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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第二バチカン公会議の『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

2007年08月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

◆ 『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

【答え】まず異端的な共同体や離教的な共同体を「カトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団」(those Churches and ecclesial communities which are not yet in full communion with the Catholic Church)と呼んでいることに注目すべきです。このことは、部分的な、或いは、不完全な、または一部的な交わりということを想定する表現です。

◆ この充満的な交わり full communion という表現は新しいものか?

【答え】「完全な交わり」(充満的な交わり)と「不完全な交わり」という区別は、第二バチカン公会議の考え出した主要な新しい点です。

 この革新は『エキュメニズムに関する教令』3に出てきます。更に、『教会憲章』14にも「完全に合体している」(fully incorporated) という表現が出てきます。

◆ これに関する教会の聖伝の教えは何か?

【答え】教会の教えは極めて単純です。救いを得るためには、或いは現実に(in re)教会に属しているか【つまり、古典的な三つの条件である洗礼・カトリック信仰・位階制度への従順を満たすことによってです】、
或いは少なくとも望みによって(in voto)教会に属していなければなりません【つまり、暗示的な或いは明示的な望みを持つことによってです】。

 現実に(in re)教会に属していない人びとでも、或る状況では望みによって(in voto)属していることができます。このようなことを教会の霊魂(anima)に属するとも言います。この望みは明示的であったり、暗示的であったりします。明示的であるとは、例えば洗礼を受けようとして準備している求道者の場合がそうです。洗礼を受けてはいないけれど洗礼を受けることによって教会に属することを望むとはっきり態度で示している場合です。暗示的であるとは、異端のプロテスタント宗派に生まれてきたけれども、不可避の仕方によって自分の故意ではなく真理を知らなかったことによる以外はこの異端説を信じなかったような人びとです。カトリック教会が唯一の真理の宗教であると知る主眼がなかったけれども、根本的にそれを受け入れる準備ができているような人びとです。

 従って、カトリック信仰を持っていない人びと、或いは正当な位階秩序に従わない人びと、また自分の置かれた状況を変えようと言う暗示的な望みもないような人びとは、教会には属していません。そのような状態では、永遠の救いを確保することができません。

◆ 第二バチカン公会議の新しいところは何処か?

【答え】第二バチカン公会議は、教会への所属と非所属という二つの中間形態を見つけようとしました。カトリックではないキリスト者らは教会と「不完全な交わり」(『エキュメニズムに関する教令』3、『教会憲章』15)にあるとされ、キリスト者ではない全ての人々は「神の民へ秩序づけられている」(ad Populum Dei ... ordinantur)。

 このことは、教会に属したいという少なくとも暗示的な望みを抱かなくても、望もうが望まないが「神の民へ秩序づけられている」のであるから、救われうるということを暗示しています。

◆ 第二バチカン公会議によれば、一体どうやって、離教的な共同体や異端的な共同体らがカトリック教会と「不完全な交わり」にあると言えるのか?

【答え】カトリック教会から離れたキリスト者や教団が「不完全な交わり」にあると言うために、第二バチカン公会議はラッツィンガー枢機卿が「ドミヌス・イエズス」でそうするように、彼らの持つ「聖化の要素」を取り上げます。これによってキリストの唯一の教会と交わっていることになると言います。

◆ 離教的な教団や異端的な団体であっても聖化の要素を保持しているというのは本当ではないのか?

【答え】プロテスタントが(その内容が多かれ少なかれ変更を加えられているとはいえ)聖書を持っていること、東方離教徒たちが秘蹟を保持していることは本当です。しかし聖伝の神学は、カトリック教会からいわば盗んできたこれらの現実を「聖化の要素」とか「教会の要素」とは呼んだことがありませんでした。教会はこれらをむしろ、真理の宗教の「残骸」と見てきました。

◆ 「残骸」を「教会の要素」と言い換えたことは重要か?

【答え】重要です。何故なら「残骸」ということは極めて重大な真理を表明しているからです。何故なら、カトリック教会から離れることによって、これらの要素は生きているという現実であることができなくなるからです。つまり、死に絶えた「残骸」であり「廃墟」と言うことです。この用語の変更は偶然ではありません。

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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
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■  「聖ピオ十世会のミサは有効であり主日の義務を果たすか」
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■ 新しい「光りの玄義」について
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■ カトリックのエキュメニズム運動
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■ 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について
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■ 「贖い」ということについて公教要理をみてみます。
■ ピストイア教会会議って知っていましたか?
■ だから私たちは「カトリック新聞」の聖福音の説明を読むとびっくりするのです
参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

2007年08月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

◆ 第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

【答え】第二バチカン公会議のテキストの曖昧な表現は、保守的な教父たちを錯誤させるために故意に導入されました。最初に公会議文書は教会が常に教えていたこと以外の何ものもの言おうとするわけではない、と主張してそのように幻想を抱かせ、公会議文書が決議されると、これらの文書を盾にとって正統な教えとは全く離れた説を擁護することができるようにするためでした。

◆ これらの曖昧な表現が故意に導入されたという証拠はあるのか?

【答え】カール・ラーナー(Karl Rahner)とヘルベルト・フォルグリムラー(Herbert Vorgrimler)とはそのことを確認しています(K. Rahner und H. Vorgrimler, "Kleines Konzilskompendium". Saemtliche Texte des Zweiten Vatikanums, Fribourg, Herder, 1986, p.21)。

「一致にいたることができない重要な神学問題の幾つかは、いろいろなグループやいろいろな神学的傾向をもっている個人が公会議中、異なる解釈をすることができるような言い回しを選ぶことによってオープンにしておいた。」

◆ 公会議の文書においてそのような曖昧な不正確な言い方がどのようにして正当化されたのか?

【答え】 このような故意の曖昧な言い方は、第二バチカン公会議が司牧公会議であることを望み、教義決定の公会議のために必要な神学的明確さで表明する必要がないという事実から正当化されました。


◆ 計算された曖昧な表現の例を挙げることができるか?

【答え】この曖昧な表現の例の一つに、『教会憲章』において導入された有名な表現「subsistit in」があります。『教会憲章』ではキリストの教会はカトリック教会「においてある(subsistit in)」と言われています。

『教会憲章』8(教会の神的、人的要素)
 ・・・この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。

【ラテン語】
CONSTITUTIO DOGMATICA DE ECCLESIA LUMEN GENTIUM
8. ... Haec Ecclesia, in hoc mundo ut societas constituta et ordinata, subsistit in Ecclesia catholica, a successore Petri et Episcopis in eius communione gubernata(13), licet extra eius compaginem elementa plura sanctificationis et veritatis inveniantur, quae ut dona Ecclesiae Christi propria, ad unitatem catholicam impellunt.

【英語】
DOGMATIC CONSTITUTION ON THE CHURCH LUMEN GENTIUM
8. ... This Church constituted and organized in the world as a society, subsists in the Catholic Church, which is governed by the successor of Peter and by the Bishops in communion with him,(13*) although many elements of sanctification and of truth are found outside of its visible structure. These elements, as gifts belonging to the Church of Christ, are forces impelling toward catholic unity.

◆ 何故第二バチカン公会議はこの subsistit in (のうちに存在する)という表現を採用したのか?

【答え】この subsistit in (のうちに存在する)という表現によって、第二バチカン公会議は「キリストの教会」と「カトリック教会」とを区別しようとしました。聖伝の神学によれば、キリストの教会とは、人類の救いのために私たちの主イエズス・キリストによって創立された超自然の社会であり、すなわちカトリック教会です。

◆ 第二バチカン公会議にとってこの subsistit in (のうちに存在する)という表現は何を意味するのか?

【答え】第二バチカン公会議は、キリストの教会はカトリック教会において完全に実現していると認めています。この具体的で完全な実現性のことを第二バチカン公会議では "subsistentia" と表現しています。

 たとえば、CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH DECLARATION "DOMINUS IESUS" の注56にはこうあります。
(56) The interpretation of those who would derive from the formula subsistit in the thesis that the one Church of Christ could subsist also in non-Catholic Churches and ecclesial communities is therefore contrary to the authentic meaning of Lumen gentium. “The Council instead chose the word subsistit precisely to clarify that there exists only one ‘subsistence' of the true Church, while outside her visible structure there only exist elementa Ecclesiae, which --- being elements of that same Church --- tend and lead toward the Catholic Church” (Congregation for the Doctrine of the Faith, Notification on the Book “Church: Charism and Power” by Father Leonardo Boff: AAS 77 [1985], 756-762).

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳より
56 それゆえ、Subsistit in との言語表現からキリストの唯一の教会が非カトリックの諸教会と諸教団にも「存する」ことができるとする命題を考案する者の解釈は公会議本文の正真正銘の意味とは反する。「それゆえ、公会議が "subsistit" を選んだのはただひとつの真の教会が "存すること" を明らかにするためで、他方、そのためにその目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」(教理省、『レオナルド・ボフの著作"教会:カリスマと権力"についての通知』:AAS 77(1985)756-762)


 しかし同時に、キリストの教会とカトリック教会とが同一ではないと認めています。第二バチカン公会議によれば、カトリック教会の外にも、その他のキリスト教といわれる共同体において「教会の要素」があるために、不完全の仕方で「キリストの教会」が延長していることになっています。

◆ この subsistit in (のうちに存在する)という表現の解釈は確かなのか?

【答え】この subsistit in (のうちに存在する)という表現の解釈は、2000年8月6日の教皇庁教理省宣言『ドミヌス・イエズス』によって公式に確認されました。

「 ...中に存する[subsistit in]」という表現をもって、第2ヴァティカン公会議は二つの教理を調和させようとする。一方では、キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。他方、「その境界の外にも」、つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも「聖化と真理の数多くの要素が存在する」ということである。

With the expression subsistit in, the Second Vatican Council sought to harmonize two doctrinal statements: on the one hand, that the Church of Christ, despite the divisions which exist among Christians, continues to exist fully only in the Catholic Church, and on the other hand, that “outside of her structure, many elements can be found of sanctification and truth”,55 that is, in those Churches and ecclesial communities which are not yet in full communion with the Catholic Church.

更に、つい最近のRESPONSES TO SOME QUESTIONS REGARDING CERTAIN ASPECTS OF THE DOCTRINE ON THE CHURCH
教会に関する教義の幾つかの観点に関する質疑応答(2007年6月29日)
にも同じことが見えます。

第二の質問:キリストの教会がカトリック教会において存在する(subsists in)という断言は何を意味するのか?

回答:キリストは唯一の教会を「この地上に設立し」それを「見える霊的共同体」として制定した(『教会憲章』8)。その最初から諸世紀にわたってその教会は常に存在したし常に存在し続けるだろう。そしてそれにおいてだけキリストご自身が制定した全ての要素が見いだされる。(『エキュメニズムに関する教令』3.2; 3.4; 3.5; 4.6.)「これがキリストの唯一の教会である。われわれは信経の中で、この教会を唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。・・・この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。」(『教会憲章』8:2)

 『教会憲章』の第八番においてある subsistentia (のうちに存在するということ)は、このキリストによって制定された全ての要素がカトリック教会において存在することが継続性・歴史的持続性・存続性を持っているということを意味する。このカトリック教会においてキリストの教会がこの地上において具体的に創立された。

 カトリックの教義に従えば、キリストの教会が、カトリック教会と充満的に交わりにまだない諸教会や教団において現存し働いているということを正しく断言することができる。それはそれらにおいて現存する、聖化の要素と真理とのためである。しかしながら「において存在する」という言葉は、カトリック教会だけに帰されることができる。何故ならまさに、これは私たちが信経において信仰宣言する一性のしるし(われは一なる教会を信じ)に言及するからである。この一なる教会がカトリック教会において存在する。


Second Question: What is the meaning of the affirmation that the Church of Christ subsists in the Catholic Church?

Response: Christ "established here on earth" only one Church and instituted it as a "visible and spiritual community"5, that from its beginning and throughout the centuries has always existed and will always exist, and in which alone are found all the elements that Christ himself instituted.6 "This one Church of Christ, which we confess in the Creed as one, holy, catholic and apostolic […]. This Church, constituted and organised in this world as a society, subsists in the Catholic Church, governed by the successor of Peter and the Bishops in communion with him"7.

In number 8 of the Dogmatic Constitution Lumen Gentium ‘subsistence’means this perduring, historical continuity and the permanence of all the elements instituted by Christ in the Catholic Church8, in which the Church of Christ is concretely found on this earth.

It is possible, according to Catholic doctrine, to affirm correctly that the Church of Christ is present and operative in the churches and ecclesial Communities not yet fully in communion with the Catholic Church, on account of the elements of sanctification and truth that are present in them.9 Nevertheless, the word "subsists" can only be attributed to the Catholic Church alone precisely because it refers to the mark of unity that we profess in the symbols of the faith (I believe... in the "one" Church); and this "one" Church subsists in the Catholic Church.10

第三の質問:「である」という単純な単語の代わりに何故「において存在する subsistit in」という表現が採用されたのか?

回答:キリストの教会とカトリック教会との充満的な同一性を意味するこの表現を使うことは、教会の教義を変えることではない。むしろ、カトリック教会の構造の外に見いだされる「聖化と真理の要素が数多く見いだされ」、それらが「本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促す」という事実から来ており、その事実を明らかにする。
「われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」(『エキュメニズムに関する教令』3:4)

Third Question: Why was the expression "subsists in" adopted instead of the simple word "is"?

Response: The use of this expression, which indicates the full identity of the Church of Christ with the Catholic Church, does not change the doctrine on the Church. Rather, it comes from and brings out more clearly the fact that there are "numerous elements of sanctification and of truth" which are found outside her structure, but which "as gifts properly belonging to the Church of Christ, impel towards Catholic Unity"11.

"It follows that these separated churches and Communities, though we believe they suffer from defects, are deprived neither of significance nor importance in the mystery of salvation. In fact the Spirit of Christ has not refrained from using them as instruments of salvation, whose value derives from that fullness of grace and of truth which has been entrusted to the Catholic Church"12.

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シェイクスピアの「リア王」とカトリック教会の最近の状況

2007年08月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 シェイクスピアの有名な『リア王』(King Lear)を紹介します。

 リア王はイギリスの架空の王である。
 王の宮廷で臣下たちが王を待っている。忠臣ケント(Kent)と腹黒いグロスター(Gloucester)とエドマンド(Edmund)の話が聞こえる。エドマンドはグロスターの私生児である。グロスターは自分の罪を罪とも思わない程、霊的に盲目である。ケントを除いて臣下らは自分の義務を果たしていない。

 ブリテンの老王リアは、八〇歳という高齢のため退位することにした。しかしそのやり方は最悪だった。自分に対する愛情の表現に応じて三人の娘に王国を分け与えようとした。「娘よ、おまえたちの私への愛を語れ!」Speak!

 王の義務は王国に一致を与えること、天主の代理者として管理すること。父親の役目は、子供を愛すること、子供達にとって天主の代理者となること。人間として、私たちの持つものは全て天主から与えられた賜物、当然の権利ではない。八〇という高齢にもなればそのくらい分かっているはず。しかしリア王はそのことに気づいていない。王国は、王である自分の思うようになり、すべて「エエワ、エエワ」で自分の望み通り行けば全ては巧くいくと思っている。父親として、娘たちは自分を全てに超えて愛するべきだと思っている。人間として、全ては自分にとって当然だと思いこんでいる。何という盲目!何という傲慢!何という狂気!

 この悲劇は避けられた。必要でもなかった。しかし王はそれを選んだ。そして自分の利益しか考えていないものどもの言葉を信じ、愛と忠実を捨てた。そして王の失墜と供に皆が苦しむ。

 リアが長女と次女から騙されると同時に、グロスターも自分の庶子エドマンドを信じ、嫡子エドガー(Edgar) を勘当するだろう。

 長女ゴネリル(Goneril)と次女リーガン(Regan)は饒舌な言葉で父王を喜ばせる。リア王は彼女たちが自分を愛していると信じる。

 ゴネリル「どんな言葉よりもあなたを愛します。視覚よりも、空間よりも、自由よりも。」

GONERIL
Sir, I love you more than words can wield the matter;
Dearer than eye-sight, space, and liberty;
Beyond what can be valued, rich or rare;
No less than life, with grace, health, beauty, honour;
As much as child e'er loved, or father found;
A love that makes breath poor, and speech unable;
Beyond all manner of so much I love you.

REGAN
Sir, I am made
Of the self-same metal that my sister is,
And prize me at her worth. In my true heart
I find she names my very deed of love;
Only she comes too short: that I profess
Myself an enemy to all other joys,
Which the most precious square of sense possesses;
And find I am alone felicitate
In your dear highness' love.

 彼女たちの「愛」は本当の愛ではなかった。その「従順」は真実の従順ではなかった。そのことは後に分かるだろう。

 末娘コーディリアは愛の真理を語る。まず語らないことによって。「天主の定めた掟に従って、それ以上でもなくそれ以下でもなく、あなたを愛します。」

CORDELIA
Unhappy that I am, I cannot heave
My heart into my mouth: I love your majesty
According to my bond; nor more nor less.

CORDELIA
Good my lord,
You have begot me, bred me, loved me: I
Return those duties back as are right fit,
Obey you, love you, and most honour you.
Why have my sisters husbands, if they say
They love you all? Haply, when I shall wed,
That lord whose hand must take my plight shall carry
Half my love with him, half my care and duty:
Sure, I shall never marry like my sisters,
To love my father all.

 しかしコーデリアは「不忠実」であり、「不従順」であり、「愛がない」娘だと思われた。しかし見かけ上の「不従順」は本当の従順であり愛だった。

 激怒したリアはコーディリアを勘当し、コーディリアをかばったケント伯も追放される。

KING LEAR
Kent, on thy life, no more.

KING LEAR
Out of my sight!

 コーディリアは勘当された身でフランス王妃となる。ケントは姿を変えてリアに再び仕えるようになる。

 その後リア王は一〇〇名の騎士を連れて娘たちの家を尋ねる。ゴネリルはリア王を招待するが家から追い出してしまう。五〇名の騎士を解雇させて。リアは道化(Fool)から真実と忠実の言葉を聞く。道化だけが、笑わせながら真理を言うことが許される。

 リア王はふさわしい対応を求めて次女リーガンのもとを訪ねる。しかしまたもや裏切られる。リーガンのもとで、リアは誰も供を付けることが許されない。

 リアは、ついに精神の均衡を崩して嵐の荒野をさまよう。しかし、リアはまた王の威厳を取り戻したかのように、自然界に命令する。

KING LEAR
Blow, winds, and crack your cheeks! rage! blow!
You cataracts and hurricanoes, spout
Till you have drench'd our steeples, drown'd the cocks!
You sulphurous and thought-executing fires,
Vaunt-couriers to oak-cleaving thunderbolts,
Singe my white head! And thou, all-shaking thunder,
Smite flat the thick rotundity o' the world!
Crack nature's moulds, an germens spill at once,
That make ingrateful man!


 途中、罪を罪とも思わず霊的に盲目であったグロスターは、リアを保護したかどでリーガン夫妻によって両眼をつぶされ、本当の盲目となる。


 コーデリアは父親を本当に愛していた。勘当され名誉を失い、悪者にされていた。しかしコーデリアは父リアを救うために命を賭す。コーデリアは、フランス軍を率いて上陸して父と再会、狂気から一時的に覚醒したリアは自らの愚かさを詫びる。

 フランス軍は敗退し、二人は捕らえられるも、ゴネリル、リーガン、その夫コーンウオール公は内部争いで滅び、エドマンドもエドガー(Edgar グロスター伯の嫡子)の正義の刃に屈して、死に際に改心する。しかしエドマンドの下した命令を取り消すに一足遅く、コーデリアは絞殺され、リアはその亡骸を抱いて息絶える。

Re-enter KING LEAR, with CORDELIA dead in his arms

KING LEAR
Howl, howl, howl, howl! O, you are men of stones:
Had I your tongues and eyes, I'ld use them so
That heaven's vault should crack. She's gone for ever!
I know when one is dead, and when one lives;
She's dead as earth. Lend me a looking-glass;
If that her breath will mist or stain the stone,
Why, then she lives.

 リア王がコーデリアを腕にして嘆く姿は、聖母マリアがキリストを抱いているピエタの像を思い起こさせる。キリストが罪を犯す人類の罪の償いのために十字架で死んだように、コーデリアは父親のために命を捨てた。


KING LEAR
And my poor fool is hang'd! No, no, no life!
Why should a dog, a horse, a rat, have life,
And thou no breath at all? Thou'lt come no more,
Never, never, never, never, never!
Pray you, undo this button: thank you, sir.
Do you see this? Look on her, look, her lips,
Look there, look there!

Dies

 リア王は、最後まで愛されるに値しないはずの自分を本当に愛してくれた娘の死を腕に、その苦しみに耐えきれずに息を引き取る。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 リア王と私たちの愛する母なるカトリック教会の最近の状況と似ていないだろうか? 真理を語り、諸国の光となり、地の塩となり、諸国の教師であるべき、カトリック教会、諸国民を私たちの主イエズス・キリストの唯一の花嫁であるカトリック教会の第二バチカン公会議後の状況に。

 老王リアは、王の権威と義務を放棄した。第二バチカン公会議では、排斥することを放棄した。権威を持って正確な言葉づかいを使って真理を語ることによって憎まれるよりも、むしろこの世から愛されることを望んだ。そしてこの世から愛されるために、この世を愛することを表明することを望んだ。そうすることによって全ては自分の思うようになり、全ては巧くいくと思った。この世は自分を全てに超えて愛するべきだと思ってしまったかのようだ。

 この第二バチカン公会議の悲劇は避けられたはずだった。必ずしも必要でもなかった。しかしそれが選ばれた。そしてカトリック教会以外の利益を考えるものどもの言葉を信じた。この世は饒舌な言葉でカトリック教会を喜ばせるかのように見える。高位聖職者たちはこの世が自分を愛していると信じる。

 ルフェーブル大司教は愛の真理を語った。聖伝に忠実であることによって。カトリック教会と教皇様に本当の忠実と愛とを示すために、どのような屈辱も潔く受けた。ルフェーブル大司教の見かけ上の「不従順」は本当の従順であり愛だった。


【参考資料】
■ Shakespeare's Cymbeline, Archbishop Lefebvre and Divine Providence by David Allen White, Ph.D.
(シェイクスピアのシンベリン、ルフェーブル大司教と天主の御摂理)

■ The Complete Works of William Shakespeare

■ シェイクスピアに関するホームページは、The Bard of Avon:ストラトフォードのシェイクスピアをご覧下さい。

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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
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■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和1と2
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和3と4
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和5,6,7.8
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 9,10,11
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 12,13,14,15

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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