大正時代から昭和時代にかけて竹久夢二、高畠華宵とともに一世を風靡した挿絵画家、蕗谷虹児。
児童画家であるとともに詩人でもある。
♪金襴緞子の帯締めながら、花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
彼の描く美人画の美しさの影に少し憂いを感じる。
虹児が13歳の時に、かれの母親が29歳の若さで死去。
その母への追慕が、美人画の作風にも影響を与えたと言われている。
♪文金島田に髪結いながら、花嫁御寮は何故泣くのだろ
母の死後、商店に丁稚奉公に出され、絵の勉強をしながら夜学に通う。
♪あねさんごっこの花嫁人形は、赤い鹿の子の振袖着てる
泣けば鹿の子の袂が切れる、涙で鹿の子の赤い紅にじむ
上京して郷土出身の日本画家に師事。やがて朝日新聞の連載長編小説「海の極みまで」(吉屋信子 大正10年)の挿絵によって、人気が爆発。
虹児23歳。
時代の寵児となった虹児は、「挿絵画家」の生活にあきたらずフランスへ留学。
1925(大正14)年、虹児26歳、妻17歳。
♪泣くに泣かれぬ花嫁人形は、赤い鹿の子の千代紙衣装
記憶が正しければ、子供のころに実家にあった児童向けの本は、講談社版・世界名作童話全集だったように思う。
とすれば、アラビアンナイト「船乗りシンドバッド」やアンデルセン 「白鳥の王子」の口絵や挿絵は蕗谷虹児によるものだ。
家で見たのか、あるいは、学校の図書館で見たのか、あやふやな記憶ではあるが、彼の絵を見て妙に懐かしさがこみあげてくるのは、確かに年少の一時期に彼の挿絵による物語を読んだからにちがいない。
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