからだ。

 前任の大司祭アンナ(任期:西暦六年から十五年)は、カヤファの舅だった(カヤファは裕福な大祭司アンナの娘と結婚した)ので、婿であるカヤファは引退したアンナの影響を受け続けた。しかしカヤファこそ公式の大司祭であったし、衆議所の正式な長であった。

 私たちの主イエズス・キリストが聖金曜日に十字架の上で御死去された時、イェルサレムの神殿の至聖所の幕は真っ二つに裂け、旧約が無効になったことを意味した。聖マテオはこう書いている。「イエズスは、ふたたび大声で叫んで、そして息を引き取られた。あたかもその時、神殿の幕は、上から下に二つに裂け、地はふるい、岩はさけ、墓はひらけた・・・。」

 西暦七〇年、ローマ皇帝ティトゥスは、反逆のユダヤ人たちを平定し、その際イエズス・キリストの預言通りイェルサレムの神殿は崩壊された。旧約のいけにえと司祭職はついに機能することが出来なくなった。天主のみが、旧約の司祭職に終止符を打つことが出来た。

 私たちの主イエズス・キリストさえも、御生涯の間、カヤファの大司祭としての権威を疑問に付したことがなかった。イエズス・キリストは、ポンシオ・ピラトがローマ皇帝の代理者として持っていた、ユダヤを統治する権威を疑ったこともなかった。その反対だった。イエズス・キリストは、ポンシオ・ピラトの命ずるままに受難を甘受し十字架を担われた。

 もしもカヤファが正統な大司祭ではなかったとしたら、正真正銘の大司祭ではなかったとしたら、御受難は無かっただろう。天主の御一人子を排斥して死に渡すことが出来る人間は、そしてローマ当局に執行を依頼することが出来る人間は、正当な大司祭しかなかった。そしてカヤファがその有効で正当な権威を持った最高の大司祭だった。

 そして正式な天主の大司祭として、ユダヤ教の最高権威者として、カヤファはイエズス・キリストを死刑と定め、イエズス・キリストに従う全ての人々を迫害した。


 聖パウロは、カヤファの後継者である大司祭アナニアと衆議会員たちを前にしたことがある。聖パウロは目が悪かったのでよく見えなかった。パウロは、アナニアの命令によって口を打たれたが、自分の無罪を主張してアナニアに抗議して、アナニアを「白塗りの壁よ」と呼ぶ。これは「お手洗い」とか「化粧室」とか「厠」とか「Water Closet」とかと言われているような婉曲的な言い方だ。周りの人から「あなたは天主の大司祭を侮辱するのか」と教えられ、パウロは彼がが大司祭だとは知らなかったと言い、脱出の書 (22: 28) を引用して自分の過失を認めた。「実に、"あなたの民のかしらを呪うな"としるされています、といった。」

使徒行録第23章にはこうある。

 パウロは、衆議会員たちをみつめていった。「兄弟たちよ、今日まで私は、良心に従って、天主のみ前に正しくふるまってきました」。
 すると大司祭アナニアは、そこにいた者にパウロの口を打てと命じた。そこで、パサロは「白く塗った壁よ、天主はあなたをお打ちになるだろう!あなたは、律法に従って私を裁くために座りながら、律法にもとって私を打てと命ずるのか!」といった。
 その席にいたある人が、「あなたは、天主の大司祭を侮辱するのか」といったので、パウロは、「兄弟たちよ、私はあの人が大司祭だとは知りませんでした。実に、"あなたの民のかしらを呪うな"としるされています」といった。

Intendens autem concilium Paulus ait viri fratres ego omni conscientia bona conversatus sum ante Deum usque in hodiernum diem
Princeps autem sacerdotum Ananias praecepit adstantibus sibi percutere os eius
Tunc Paulus ad eum dixit percutiet te Deus paries dealbate et tu sedens iudicas me secundum legem et contra legem iubes me percuti
Et qui adstabant dixerunt summum sacerdotem Dei maledicis
Dixit autem Paulus nesciebam fratres quia princeps est sacerdotum scriptum est enim principem populi tui non maledices


 聖パウロはここで私たちにはっきりと教えている。たとえ邪悪な当局であっても、私たちは権威を尊敬しなければならない、と。

 しかし、長上の権威と職務は天主から与えられた限りのあるものである。地上の権威は、天主の御旨を私たちが遂行することが出来るため与えられたものだからだ。もしも、地上の権威が残念なことに天主に逆らう時、私たちはこの権威を尊敬しつつも、この逆らいには従うことが出来ない。イエズスは、つきしたがってきた大群衆をかえりみて、おおせられた。「私のもとにきても、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない。」(ルカ14:26)


 聖ペトロと使徒達も私たちに同じことを教えている。使徒達は、神殿でイエズス・キリストのことを説教していることを当局に逮捕され、教えることを厳禁された。しかし聖ペトロと使徒達は、大司祭の命令を無視しなければならないと判断し、こう答えた。「人間よりも、天主に従わなければなりません。」(使徒行録5:29)

 使徒行録にはこうある。「さて、かれらを、衆議所の中に立たせて、大司祭がたずねた、「私たちは、あの名で教えるなと正式に禁じておいた。それなのに、あなたたちは、イェルザレム中を自分たちのおしえでみたしたではないか。そして私たちの上に、あの人の血を負わせようとするのか」。ペトロと使徒たちとは、答えた。「人間よりも、天主に従わなければなりません。私たちの先祖の天主は、あなたたちが木にかけて殺したイエズスをよみがえらせました。天主は、痛悔と罪のゆるしとをイスラエルにあたえるために、右のおん手をもって、かれを、かしらとし、救い主としてあげられました。私たちは、このことの証人です。私たちと、そして天主がご自分に従う者におあたえになる聖霊とです」。かれらはこれを聞いてはげしく怒り、殺そうとくわだてた。」


 使徒から伝わるカトリックの「伝統」のなかには、「誤謬は憎むが、権威には敬意を払う」、「罪は憎み、罪人は憐れむ」という伝統がある。


 だから私たちは、司教様の人格や他のコメント者の人格をけなすように取りかねない表現に注意しよう。

 ルネッサンスによって、天主中心から人間中心主義へと重心が移った時、ルネッサンスの人々は天主を排斥することは考えてもいなかっただろう。しかし結果は天主を排斥することになった。

 高度近代技術社会の時代になって、人間から高度技術に重点が移った。その時人間は、人間を軽んじることは考えていなかっただろう。しかし、実際には、機械と高度技術は、人間を機械の歯車の一つ、コンピューターの一部として見なし、人間の間化を進めてしまった。

 共産主義革命によって、革命家は唯物論に適う労働者のための物質に溢れる世界を夢見ていたかも知れない。製造や農業を軽んじることは考えていなかっただろう。しかし実際には、貧困と飢饉と人間の隷属化がやってきた。

 ロシアの強制収容所を体験したソルジェニーツィンは、二十世紀を「石器時代」「原始人時代」だと呼んだ。二十一世紀になって、人間は、ますます非人間的になり、動物のようになり、残酷になりつつあるように思われる。天主の御助けによって、私たちは、何とか人間らしさを維持しなければならない。そのためにも、カトリックの聖伝を天主の御助けによって守っていこう。「誤謬は憎むが、権威には敬意を払う」、「罪は憎み、罪人は憐れむ」という伝統を本当の意味で防衛していこう。


聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
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トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
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新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

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