彦四郎の中国生活

中国滞在記

日本共産党の綱領改定「中国を社会主義国と認めず」明記—香港デモ集会で、日本共産党への感謝が

2019-12-15 18:03:09 | 滞在記

  ◆「日本共産党からの香港民主運動への支援に感謝する」。11月28日夜、香港の中心部で行われた、米「香港人権・民主主義法」の成立に感謝する大規模市民集会で発表された感謝リスト。日本関係者の中でも、特に「日本共産党」の名が挙げられたという。日本共産党が香港民主派と呼ばれる人たちに支援メッセージを送っていたことに、私は少なからずの驚きをもってこの情報に接した。

 米国では、議会上下両院がほぼ全会一致で上記の法案を可決しトランプ大統領も、11月27日に法案成立への署名をせざるを得なくなった。米国と正反対な姿勢を示したのは日本。米国同様の立法どころか、安倍自民党・公明党政権は香港問題に向き合うことすら避けてきた。(※中米間での立ち位置としての難しさは分からなくもないが‥) それだけでなく、それこそ、そんな国政運営のしがらみはあまりないように思われる野党勢力の中心である国民民主党や立憲民主党も、この香港問題での国会での論議を、不思議ではあるがこれまでまったく求めもしなかった。

 ◆野党は「桜を見る会」問題で安易な安倍首相を批判することに終始し、政権への国民の不満をこれをてこに増生しようとするばかりだった。世界の人権・民主の重大問題がこの半年間も香港で続いているというのに、これまで一度も国会で取り上げたこともない。実に玉木代表も枝野代表も情けなさを通り越してあきれた人権・民主感覚の党代表政治家だと思うことしきりである。(※この半年間、日本共産党も同じようなものだと思っていたので、香港民主派への支援メッセージ配信に驚きをもった次第だ。)

 しかし、そうした与野党の中で、最近、異色の存在として際立ち始めたのが日本共産党だ。11月14日、日本共産党は「香港での弾圧の即時中止を求める」声明を発表した。声明の中では、香港警察による弾圧を「言語道断の野蛮な暴挙」「絶対に容認できない」とした上で、「弾圧強化が中国の最高指導者の承認と指導のもとに行われている」と断言し、「今日の香港における弾圧の根本的責任は、中国政府とその政権党にあることは明らかである。その対応と行動は、民主主義と人権を何よりも尊重すべき社会主義とは全く無縁のものといわなければならない」と、中国共産党を痛烈に批判した。

 声明だけでなく、11月18日には、東京都内の中国大使館を訪れ、12月上旬に予定されていた「日本共産党第28回党大会」での綱領一部改訂提案報告書を手渡し、「①香港での弾圧の中止②ウイグルにおける人権抑圧の中止③尖閣諸島の日本領海における中国公船の侵入や、他国が支配している地域に対し力で現状変更を迫る試み(南シナ海)の中止を求める」立場を、中国政府と中国共産党の指導部に伝えるよう要請した。本来なら、多くの国民の意識からしても、日本政府がやるべきことだが。そして、立憲民主党、国民民主党は、より率先してやるべきことだったのだろうが。そして日本の政党では日本共産党だけが、11月28日の香港で、世界が注視する中、香港人権・民主法案を成立させた米国の国歌が合唱される市民大集会上で、日本共産党の名を挙げられ、香港市民から感謝された。

 実は、11月上旬に日本に1週間ほど一時帰国した際に、12月に日本共産党は綱領を改定し、「中国を社会主義国と認めず」と明記することを日本のテレビ報道やいろいろな新聞、日本共産党機関紙「赤旗日曜版」などで知った。

 テレビ報道では、「批判―中国・ロシア念頭、平和と進歩に逆流」「日本共産党志位委員長"尖閣諸島での領海侵犯や南シナ海進出➡中国を名指しで批判」「綱領の改定案―いくつかの大国で強まっている大国主義・覇権主義は世界の平和と進歩への逆行」とのテレップが流れ、報道されていた。

  11月10日付の「赤旗」日曜版を見た。一面の見出しには、「世界の大局的見方示す—党大会への"綱領の"一部改定案―中国を"社会主義めざす国"とみなす根拠なくなった。"中国・社会主義を目指す新しい探求"を削除―中国の見過ごせない動向」とあった。

 2面・3面などを詳しく読んでいくと、12月の党大会での綱領一部改定のポイントとして次の3つが挙げられていた。①「20世紀の巨大な変化と21世紀の展望―植民地支配崩壊が最大の変化」と題して、20世紀の歴史や21世紀への展望に関する綱領の叙述の改定。②2000年代初頭の綱領でキューバ・ベトナム・中国を「社会主義をめざす新しい探求」と評価していた記述を今回削除」、この中で中国を社会主義国と認める根拠を失ったとする改定。③未来社会論において、「発達した資本主義国での社会変革が社会主義・共産主義への大道であり、そのには特別の困難性とともに、豊かで壮大な可能性がある」という叙述を展開していること。

 中でも、中国と中国共産党に関する削除・改定の理由として、次のように記事では述べられていた。「‥‥。しかしこの数年来、中国の国際政治における動向は見過ごしできません。核兵器禁止条約に敵対し、核兵器保有国と競い合い核兵器の近代化・増産を進める。尖閣諸島での領海侵犯や南シナ海での軍事拠点化をはじめ、"力による現状変更"をすすめる覇権主義的な行動が深刻化している。国際会議の民主的な運営を一方的に覆す覇権主義的な振る舞いが是正されず、香港で起きたデモに対する武力による威嚇、ウイグル自治区での長期収容など人権問題が深刻化している。これらの行動は、社会主義の原則や理念と両立しえません。中国について"社会主義をめざす新しい探求が開始"された国だと判断する根拠はもはやなくなりました。‥‥」と。

◆ 日本共産党は2015年に「中国は覇権主義国である」ということに言及した。そして、今回の綱領改定へとつながってきたのだろうと思う。しかし、遅きに失しているという感も私には強い。中国と中国共産党に関する そんなことはもう5〜6年前から 日本の国民の誰もが分かりきっていたことだからだ。昨年2018年の6月に、アメリカ・トランプ大統領と北朝鮮・金正恩との初めての会談について、「大歓迎だ、すばらしい!」と、北朝鮮における人権問題にはなんらふれることなく赤旗・日曜版で礼賛していたのが日本共産党だった。

 ここ数年、日本に帰国した時には、日本共産党の活動をしている知り合いの党員たちや支持者の友人・知人たちに対しても、「私の目に映った中国という国や中国共産党の実態」について機会があればよく話していた。また、日本共産党の対外・外交政策に関する問題や批判もしてきた。しかし、まあ、今回の綱領改定と香港へのメッセージ、中国大使館にむけての行動等については 評価をしたいとは思う。

◆ 日本共産党の党内民主主義に関しては、いまだ問題が大きい。党規にある「民主集中制」という言葉には「民主」という言葉は使われてはいるが、実態は民主的ではない。自由に意見を言いにくい雰囲気が党内にはかなり強くあるようだ。自由に党員が意見を言えるためにはこの「民主集中制」は党規から無くした方がいいように 私などは思っている。

 日本共産党の委員長などは在籍期間がものすごく長い。党の実権をにぎる役職は、委員長・書記長・議長の3役だ。戦後、党内路線闘争を勝ち抜いて日本共産党の実権をにぎったのは宮本賢治氏。(1908年生—2007年・99歳で死去)  彼は、党内権力闘争・路線闘争を勝ち抜いて、1958年に書記長になり党内実質NO1となる。そして、1970年~1982年までは委員長。その後1997年まで議長となった。実に40年近くの年数だ。次いで、不破哲三(実名・上田健二郎)氏(1930年生・89歳)は、1970年に書記長となったあと、1982年から2000年まで委員長、その後2000年から2006年まで議長。これも実に35年間に及ぶ。議長を退いた後も、党内に長く隠然たる影響力を維持していた。

◆現委員長の志位和夫氏(1954年生・65歳)は、東京大学の学生だったころに、宮本賢治氏長男の家庭教師をしていた人だ。35歳という若さで書記長に抜擢された。宮本賢治氏の後押しがあったともされる。2000年から委員長となり、2019年に現在に至っている。これも20年以上に及ぶ。現書記長の小池晃氏(1960年生・59歳)は、2016年より書記長となっている。もともとは東北大学医学部卒業の医師だった。

◆主席や議長や委員長や書記長や首相や大統領などの在籍期間があまりに長すぎると、どこの国でもどこの党でも、必ず党内民主主義や国内の民主主義は問題が大きくなり停滞・退化するのは世の常だ。こうなるのも、その党やその国に民主主義がないからだ。日本共産党が「民主集中制」を改めて、真に党内民主主義がより行われることになることを期待したい。

◆1965年から10年間続いた、毛沢東氏が主導する中国の文化大革命。この時期に中国共産党は日本共産党に対して「修正主義批判」と批判を展開した。このため、日本共産党と中国共産党は絶縁した。それから20年以上が経過した1998年、当時の不破哲三委員長が主導して、中国共産党との関係正常化となった。このことを不破氏は高く誇りにした。そして、その後の綱領改定では、「社会主義を目指す探求の国」と中国共産党を高く評価した。不破氏にとっては誇るべき業績と思っていたようだ。

 そもそも、1949年以降、一党独裁を長年続けていて、政治的民主主義への移行を計らずにきている国家に対して2000年に「社会主義を目指す探求の国」として高く評価し、綱領にまで明記することを党全体で認めていたことこそが問題であり、北朝鮮も含めて 人権的な大きな問題や民主主義のない 社会主義を名乗る国々をいままで批判できなかったことは、日本共産党の大きな責任問題を問われるものだった。それがようやく変わりつつあるかという感がする。 

 2015年、日本共産党は「中国は覇権主義」と言及、そして今回の綱領改定となっていったということは、ようやく日本共産党内における不破氏の影響力が薄れたということを意味し、党員のみならず、幹部党員の多くも思っていた中国に対する評価を前面に出すことができるようになったのだろう。このあたりもこれまでの党内民主主義の欠如を物語るものである。

◆不破哲三氏については、功罪の両面があるように思える。1970年代の書記長時代は「民主連合政府」の旗振りとして輝きを持っていた人だった。彼の演説などを 京都市内で聞いたことも何度かあるが、演説はとても上手だった。マスコミなどでも「赤い貴族」として近年取り上げられてもいる。彼が住む豪邸のことだ。私が知る限り、日本共産党の専従職員などは、とてもとても給料が低く、世間の半分以下だった。だから、看護婦や教員の女性など堅い職業で収入があり、日本共産党を支持している人と結婚して家庭を営んでいる人も多かった。

 不破氏の自宅は神奈川県内の山麓にあるが、付近の小学校の敷地面積と同じくらいの坪数(約1000坪)もある豪邸だ。敷地内には4棟の建物があり、このうち2棟は一応は党名義の建物。これも実質的には不破氏が使う建物と言われ、公私混同も批判される。運転手兼ボディーガードや料理人も常駐しているという。高齢となり党内影響力が減少した中、今もこの豪邸で暮らしているのだろうか。一方、現在の委員長の志位氏は、千葉県船橋市の公団の分譲住宅に庶民と同じように暮らしているという。

 

 

 

 

 

 

 


日本語学科1回生、「2019級日語系卡拉OK大赛」なるものが開催された―沖縄「島唄」のこと

2019-12-14 13:04:06 | 滞在記

  12月7日(土)、午前9時半から11時までの2時間、閩江大学外国語学部日本語学科1回生の「2109級日語系カラオケ大会」なるものが開催された。この日の2週間ほど前に1回生の授業を担当している中国人教員の邱先生から審査員として参加してくださいと頼まれたのでこの日 大学に向かった。

 2019級というのは、2019年9月入学生という意味だが、日本語を学び始めてまだ3カ月あまりしか経っていない1回生たち。日本語の「あいうえお」や「アイウエオ」などの、ひらがな・カタカナを書いたり読んだりすることはほぼできているが、「私は〇〇です。」ぐらいの簡単な構文くらいしか話せない段階の学生たちばかりだ。それなのになぜ日本語で歌うカラオケ大会を実施するのか疑問にも思ったが、まあ、行くこととなった。

 大学構内に4つある大学食堂の一つ・第一食堂の3階にある小ホールに行くと、司会担当らしい学生たちが、たとたどしく必死に日本、語会話文の発話練習をしていた。閩江大学の外国語学部は各学年(回生)英語学科5クラス、日本語学科2クラスで構成されていて、約800人が在籍している。日本語学科1回生は2つのクラスで40人あまりが在籍。

 司会の挨拶から始まり、ステージに次々と登壇し、日本語の歌を歌い始めた。曲名は①「人間だった(「はるまきご飯歌唱カバー曲」)、②「夢灯籠」、③「風になる」、④「キャンパス」。1人で歌う学生もあれば2人〜5人で歌うグループもあった。

 ⑤「一休さん」、⑥「いつも何度でも」(ジブリのアニメ曲)、⑦「Sumer time」、⑧「僕らの手には何もないけれど」

 ⑨「君がくれたもの」、⑩「夕べは俺が悪かった」、⑪「釣り堀」、⑫「His/History」、⑬「アドレナリン」

 ⑭「Butter fly」、⑮「前前前世(ぜんぜんぜんせい)」、⑯「Rain」、⑰「星空のバラード」と17曲が歌われた。まあ、1回生のこの時期、みんな頑張って歌唱練習をしたのだろう。上手だなあというのが2曲ほどあった。「一休さん」の最初の出だし「好き好き好き好き一休さん」は、なかなか出だしがわからなくて、会場の爆笑をとっていた。

 特別出演ということで、日本語学科の中国人教員の譚先生と邱先生が、日本語と中国語で、テレサ・テンの「時の流れに身を任せ」を歌ったが、とても上手だった。譚先生から1週間ほど前に「寺坂先生も歌を準備しておいてください」と言われていたので、沖縄の歌である「島唄」を歌った。

 「島唄」は日本の居酒屋などでたまに歌うこともあった。「島唄」(The Boom)の作詞・作曲をして歌っている人によると、この歌は、23歳頃に初めて沖縄を訪れ、「第二次世界大戦の末期にアメリカ軍に包囲され侵攻され、ガマで集団自殺をした沖縄の人たち」の生き残りのおばあさんから話を聞き、作詞作曲したものだった。「千代にさよなら」「八千代の別れ」などの歌詞は「君が代」の歌詞からとったものだった。

 ―島唄―

一、デイゴの花が咲き風を呼び嵐が来た デイゴが咲き乱れ風を呼び嵐が来た 繰り返す悲しみは島渡る波のよう

ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら 島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ 島唄よ風に乗り 届けておくれ私の涙

二、‥‥‥‥

 私が暮らす福建省福州と尖閣諸島と沖縄の那覇は同じ緯度26度にあり亜熱帯性の気候。「島唄」の歌詞にあるデイゴは福州でもよく咲いている花だ。今、12月になっても、咲き残っているデイゴの花が大学構内にもある。今年の秋に、失火によって首里城の主殿の建物が全焼してしまった沖縄。沖縄の歴史を題材にした『琉球の風(上下)』著・陳舜臣を今読んでいる。1600年代初頭、島津氏の薩摩藩によって侵略され、その後、中国の明王朝や清王朝と日本の両国に従っていた琉球王国は、明治期になって日本領土としてなってしまった。そして、1945年4月から6月までの沖縄戦へと悲劇の歴史が続いた。

 歌詞に「ウージの森」とあるが、これはサトウキビ畑のことだった。米軍から逃げ込んだガマ(洞窟)の近くのサトウキビ畑を「島唄」の歌詞は意味をしている。

 沖縄の三大花といえば、「デイゴ」「ハイビスカス」「ブーゲンビリア」。ここ福州でもこの花々は多く咲き誇っている花だ。

 

 

 

 


巨大な毛沢東像が建つ人民広場の夜―ネット動画配信の撮影者―日系企業の駐在員や卒業生たちと

2019-12-14 06:07:18 | 滞在記

 12月3日の火曜日、この日の夕方6時過ぎに福州市の人民広場である五一広場にてしばらく過ごしていた。冬至が近くなり午後5時ころにはとっぷりと日が暮れている。平日とあって広場に集まる人もまばらだった。中国各地の大きな都市ではどこもそうだろうが、人民広場には毛沢東の巨大な像が建てられているところが多い。像の下には2017年11月より全国的な標語となった「緊密団結在以習近平同士為核心的党中央周辺 奮闘奪力新時代中国特色社会主義偉大勝利」の赤い横断幕が。像の背後にある小高い于山の中腹の寺院の白い塔がライトアップされている。

 この人民広場の場所はかっての明王朝の時代には、福州城の巨大な城門や城壁や楼があった場所。今は当時の石垣跡がほんの少しだけ残っている。小高い丘のような于山は、1912年の孫文を中心とした辛亥革命時には革命軍の福州本部が置かれたところだった。

 この広場は週末、とりわけ土曜日や日曜日の夕方から夜にかけて、大勢の人たちで賑わう。広場舞やダンスを練習するたくさんのグループや聴衆とともに歌声を響かせるグループ、さまざまな楽器の演奏などが行われる。人民広場の中に「大劇場」がある。久しぶりに広場にきてみたら、この大劇場がマッピングされ、さまざまな光の饗宴をしていた。

 年老いた母の腕をとりダンスのステップの仕方を教えている、老母の娘さんらしい二人の女性が。ほほえましい光景だ。龍の蛇腹のような凧のようなものを空中に泳がせている人も。これも2017年11月月から全国的な標語となった「不忘初心牢记使命」(初心忘れず 使命を心に刻もう)の大きな電光文字が光を放っていた。

 広場の一角で十人ほどの人が集まっていたので行ってみると、その中心には一人の若い女性が歌を歌っていた。その歌っている様子をその女性自身が動画の自撮りをしていた。インターネットサイトに投稿発信してフォロワー数を多く獲得していくことを目的としているものだ。2014年頃から急速に普及が広まった携帯スマホにより、このようなフロアー数を増やすことにより、収入を得たり有名人(ネットスター・星座)になっていく人が出始めてきた。

 資金がなくても、携帯スマホ一つで多くのフォロアー数を獲得することが可能にもなるこのようなサイトは、数年で爆発的に中国では広がってきた。私もこのようなものは携帯電話の動画で時々見ることもあるが、フォロアー数が何百万人以上ともなると多くの収入を得ることもできる。(※1か月に20万元[320万円]以上を得る人もめずらしくないようだ。) 動画の多くは、自分の部屋での生活の様子を撮影したものが多い。おはようから始まって 私生活の様子を動画配信し いろいろと語りかけてくる動画だ。恋人同士や祖父母と孫などが日常的にアプリ機能を使って連絡し合う光景は、日本でも使う人は多いかと思うが、それを商売にしたサイトだ。

 このため、山奥の田舎に暮らす娘さんでも、地方から都会に働きに来ている娘さんでも、一攫千金を夢見て このようなサイトへの投稿を行い続ける人が多い。そして、このようなサイトを商売としている会社も多くあり、優秀な(売れる)投稿者を所属させ 売り込みをかける。一種のプロダクションのようなものだ。この種のプロダクションは動画の主人公がある商品を紹介したりすることにより、その商品を販売している企業と契約関係をむすび利益を得る。

 この中国のインターネットサイトについての特集ドキュメンタリーが日本のテレビ報道で半年ほど前にあった。中国南部の広東省にある有名大学「広東外語外貿大学」の学生生活のようすを日常的に動画配信している女子学生の動画サイト。1回生の頃から始めたこのサイトは何百万人のフォロワーを集めるようになった。そして、所属するサイト会社と「どのようにサイトフォロアー数を維持・増加させていくのか」という戦略会議で、本人と会社側の考えが違っていき、ついにこの所属会社を辞めるという内容だった。

 五一広場近くの日本料理店「古都」に、この日の6時半過ぎに私を含めて5人が集まって会食と乾杯の運びとなった。福州にある日系企業の一つで、岡山県倉敷市に本社をもつ「丸五富井工業有限公司」の総経理(社長)の白石さんや駐在員の枝松さんが設けてくれた会食で、今年の6月に閩江大学の日本語学科を卒業し、この会社で翻訳や通訳業務に従事している鍾さんと柯さんもこの日 参加した。2時間ほど会食しながら過ごした。

 白石さんは断続的だが 1980年代より中国で生活を始めている。企業駐在員としては20年間あまりの経歴の持ち主。東京外国語大学中国語学科に在学中、1年間、大学を休学し北京の日本大使館で働いたこともあったそうだ。1980年代初頭からの40年間の中国社会の歴史・変移を体感している人だ。

 

 

 


福建省福州の冬始まる―冬の亜熱帯の気温は4℃〜30℃までの気温差も―常緑樹木の中にも

2019-12-12 19:04:26 | 滞在記

 12月上旬になって亜熱帯地方の福建省福州も朝夕晩は急に冷え込んできた。先週1週間は日が落ちると冷え込みがきつくなり、12月5日の朝8時頃、大学の気象観測所の電子気温は6℃を表示していた。日中の最高気温は12℃くらい。6カ月以上が夏なので、日本のような部屋全体が温まる暖房器具は販売がほとんどされていないので、高校生時代の下宿で足元だけを温めた小さな電気ストーブだけで寒さを凌いでいる。それだけではだめなので、室内でもパッチをはいて、ホカホカカイロを背中に貼って、厚着して過ごしている。

 ところが今週は、早朝は10℃くらいとやや寒いが、日中は30℃まで気温が上がってクーラーが欲しくなる。でも日が落ちると、急激に冷え込んで 1時間くらいたつと13℃くらいまで下がる。だだっ広い大学構内の樹木や森はほぼ90%が常緑樹なので緑に包まれる。風邪を引きやすい気候なので、ちょっと風邪気味になると「早めのパブロン」を服用し、風邪が悪化しないように気をつけるため、日本から持ってきている風邪薬の消費がとてもとても多くなり、残りが少なくなり始める。

 大学構内には竹も多いが、この季節になっても緑のまま。この秋に構内の水辺で誕生した水鳥の可愛い小鳥が泳ぎ廻っている。

 2月に入ると開花し始める椿の蕾が もう少し膨らみ始めている。2月中旬〜下旬になると開花する木蓮(もくれん)も蕾を膨らませ始めている。もうスミレの花が咲いていいる場所もあった。

 バナナの樹木は少し葉が枯れてきているが、年に2〜3回実をつける房がかなり大きくなってきていた。

 大学構内にはヤシの種類の樹木も多い。12月24・25日はクリスマスだが、日本ではクリスマスに飾られる赤い植物「ポインセチア」の高い樹木が教室棟の横に2本あり、少し赤い色に変わり始めている。年末になると、葉全部が真っ赤になる。

 常緑樹に覆われている大学構内だが、紅葉しているところもほんの少しだけだがある。そんな紅葉を目にすると、日本の四季を思ってなにかホッとする。針葉樹林の森、百日紅(さるすべり)の紅葉。

 今日の朝、大学正門から研究室のある建物に行く途中、水辺に紅葉している樹木が目に入ったのでそこまで行ってみた。プラタナスの種類の樹木のようだ。まだ低木だが、綺麗に紅葉していた。福州で見た紅葉らしい紅葉にようやく巡りあえた。

 大学食堂で昼食をとっているパキスタンやイランからの留学生たち。一昨年まではインドネシアやアフリカ系の留学生が多かったが、昨年からは中央アジアの国々の留学生たちも増えてきている。最近ではロシアの留学生も目にする。一帯一路政策の一環だ。

 大学の授業を終えて、バス乗り場に向かう道すがら、大学の第二グラウンドで学生たちがソフトボールをしていた。今年の秋に、ソフトボールなどの野球系スポーツをする姿を初めて中国で目にし始めた。大学正門近くのバス停までレンタル自転車(30分間1元=16円)を毎日利用する。教室から歩けば15分~20分間ほどかかるが、自転車だと5〜6分あまり。バス停には乗り捨てられたレンタル自転車が十数台置かれている。バスに乗車する場所まで無遠慮に数台が置かれている。このあたりの迷惑は、中国人は日本人のようにあまり考えない。バスを乗り継いで1時間20分あまりでアパート近くのバス停に到着。歩道に堂々と駐車している車。人の迷惑は考えていない。人は車道まで下りてその車を迂回する。中国の人は幼いころからこんな光景には慣れっこなので、迷惑とはあまり考えない習慣があるようだ。

 電動バイクの荷台の両側に段ボールなどの荷物を無理やりに積んで運ぼうとしている老年の人が。だがすぐに荷物が落ちてしまう。何度も何度も荷物を工夫して積みなおしチャレンジしている。このあたりは中国人の面白いところだ。無理をなんとか通そうとするのである。一種のチャレンジ精神の旺盛さは中国民族の特徴の一つかと思う。つまり、失敗しても失敗してもあまり気にしないで再チャレンジをするというところだ。

 あと半月で年末か‥‥。1月8日頃からの大学の冬休みも一歩一歩近づいてきている感もする。

 


中国女子バレーボール代表❷中国代表チーム育成に関わった大松監督(1964・東京五輪女子排球監督)

2019-12-11 19:49:49 | 滞在記

 1964年東京オリンピック(五輪)で悲願の金メダルに輝いた女子バレーボール日本代表。強敵・ソ連(現・ロシア)を破って優勝。その代表チームを指導した監督は大松博文氏だった。回転レシーブなど、技術的にも新しいレシーブも駆使しての「拾って拾って、繋いで繋いで速攻やトリックプレーで攻める」というスタイルは「東洋の魔女」とも呼ばれた。

 バレーボール日本女子代表の活躍は、中国に影響を与えた。おりしも、中国では10年間にもわたる文化大革命が始まった時期でもあった。中国はソ連との関係悪化という状況もあり、ソ連を破った日本女子バレーボール隊は、毛沢東にもまぶしく思えたのかもしれない。中国は翌年の1965年4月、日本代表監督だった「鬼の大松」こと大松博文氏を招き、1か月間指導を受けた。まだ、日本と中国の国交回復がない時代だったが。(1972年に国交回復)

 当時の中国バレーボール代表は、昼寝をした後に数時間練習するのが日課だったようだ。大松氏は毎日10時間、深夜まで特訓を続けた。医者や救急車を待機させ、傷だらけで意識がもうろうとしている選手に、「やる気がないなら田舎へ帰れ!」と容赦ない罵声を浴びせ、しごき上げたという。選手たちは、「毛沢東精神で武装した私たちが、日本人に負けるわけにはいかない」と歯を食いしばったと伝えられてもいる。

 大松氏は、「日本人より背が高く、体も柔らかい。国家のために自分を投げ出す信念と、自ら学ぶ意志がある」と語っている。磨けは光る原石のような選手たちにほれ込み、選手の国籍など関係なく、全身全霊で指導を続けたようだ。この時に指導を受けた中国選手たちの中には、ようやく文化大革命が終息し「改革開放」が始まった1980年からの「中国女子バレー代表」の黄金期に向けて、選手たちを指導・監督する人たちの存在につながっていくこととなった。

 今年のNHK大河ドラマ「いだてん」では、東京オリンピックに向けての日本女子バレーボール代表の練習の様子や大会での様子を描いている。主将(キャプテン)の葛西選手役は安藤さくら、大松監督役はチュートリアル・徳井。吉本興業所属のチュートリアル・徳井の脱税事件があり、この場面での取り扱いに大変困ったこととなった。故・大松博文氏も草葉の陰で「あんなもんに私の役をさせるなんて」と怒っていることかと思う。

 中国バレー女子が三大大会で最初に優勝したのは1981年のw杯(ワールドカップ)。強烈なスパイクが「鉄のハンマー」といわれたエースアタッカーの郎平を中心に、翌年82年の世界選手権、84年のロサンゼルスオリンピック(五輪)でも金メダルを獲得する快進撃を見せた。85年w杯優勝、86年世界選手権優勝と5連覇の偉業と続いた。

 当時の中国は、鄧小平主席の主導する改革開放政策の開始により世界に門戸を開き、外資導入や経済の自由化を始めたばかり。世界の最新技術や文化を取り入れ始めたが、それと同時に「世界の中心」と信じていた中国が「世界で遅れた国」であることに国民が気づかされた時期でもあった。スポーツ界もほとんどの競技で世界の強豪にまったく歯が立たない。そんな中で、中国バレー女子は1980年代に世界大会五連勝を果たし、中国人のプライドを呼び覚ましたとも言われる。

 この当時、女子バレーボール代表の「訓練地」は福建省の漳州市にあった。ここは厦門(アモイ)に近い場所でバナナの名産地としてバナナ畑が広く広がる地。私が福建師範大学で教員をしていた時、身長が180センチを超える女子学生(日本語学科)がいた。彼女は漳州が故郷で、かっては将来のバレーボール代表を目指して日々訓練を受けていた時期もあったと話していた。漳州は女子バレーボールの聖地のようなところらしい。

 この1980年代の中国バレーボール女子の監督を務めたのが、1965年に大松博文氏から厳しい指導を受けた陳忠和氏などである。陳忠和監督は、かなり厳しい「血のでるような」指導を行ったようだが、大松監督同様に 選手たちには厳しいながらも慕われた存在だったようだ。

 1990年代になって三大大会からの優勝から遠ざかったが、2013年から郎平氏が監督に復帰してから、若手を積極的に起用し、米国やオーストラリアなどからトレーニングコーチなども招き、世界大会を次々と制覇していくようになり現在に続いている。そして、2019年10月に世界ランク1位に約30年ぶりに返り咲くこととなった。

 中国のテレビ報道やインターネット動画記事でも、中国女子排球代表の記事はとても今 多い。

 2020年の1月25日の春節が始まる日に全国で封切られる映画「中国女排球」。ポスターの文字には、「中国女排 流血不流泪  掉皮不掉队」(中国女子排球隊は、血を流しても泪を流さず 皮がむけようとも 落後せず)と書かれていた。

 ※前号で「エン・シンゲツ」と書かれていた選手の名前を間違えていました。正しくは「張常寧」選手です。

   ―中国のインターネット記事では、日本の卓球選手のこともよく掲載されている―

 「天才少女・少年」と中国ネット記事でよく紹介されているのは、伊藤美誠・平野美宇・張本智和の3人。さらに、石川佳純や早田の名前も。来年の東京オリンピックでの「中国常勝」に赤信号と危機感をもっている記事もけっこう目にする。(日本勢の上記の選手たちとの戦いで)

 2019年12月現在、世界女子卓球のランキング(世界ランク)では、1位から10位までの10人のうち6人が中国。2人が日本(伊藤4位・石川10位)、他は台湾とシンガポールが一人ずつ。平野は11位。

 あと半年後近くに迫ってきた東京オリンピック、日本女子バレーは中国に1セットでも取るという大善戦ができるだろうか。また、卓球はどれだけ中国を追い上げることができるだろうか。オリンピックでの激戦が楽しみだ。