tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

愛は奇跡(fin)

2007-02-22 20:00:57 | 日記
オードリーの死からちょうど1年後、ピピンは170mに挑戦した。ドクターストップがかかる中での挑戦。テストダイブでは唇が紫色に腫れ上がり、耳から出血もした。しかし、周囲の心配にも彼は耳を貸そうとはしなかった。ピピンは水深170mにたどり着いた。彼はその記録を2ヶ月前の彼らの結婚記念日に達成しようと考えていた。しかし、ジェームズ・キャメロンによる新作の「The Dive」というダイビング映画の都合で遅らせた。ピピンとオードリーの悲しいダイブを元にする映画である。この映画はどうやらラブ・ストーリーのようだ。愛が、奇跡の記録を生み出したのだと。しかし、ぼくがここで書いたように、愛こそが奇跡なのであろう。あの日、あの時、ピピンがオードリーと出逢っていなければピピンは悲しむ事もなかった。でも、出逢わなけりゃ、世界記録はおろか、彼はバツサンでもっと不幸だったのかもしれない。
彼の著書によれば、彼女の名前「オードリー」には「水の女神」という意味があると書いている。これはオードリー本人から聞いたものであろうか。いろいろ調べたが「水の女神」と書いた記述を彼の著書以外に、他の文献で探し当てることはできなかった。一般に、オードリーという名前は、古英語(アングロサクソン語)で"Aethelthryth"「高貴な力」という意味とされる。この"Aethelthryth"のさらなる語源は "aethel"(高貴)と"thryth"(力)から成り立っている。これは、7世紀のノーサンブリア(イングランド北部の古王国、七王国のひとつ)の女王「聖オードリー」(本来の名は゛St Etheldreda")にちなんで、名付けられるようになったものである。
人は苦しい時、精神のよりどころを得ようとする。もうほとんど限界にいる時に、それに耐えられるか、耐えられないかは、当人が信じるものがあるかどうかで違ってくるだろう。たとえば、いつかは、神様が助けてくれると信じることで、つらい運命にも耐えることができるようになるのだ。その意味で、ピピンが記録を更新した時、「水の女神」がいつも一緒と信じたであろう事は、彼の能力を最大限に発揮させる集中力の源となったことは想像に難くない。
<私はシシリーで183mの潜水に挑戦する。それはオードリーが本当にやりたかったことなのだ。しかし、彼女は挑戦するチャンスがなかった。>
現在もピピンは、マイアミに暮らしている。170mの世界記録を樹立して以来、フリー・ダイビング(アプネア)競技ノー・リミッツ(No-limits)から遠ざかっているが、彼の挑戦は続く。
人はみな、一人で濃い青緑の海で潜る時、神秘と恐怖の入り混じった、果てしない底に落ちるような感覚に襲われることがある。未知のものを本能的に恐れる、或いは、単純に死を怖れるそんな動物的な恐怖とそれを乗り越える勇気が、このただ潜るだけの競技の根底にあると思われる。