彦四郎の中国生活

中国滞在記

週末の公園にダンス・舞踏が、歌声が響く12月21日、冬至の前夜❶―福州日本企業会忘年会例会

2019-12-22 13:09:13 | 滞在記

 明日は冬至という12月21日(土)、恒例の福建省福州日本企業会忘年会例会が、市内のホテルで午後6時から開催されるので参加した。開催時間まで30分ほどあったので、ホテルに隣接している「福州温泉公園」に行ってみた。「中国建国70周年」のモニュメントが公園入り口にライトアップされている。

 公園内にはさらに大きな「70周年」モニュメントが置かれていた。この公園はヤシの大木が多い。6時前に公園からホテル会場に到着した。クリスマスも近づき、ホテルの1階ロビーには大きなクリスマスツリーが置かれていた。

 6時から企業会忘年会が始まった。「福建省福州外商投資企業会」(省政府公的機関)の中国人たちも6人来ていて挨拶。通訳は・私もよく知っている中国人の王言傑さん(日本企業会副会長)が。この日の忘年会例会には約130人ほどが参加していた。閩江大学や福建師範大学の教え子たちが、通訳・翻訳業務などで就職している日本企業などの何社かの人たちと乾杯や挨拶を交わした。

 忘年会定例の出し物「モライエバンド」の歌と演奏が、今年も行われた。6曲を披露していたが、中島美嘉の「雪の華」がよかった。曲に合わせてクリスマス衣装を着た日本人駐在員や日本式クラブ(飲食店)の中国人女性たちも何人か踊ったり歌ったりしていた。

 中国の日系企業は日本の正月と中国の正月(春節)に合わせて、12月30日~1月5日までの1週間と、1月25日(今年の場合は。春節開始日は毎年変わる。)から1週間が休みとなる企業が多い。日本人駐在員たちは2回とも日本に一時帰国する人もいれば、春節時期だけ帰国する人もいる。駐在員たちの中国在任期間は、3年~4年の人が最も多い。 

 忘年会恒例の「大抽選会」が全員に商品が当たるイベントがあり、8時半ころに「1本締め」で忘年会はお開きとなった。ホテルのロビーでは、クリスマス各種ソングがピアノで演奏されていた。

 ホテルを出ると、公園から歌声や舞踏やダンスの音楽が聞こえてきたので、つられるように公園に足を向けた。「70周年モニュメント」が闇の中で赤く美しい。見事なステップのダンスを演舞している男女のグループ、普通の広場舞をしている女性たち。

 100人ほどの人たちが輪をつくって、その真ん中に指揮をしている年輩女性が。「歌声広場」にたくさんの人が集まって歌声を響かせていた。歌詞は、スクリーンに映し出されている。中国共産党と革命、戦いを賛歌する歌が続いた。また、叙情的な中国の歌も歌われていた。

 演奏はカラオケではなく、バンドによる生演奏だ。

 

 


地球環境、異常気象が顕著に―TIMES誌「今年の人にグレタ」―グレタとトランプ・小泉進次郎

2019-12-22 11:34:41 | 滞在記

 今年の6月から11月下旬までにかけての6カ月間の間に、東シナ海や西太平洋(日本列島の南)には30個もの台風が襲来した。中国福建省での暮らしも2013年9月以降7年目となっているが、中国の東シナ海沿岸でも、今年ほど台風襲来が多かった年はない。そして、12月に入っても、フィリピンから南シナ海を経て中国南部やベトナムに上陸する台風が2つあった。とりわけ日本の関東地方に上陸した超大型台風19号の被害は大きかった。

 東シナ海台風シーズンの5カ月間、私は7月上旬・8月下旬・10月上旬・11月上旬の4回、福建省福州空港-関西空港間を東シナ海海上を飛行機で往復した。4回とも、台風襲来による飛行機の欠航を心配しっぱなしだった。7月上旬~11月上旬までの4カ月間は、実に週に2つの台風が東シナ海から中国や韓国や日本に来ていたからだ。異常なほどの台風の発生と襲来の年だった。中国でも台風による被害が特に今年は相次いだ。今年、地球温暖化による被害で世界で最も大きかったのは「日本」と発表もされた。さもありなんと思う。

 台風の異常なほどの発生と大型化の原因は、二酸化炭素(co2)による地球温暖化にともなう、気温上昇と海水温上昇によるものである。日本のテレビ報道では、「このまま地球環境が推移すると、地球温暖化で21世紀末までに0.3~4.8℃上昇」と予想されていると報道されていた。

 広大な中国の国土。中国の北西部には「黄土高原」や「砂漠」が広がっていて、オアシスの都市が点在している。2017年6月に、中国北西部の寧夏回族自治区の省都・銀川に行った。街の近くを流れる黄河。この黄河周辺には緑地が広がるが、黄河から20kmほど離れると広大な「黄土高原」や「砂漠」が広がる。銀川から北京に近い山西省の省都・太原まで1時間半あまり、この黄土高原上を飛行機で飛んだ。延々と続く黄土高原の茶色。太原の上空付近に来てようやく緑地が見えてきた。

 今年の9月の中国の新聞報道では、東シナ海沿岸の省での台風被害の増大とともに、「黄土高原」や「砂漠」地域にまばらに緑地ができ始めてきているという報道があった。これは、異常気象・気候変動の影響で、これらの地域での降水量が増加し始めたためだと報道されていた。1億5千年前から6千8百万前までの時代、中国北西部やモンゴルゴビ砂漠には緑地や森が多く、恐竜が闊歩していた時代だった。気温が21世紀末までに4.8℃上昇すれば、海の周辺は水没面積が広がり、中国北西部やゴビ砂漠は緑地が広がってくるという可能性は現実味を帯び始めてきている。

 今年の9月、アメリカのニューヨークで、「国連気候行動サミット」が開催された。ここで、スウェーデンの環境活動家・グレタさんが、「私たち人類は滅亡しかかっているというのに、あなたたちが話すのは金のこと、永遠の経済成長というおとぎ話ばかりだ」と怒りを込めてスピーチし、世界的な反響を呼んだ。その後、世界各国で、若者を中心に「気候変動危機」を訴える集会やデモが相次ぎ大きなうねりともなった。

 12月上旬からスペインの首都・マドリードで開催された「第25回国連気候変動枠組み締結国際会議」(COP25)。これについて日本のテレビ報道では、「小泉環境相に世界が逆風」「安倍サン、安倍サン 石炭ヤメロ、COP25 日本批判高まる」「化石賞に続き石炭賞までも日本に」という報道が。CO2排出の多い石炭火力発電所を増加させ続けている日本政府に対する世界の目が厳しくなってきている。日本はもはや世界の環境への取り組み先進国ではなく、残念ながら逆行する国と見られる国になってきているようだ。

 これらの環境への取り組みに関しては、アメリカのトランプという人は、2015年に締結されたパリ協定(地球温暖化防止の枠組み)から脱退し、世界から批判を浴びたが、平然としている。「一、二に金・金・金、3・4がなくて、自国ファースト・金・金・金」の人だ。世界の人権問題などについても基本的に関心がない。今回のCOP25の会場では、アメリカの俳優・ハリソンフォード氏(77歳)が「大統領を変えなければ、政府はそうし続けるだろう」とトランプ大統領の環境問題への姿勢を批判した。

 グレタさんもこの会場に来て、「本当に危険なのは、政治家らが数値をいじくったり、環境問題対策に取り組むという"ふり"だけをしていること」と、真剣に取り組もうとしない各国の多くの首脳に対して批判をした。このグレタさんについて、ブラジルのトランプともいよばれているブラジル大統領・ポルソナル氏は、「あんなガキ(グレタ)をマスコミが取り上げるからだ」とぶち上げた。

  そして、日本の環境相・小泉進次郎氏は日本が化石賞や石炭賞の1位という恥ずかしい受賞国となったことについて、「(受賞理由は)具体的対策が盛り込めていないからだが、驚きはないですが、私の発信の効果だと思います」とかの わけのわからないコメントを本人は得意げに、ウケると思ってしていたが、世界の人々の失笑をかっていた。彼は9月の国連サミットでも、「環境問題は 楽しくクールでセクシーに取り組まなければならない」との ずれまくりの失笑発言に続き、日本人としてはとても恥ずかしい思いをさせられる環境相だ。グレタさんの行動や発言について12月、「大人を糾弾するのではなく、全世代を巻き込むような環境問題へのアプローチをするべきだた゛」とこれもまた かなりずれた批判コメントをしていた。

 報道では、「小泉環境相に水俣病患者が落胆 具体策なく"歯切れがよいだけ"の人物」と12月に報道もされていた。日本の環境問題の先駆けともいえる水俣病問題でいまも苦しんでいる水俣病患者救済関する話し合いで、何の具体策も示さない小泉環境相に対する落胆。彼はまさに中身のなにもない、「歯切れのよさだけ男」なのだろう。環境問題に取り組む"ふり"さえもできない人だ。私も彼には落胆させられるというよりも 呆れさせられる。

 2週間あまり開催されていたCOP25は、昨日の12月21日閉会。ブラジルの反対などで、CO2減少への枠組み協定は成立をみることがんかった。そして、アメリカの雑誌「TIMES(タイムス)」誌が毎年特集している「今年 最も話題の人=今年の人」はグレタさんとなった。

 「TIMES」誌の「今年の人」特集は、1920年代より始まっている。初めて「今年の人」に選ばれたのは「あれがあこがれのパリの灯だ」で有名な大西洋横断を始めて飛行機でおこなった飛行家・リンドバーク。アジア人としては、インド人のマハトマ・ガンジーが1920年代に(※イギリスからの独立運動)、1932年には中国の蒋介石中華民国初代総統とその妻、1979年と1985年には中国の鄧小平が2回、1986年にはフィリピンの第11代大統領・マリア・アキノ(※夫が亡命先のアメリカからフィリピンに帰国した際、飛行機のタラップを降りたところマルコス大統領によって暗殺される。反マルコス独裁闘争の中心となり、マルコスやイメルダ夫人は海外亡命。第11代大統領となる。)が「今年の人」に選ばれている。

 2016年には、トランプ新大統領が「今年の人」に。そして2019年は、グレタさんが。つい先日の12月19日、トランプ大統領はツィッターで「落ち着けグレタ、グレタは怒りのコントロールに取り組み、友達と古きよき映画を見に行け」と。これに対して、グレタさんは皮肉を込めて「怒りのコントロールに取り組む10代、今は落ち着いていて、友達と映画を見ている」とツィッターを発信していた。

 今年、日本では、新海誠監督がアニメ映画「天気の子」を発表し、閩江大学日本語学科の学生も映画を見た学生も少なからずいる。環境問題、気候変動問題をテーマとしたアニメ作品だった。今年だけでなく、ここ数年の気候変動による日本の被害は相当なものだった。

 そして、日本の「今年の言葉」。「令和」の「令」という言葉が京都・清水寺で発表され、管主によって書で表現されていた。そして、もう一つのテレビ番組での「今年の言葉」は、ラグビー日本代表の「チーム1」だった。「令」や「チーム1」という言葉が、本当に今年の言葉にふさわしい言葉なのだろうか?  なにか、この言葉も「今年の言葉」としては ずれまくっている印象だ。この言葉を選んだ日本の人々は、現実の大切な問題から目を背けているからだろう。違うだろうと思う。

 日本と日本を取り巻く現実の問題を直視すれば、今年の言葉として「民主」「異常気象」が浮かぶ。言わずもがな、香港や台湾の問題、そして、大型台風の多発という環境問題が抜き差しならぬ時代に突入してきているという現実だ。香港の多くの人々が求めているのは「民(たみ)が主(あるじ)となる民主」、一方、中国大陸では「民(たみ)の主(あるじ)となる民主」。これが、米中間だけでなく、世界的な価値観・文明の衝突となったのが2019年だ。そして、環境・気候変動の大きな影響が顕著になった2019年だった。

 今日12月22日の冬至の日。午前8時から毎日放送で毎週報道されている「サンデーモーニング」報道番組で、コメンテーターの青木さんが、「今年の言葉」について違和感を述べていた。同じように感じている日本人も多いかもしれない。言われてみれば気が付く人も多いのかと思う。

 

 


留学生たちの国際学生交流会「縁起閩院・四海一家」―5000人あまりの1回生たちの軍事訓練始まる

2019-12-19 20:49:24 | 滞在記

 12月16日(月)、10時30分から始まる3回生たちとの「日本概論」の授業のため、アパートを8時30分ころに出る。アパートのある団地の道路を「移動金物屋」さんのおじさんが乗る電動バイクがゆっくり走っていた。バイクには日用品がずらっと展示されている。エプロン・洗濯ばさみ・ネズミ捕りなどなど。おばあさんに声をかけられて、止まって商売を始めていた。

 大学正門に入り、10分ほど歩いて研究室に向かう途中、「1・2・3・4(イーアルサンスー、イーアルサンス!)」の大きな掛け声が響いてきた。この日から1週間の予定で1回生たち約5000人の「軍事訓練」が開始されていたのだった。大学構内の3箇所余りの場所で軍事訓練は終日行われ、最終日には第一グラウンドで、全員が集まって各学部の行進演技が行われる。

 指導している教官たちは中国人民解放軍関係の兵士たち。研究室のある建物の7階の部屋からも、軍事訓練のようすが見える。中国では、全国的に小中高校、大学で、発達段階に応じた軍事訓練が毎年行われる。(※大学では1週間から2週間あまり。新入生が入学する9月に2週間ほど行われていたが、2016年ごろから、期間も短縮され1週間に。時期も猛暑の9月ではなく12月になった。)

 授業に向かう前に小グラウンドのバレーボールやテニスコートがある場所での訓練をしばらく眺めていた。寮から学生たちが乗ってきているレンタル自転車が壮観なくらいずらりと並んでいた。

 訓練の初日とあって、行進のようすも 学生達の引き締まった表情はあまり見られない。うまくできなくて照れ笑いの表情が目立つ。これが1週間ほどの訓練を受けて顔も引き締まってくる。行進の足の上げ下げや手の動きなどは、中国・北朝鮮・ロシアなどの兵士の行進特有の形式のもので、メリハリがある行進形式だ。途中で全員が手や腕や足をそろえて止めたりするリアクションが特徴だ。この日の気温はこの時期では珍しく30℃超えの猛暑日となった。早朝の気温は12℃と高く、日中の最高気温は33℃となった。

 12月18日(水)、この日は朝から10℃を下回るかなり寒い 底冷えのする曇天の一日となった。この日は午前8時30分から4時間連続の2回生たちとの「日本語会話3」の授業日。授業が終わり近くの第一食堂で急ぎ昼食をとり、12時40分から14時前まで、担当している4回生7人の卒業論文ゼミ指導を行った。7人全員が自分の「卒論」についてPP(パワーポイント)使用でそれぞれが説明する。

 ゼミを終えて、教室のある教学楼群の建物から大学正門に向かうためレンタル自転車に乗りかけた時、広場にたくさんのテントブースや舞台が設置されていて、人が集まっていたので、そこに行ってみた。この日の2時半から始まる「縁起閩院 四海一家」と題された「留学生たちの国際学生交流」の会場だった。大学外事所の鄭副所長たちなども会場に来ていた。「あと20分くらいで始まりますが、今からリハーサルですよ」と鄭さん。東アジア、東南アジア、中央アジア、アフリカ、中東などの地域エリアごとのテントブースが並んでいた。

 留学生たちは中央アジア・東アジア・東南アジア・中東・アフリカから来ている学生達が多い。特に、ここ1年ほどは中央アジアの国々からの留学生たちが急増している。「中国語」の習得目的が主なものだ。留学年月は6カ月間から3年間など、さまざまだ。

 女性の留学生たちの中に、はそれぞれの国の民族衣装を身に着けている学生もいた。ベトナムのアオザイ、韓国・北朝鮮のチョゴリ、モンゴルやミャンマー、フィリピンやインドネシア、ミャンマーや中央アジア、アフリカなどの民族衣装姿が見られた。リハーサルのようすをしばらく眺めて ここを後にして 研究室のある建物に向かう。

 大学構内の水辺に架かる石橋付近。香港の紋章にもなっている亜熱帯の「バウヒニア」の花が散り下に絨毯(じゅうたん)のように広がっている。

 正門近くの針葉樹林の林の中に入ってみた。茶色となって枯れて落ちた葉がここも絨毯のようになっている。そして亜熱帯の芋科の植物の緑の大きな葉っぱが点在する風景。亜熱帯の植物と亜寒帯の植物がともにあるちょっと不思議な光景だ。

 大学正門ちかくのバス停でバスを待つ。背中にリュックサックを背負っている地方から来ているらしい人たちがバス停に。中国という国では、服装や持ち物のようすからしても、様々な階層、地方と都市が混在する、一様ではない人々が見られる。

 

 

 

 

 

 

 

 


アフガニスタンの人々を描いた絵本―日本の国語教科書(小学4年)にも掲載「世界一美しいぼくの村」

2019-12-18 21:33:28 | 滞在記

  アフガニスタンは40年間近く、戦乱にみまわれている国である。1973年よりのソビエト連邦による政治的介入が強まり、ソ連の傀儡政権ができたが、国民の多くがこれに反発。1979年にソビエト軍がアフガニスタンに侵攻。ソビエト軍から祖国を守る戦いが10年間あまり続き、1988年にようやくソ連軍が撤退。その2年後にソビエト連邦は崩壊する。1990年代のはじめにようやくアフガニスタンは新しい政権を樹立した。しかし、ビンラディンを指導者としたタリバーンが勢力を拡大しはじめ、内乱状態となり、タリバーンがアフガニスタンの多くの地区を支配下においた。

 2001年9月、タリバーンによるアメリカ国内での同時テロ(ツインタワーへの航空機自爆テロなど)を受けて、アメリカはアフガニスタンに軍を送り、タリバーンやアルカイダとの戦いが始まった。タリバーンやアルカイダを追い詰め、その後、新しい政権が樹立した。しかし、再び、イスラム原理主義組織・タリバーンやアルカイダが勢力を盛り返し、現在では国土の40%を支配している。

 この戦乱の地、アフガニスタンで暮らす人々を描いた絵本がある。『世界一美しいぼくの村』だ。著者は小林豊さん。1946年生まれの人だ。何度も何度もアフガニスタンを訪れてこの絵本はつくられたのだろう。小林さんがアフガニスタンの人々を描いた絵本は、他にも何冊かある。『ぼくの村にサーカスがきた』や『ぼくは弟とあるいた』などだ。これらの絵本は戦乱を背景とした一連の物語だ。

 『世界一美しいぼくの村』は、1990年代後半から2000年代はじめの光村出版の小学校国語教科書だったかと思うが、日本の小学校4年生の国語教科書に掲載されていた。スモモや杏(あんず)、梨やピスタチオなど、豊かな果物に恵まれる渓谷のパグマン村。そこで育った少年は、戦争に行った兄にかわって家の家事を手伝う。初めての市場での道中、町での初めての売り子経験、子羊を父とともに町で買って手に入れた嬉しさと得意げな様子で町から村に帰る。戦争の影が濃厚にあるが、少年の様子が微笑ましい。

 ソビエト軍侵攻によるアフガニスタン紛争が絵本の背景にあり、出版された当時(1995年頃)から現在にいたるまで、アフガニスタンの状況は激しく変化もした。この絵本の最後の1ページには、「この年の冬、村は戦争ではかいされ 今はもうありません」の2行と、戦乱に巻き込まれた村から逃れて他の地にうつらざるをえなくなった家族4人(父・母・少年・弟)の後ろ姿の絵が描かれている。 

 小学生の時にこの「世界一美しいぼくの村」の物語にであった人も多いかと思う。テレビ報道などでも、「内戦が奪った家族とぼくの村」と、この絵本が紹介されたこともあった。

 小林豊さんは、日本の各地で講演会なども行ったことがあるようだ。2019年12月4日におきた中村哲さん銃撃事件において、再びアフガニスタンという国についての関心が日本でも高まったかと思うが、『ぼくの村にサーカスがきた』・『世界一美しいぼくの村』・『ぼくは弟とあるいた』の一連の物語(絵本)は、戦争というものを 静かに告発している作品群だ。

 『マスード 愛しのアフガン』・『山の学校の子どもたち』など、フォトジャーナリストの長倉洋海さんがアフガニスタンの人々を著した本がある。1952年生まれの長倉さんは、北海道釧路市の出身で、のちに同志社大学を卒業。そしてフォト・ジャーナリストとなり、世界で戦乱にみまわれている国々やアマゾンなどで暮らすの人々を訪れ、取材し、写真を撮って、本を著した人だ。

 『マスード 愛しのアフガン』は、祖国に侵攻してきているソ連軍から祖国を解放するために立ち上がったアフガニスタン救国民族イスラム統一戦線の総司令官マスードの日常を写真に撮り著した書籍だ。アフガニスタンの言語を学習し、1983年からあしかけ20年余り、300日間以上にわたってマスードと生活をともにした記録でもある。

 1983年、ソ連軍による第6次攻勢を、パンシール渓谷に拠ったマスードたちは撃退し、ソ連軍に壊滅的な打撃を与え、「パンシールの獅子」とも呼ばれた。この時、外国人記者から将来のことを問われ、「国を解放したら、国民が信頼できる政治家に後はまかせて、大学で建築学を勉強しなおしたい」と答えている。(※彼は、学生時代はカブール大学で建築学を学んでいた。)

  ソ連軍の撤退後、アフガニスタンは新政権を樹立し、マスードは国防大臣に就任した。しかし、数年後、タリバーンやアルカイダなどのイスラム原理主義組織が攻勢をかけ、国内は内乱状態となった。マスードたちは再びパンシール渓谷一帯に拠り、国土の10%・人口の30%を勢力下に維持しながらタリバーン勢力と対峙していた。2001年9月9日、ジャーナリストを装った2人のタリバーンによる自爆テロによってマスードは暗殺される。そして、その2日後の2001年9月11日、アメリカでの同時爆破テロ事件が起き、世界を震撼させることとなった。

 マスードたちがソビエト軍に対するゲリラ活動を始めた時の仲間は6人だった。アフガニスタンの「チェ・ゲバラ」とも呼ばれた彼は、今は「アフガニスタンの英雄」とされている。しかし、今、マスードを暗殺したタリバーンやそれと同盟関係にあるアルカイダが再び国土の40%を支配下におさめ、2001年以降、最大の勢力をもつようになった。そして、世界の70%の麻薬をその支配地域で栽培・生産している。

 このような40年間にわたる戦乱のアフガニスタンで、中村哲さんは35年間にわたって生きてきたこととなる。マスードと中村哲さん、愛しのアフガンで人生を捧げた人だった。(※マスードは1953年生まれ。私や長倉さんとは ほぼ同じ年代となる。私の京都の自宅の書斎正面には、目の前に『山の学校の子どもたち』が10年以上ずっと置かれている。)

 


アフガニスタン・中村哲氏の銃撃殺害事件とイスラム過激派集団の資金源・麻薬生産―水と緑か麻薬か

2019-12-17 20:03:56 | 滞在記

 12月4日、アフガニスタン(アフガン)で長年にわたり医師として、またこの国の灌漑用水路や井戸などの水利施設づくり、緑化事業などの活動を行ってきていた中村哲さん(73歳)が複数の何者かによって銃撃され暗殺された。犯行に及んだ数名の銃撃犯たちのうち、9日までに2人が逮捕され取り調べを受けているようだが、「武装グループによる計画的犯行」ということは判明しているが、いまだその犯行を行った組織などや背景の解明には至っていないようだ。

 事件が起きたのは、パキスタンとの国境に近い州都シャララバード市内。ここからは、アフガニスタンとパキスタンの国境でもある「カイバル峠」も近い。自動小銃や拳銃で武装し、2台の車で中村さんの乗る車を追走。行く手を遮ったあと、一斉に銃撃を加えた。このため、中村さんと同乗していたボディカードや運転手なども含めて6人が殺害された。

 アフガニスタン全土では、中村哲さんの死を悼み、多くの人々の悲しみに包まれた。遺体の入った棺をアフガニスタン大統領も担いだとも聞く。遺体はアフガニスタンの空港から飛行機の特別便(LAL)で日本に輸送され、生まれ故郷の福岡県に戻ってきた。アフガンのカーム航空では、自社飛行機の尾翼に中村哲さんの肖像画を急きょ描き追悼を行った。また、多くの在日アフガニスタン人が日本の空港につめかけ、哀悼の意を表明していた。

 2016年9月、NHKEテレで放送された中村さんたちの活動を紹介した「武器ではなく命の水を」は、今でも心に残っている番組だった。中村哲さんは1948年に福岡県の北九州市若松区に生まれた。昆虫が大好きで、大学は農学部にすすみたかったが、家庭の事情もあり、九州大学医学部に進学。1973年に卒業後、福岡県大牟田市内の労災病院に10年間あまり勤務している。

 日本キリスト教海外医療協会の医療海外派遣事業を勧められ、1984年にパキスタンのペシャワール市内の病院勤務を始めている。中村哲さんの活動を支援する「ペシャワールの会」(NPO法人)ができたのはこの頃だ。昆虫の中でもチョウが大好きだったらしく、幻のチョウといわれる種が、パキスタンやアフガニスタンの山中に生息していることも、この地への派遣に応募した動機の一つだったとも本人は語っている。その病院の看護婦をしていた人と結婚。その後、パキスタン情勢の急変のため、国内での活動が難しくなり、アフガニスタンの病院や診療所での医療活動を行うこととなった。

 アフガニスタンは1973年にソビエト連邦軍の侵攻を受け、それに抵抗するゲリラ活動が起きていた。その抵抗の中心組織となったのがアルカイダである。ソビエト軍の侵攻は10年以上にわたって続いたが、ソビエト軍はついに撤退することとなった。荒れはてたた国土の中で人々の生活は、食料的にも医療的にも大変な状況だったかと思う。

 医療活動に従事しながら、「100の診療所より1本の用水路」と中村さんは語ったことがあるが、貧困から国民の生活・命を守るためには緑の農地の拡大と穀物生産や農産物生産の増大が必要なことを痛感し、井戸堀りや河川から水を取り入れる用水路づくりの活動にも力を入れ始めた。このころの中村さんの著書に『医者 井戸を掘る』がある。「カカ・ムラ」(ナカムラのおじさん)とアフガニスタン人に親しまれ敬愛を受けていた中村哲さん。

 今回の事件を起こした組織については、イスラム原理主義過激派組織の「①アルカイダ、②タリバーン、③IS(イスラム国)、そして④水利を巡る問題をかかえる組織」の4つの説が犯行組織としてささやかれている。

 タリバーンは中東各国を中心に世界的に原理主義運動を行っている組織で、2001年にアメリカのニューヨークで飛行機をビルに突っ込ませた同時テロでよく知られている。そのリーダーだったオサマ・ビン・ラディン氏はパキスタンにおいて米軍特殊部隊によって殺害された。しかし、新しいリーダーのもと現在も中東を始め、パキスタンやアフガニスタンなどで活動を行い、アルカイダ組織と連携をしながら勢力を広げている。

 ISは、シリア・イラクで勢力をはり、2015年に日本人の後藤健二さんや湯川遙菜さんを斬首したことでもよく知られている。この10月27日、リーダーのバクダディ氏が米軍特殊部隊により殺害された。

 イスラム原理主義組織の主な資金源は麻薬の原料であるケシ(芥子)の栽培とアヘンから精製したヘロインなどの麻薬の販売ルートであると言われる。麻薬を製造できるケシの栽培は、中央アジアや東南アジア、そして中南米などで行われてきている。タイとラオスとミャンマーが国境を接する「黄金の三角地帯」が有名だったが、三国の政治的安定と経済の発展によってこの地域での麻薬生産は減少してきているようだ。そして現在では、アフガニスタンが世界の麻薬製造の70%を占めていると言われている。

 なぜ、このようにアフガニスタンでの生産が急増してきたのだろうか。上記の4つのグラフを見ると分かってくる。人口が急激に増加してきた(2018年人口は、1990年の4倍、2000年の2倍)が、一人当たりの食糧がやや減少していることである。用水路づくりや井戸を掘り、緑地化を図り、農産物の生産を増加させることが追いつかず、また、灌漑面積も減少している。食料を得るには、資金があれば海外から輸入した方がいいという考えもあり、食料自給率も低下してきたのがアフガニスタンだ。食料を海外から輸入する資金に充てられているのがアルカイダの支配地域での「麻薬製造」で得た莫大な資金である。

 現在、反政府組織でもあるイスラム原理主義組織「アルカイダ」は「タリバーン」と連携しながら、国内での支配地域の拡大を近年は急速に広めている。その支配地域はアフガン国内の40%以上におよび、国の約半分を支配下におき、その存在力と影響力は2001年以降最大となっている。より多くの土地を支配し、より多くの人々を支配下におけば、より多くの資金を得て、武器や食料や兵士を増生できる。

 年間何億ドルにものぼるタリバンの主な収入源は、麻薬の製造と販売(主にアヘンの栽培とへロインの製造)だ。他にも、支配地域における鉱山資源の販売、人質をとって身代金をとる、そしてサウジアラビアの富豪など世界各地からの寄付などである。2016年の記録ではアフガニスタン国内で約1700人が誘拐されたとされる。国連の報告によれば、およそ300万人のアフガニスタン人が、直接的あるいは間接的に麻薬産業に携わっているとされる。アフガニスタン全体の労働人口が約800万人なので、すくなくても3人に1人以上にのぼり想像を絶する数字だ。

 犯行組織はまだ解明されていないが、土地に水をひき、大地を緑化し、農産物や食料をつくり、自給率を伸ばしていくという、本来の国づくりや国土に必要な まっとうな方法をおこなっていたのが中村哲さんたちだ。一方、そのような中村さんたちが推進している方法に人々の将来の可能性を向かわせることを苦々しく思っているのが、イスラム原理主義組織だ。だとすると、今回の事件の背後には、アルカイダやタリバンなどの組織が関与していると考えることは自然でもある。2008年には、ペシャワール会所属の医師・伊藤和也さん(当時31歳)がタリバンによって殺されてもいる。(※「人々に西洋の文明を植え付けようとしている」とタリバンは殺害理由の声明をだした。)

 現在、アメリカ軍1万3000人がアフガニスタンに駐留しアフガン政府軍と共にアルカイダやISやタリバーンとの戦いを行っている。トランプ大統領はこの駐留軍のうち約4000人を撤退させることを近づいて近くに発表予定だ。さらに、タリバーンの攻勢が続いていき、支配地域の拡大をはかるかと思う。

 ここ10年間あまり、日本国内での麻薬使用の広がりが危惧されている。最近では沢尻エリカが合成麻薬の所持と服用で逮捕された。LSDなどの合成麻薬を手軽に使用する芸能界での麻薬使用も広がりをもっていて、さらなる大物芸能人といわれる人の逮捕も噂されている。毎週日曜日に放映されている「サンデー・ジャポン」(爆笑問題が司会)では、最近では毎週この芸能人の麻薬問題について取り扱われている。元国会議員だった杉村太蔵氏などは麻薬使用者への社会的に厳しい対応・世論づくりを主張している。一方、ホリエモンこと堀江貴文氏などは、麻薬の一定の合法化を主張している。いずれにしても、「麻薬使用」「麻薬販売」に関しては かなりあまい風潮が日本国内ではあるように思える。アルカイダによりアフガニスタンで製造された麻薬も多く日本に入っていることかと思う。

 麻薬には、①覚せい剤②大麻③コカイン④ヘロイン⑤アヘン⑥LSD⑦MDA(エクスタシー)などの種類がある。大別すると神経を興奮させ「そう状態」を導く作用を特徴とするものと、神経を抑制し恍惚感や陶酔感を体感するものの2種類だ。LSDなどは合成麻薬とも呼ばれ、化学的に製造される。ケシから製造されるものはヘロインとアヘンだ。末期がん患者には、麻薬・モルヒネで痛みを抑え、苦しみを軽減させる医薬品として麻薬は医薬品として必要なものではあるが。

 中国では、麻薬使用者や麻薬販売に関わる犯罪者への刑法はとても厳しい。2013年に中国広東省広州の空港で、約3.3キログラムの麻薬を所持していた(手荷物から)として逮捕拘束されたのが愛知県稲沢市の市議・桜井琢磨さんだ。逮捕・拘留されて5年後の今年の11月8日、広州市中級法院(地裁)で初めての公判が行われ、無期懲役の実刑判決が下された。公判で「知人から商品サンプル入りのスーツケースを日本に運ぶことを依頼されたが、覚せい剤が入っているとは知らなかった」として、無罪を訴えたが、判決は桜井さんの主張を退けた。現在76歳なので、死刑に相当する判決である。この裁判が正当に行われたものなのかは疑問ではあるが。知人のアフリカ人は逮捕さすでに死刑となっている。

 中国では、50g以上の麻薬を販売したりする犯行の場合の量刑は、懲役15年(実刑)か無期懲役か死刑である。麻薬の販売にはとりわけ極刑だ。インドネシアやマレーシアなども刑罰はかなり厳しいと聞く。関西国際空港などで、チケットカウンターの列の中で、知らない中国人から、「荷物重量が重すぎて困っています。あなたのスーツケースに少し預かってくれませんか。お礼はします。」と頼まれたこともあったが、親切心でもこれは絶対に預かってはいけないことだ。