つぎの30秒は重要である。パスカルはエアを入れ続けたが、バッグはほとんど動かなかった。オードリーは深い海の底にまるまる1分いた事になる。そして、彼女の最後の呼吸から2分42秒経過している。彼女は水面から数秒のところにいなければならない時間帯だった。そして、彼女は、いまだ深い海の底から7m浮上したに過ぎない。
<彼女はエアーを要求しなかった>パスカルが言う。
<彼女は落ち着いていた>
次の18秒。浮上のデータ。オードリーはいつもの半分の速度でたどたどしくも上昇を開始。しかし、バッグは3分の時点で上昇を止める。ちょうど4分の時点でオードリーは120mに達した。しかし、キムのコンピュータに記録された水深計のデータによれば、彼女は突然上昇を止め、そして降下を始めている。
<呼吸を止めて4分>キムが言う。
<恐らく、彼女は失神してリフト・バッグから手を離してしまったのだろう>
彼女は120mにいた。この深さではいつもセドリックが彼女を待っていた。前年に洞窟ダイビングの事故で亡くなったセドリックは彼女の守護神だった。しかし、彼らはセドリックの代わりに他のセフティ・ダイバーを配置しなかった。つまり、120mのところは無人だったのだ。オードリーは、ちょうどパスカルとウィキィの中間に一人でいた。
<彼女の下だったよ。>パスカルが言う。
<いつものようにゆっくり上がってきたら、浮遊するリフト・バッグを見つけた。彼女は奇妙な角度でわたしの方に沈降してきた>
15秒以内にパスカルはオードリーを文字通り捕まえて、彼女の沈降を止めた。彼女はもはや呼吸していなかったので、彼は彼女の口にレギュレータをくわえさせることができなかった。彼は自分の浮力調整(BCD)ジャケットに空気を入れると、彼女を引っ張って浮上し始めた。
1分55秒後、彼は深さ90mに到達。しかしウィキィはそこにいなかった。オードリーの最後の呼吸から6分が経過していた。
<その時点で、わたしも死ぬところだった。>パスカルが言う。彼は段階的に減圧するはずの100mの深さでの減圧をしていないのだ。彼は、それ以上の浮上を続けることはできなかった。減圧せずに速い速度で浮上を続けると、血液中に溶けこんだ窒素が気泡として析出し、血流を阻害する「ベンズ」という症状を引き起こす。そして、脳の血管にそれが起これば、たちまち死が訪れる。彼には妻も子供もいるのだ。リスクを犯すことはできない。パスカルにはウィキィがなぜ自分の持ち場を離れたのか理解できなかった。だれもが、理解できやしない。ウィキィはオードリーを乗せずにリフト・バッグが浮上したのを見なかったのだろうか。いったいどうしたら、ゆっくり浮上するそれを見逃すことができるのか。
彼らはウィキィを見つめる。
<ノー、ノー。>ウィキィは涙ながらに反論する。
<わかってくれないのか。空のリフト・バッグを見たよ。しかし、見たときは6分も過ぎていた。だから、ダイブは中止されたと思った。だって、当然だろう。だから、わたしは水面に浮上しはじめた。確かにオードリーがパスカルとともに下にいることがわかっていた。彼らはいっしょに減圧しているのだと思ったんだ。他の可能性なんてまったく考えたくもなかった・・・。>
水面に浮上した後、ウィキィは潜水病のリスクを犯してその深さに戻ることはできなかった。そして、彼はそこに戻るべき理由は何一つないと考えた。
一方では、パスカルが深さ90mのところで1分3秒待った。彼はオードリーの装着したブイを確かめ、彼女を水面に浮上させるためにそれを膨らまそうとした。その時、ピピンが到着した。彼女が潜行後、7分3秒経過していた。
オードリーは3分以上失神している。そしてオードリーを水面に引き戻すまで、1分35秒かかっている。彼女は水中に8分38秒いたことになる。
タンクからの圧縮空気を吸いながら、90mの水深を1分35秒で浮上するその浮上速度では、しだいに減圧していく水圧のために肺の中の高圧空気が膨らんで肺がパンクしても不思議ではなかった。肺は内部の圧力に耐えるようにできてはいない。もちろん、ベンズも起こり得たのだ。ピピンはそうしたリスクをすべて背負って行動したのだ。ピピンは船の中で他のメンバーと腰を落とすと、本当になにが起こったのか考えようとした。ないがいけなかったのだろうか。・・・耐え切れないショックから、死んでしまいたいと思いながら・・・。