彦四郎の中国生活

中国滞在記

敦賀「金ケ崎城」―史上2度にわたりその舞台となった城址―光秀も殿軍として信長最大の危機にあたる

2020-10-17 08:08:22 | 滞在記

 福井県敦賀市の敦賀湾に面した「金ケ崎城」。ここから故郷の実家まで約30分間。京都から実家の往復時に今まで数限りなくこの城址の麓を行き来してきたが、いつでも行けるという思いからか、行くことを残したい気持ちからか、今までこの城址には行ったことがなかった。この10月4日、実家への帰省から京都に戻る途中、ついにこの城址に行ってみることとなった。

 金ケ崎城が日本の歴史上特によく知られるのは、南北朝期と戦国期の二度である。一度目が、延元元年(1336年)にあった「金ケ崎の戦い」。後醍醐天皇や楠木正成、新田義貞や足利尊氏たちによる軍事行動により鎌倉幕府が滅亡する。(1333年)。その後、後醍醐天皇による「建武の新政」が行われるが、この新政は2年ほどで崩壊する。足利尊氏を中心とした勢力が京都を占拠、後醍醐天皇は比叡山に逃れ、その後 吉野に落ち延び南朝を設立、ここに半世紀あまりの「南北朝時代」が始まった。そして1336年、足利尊氏は室町幕府を開く(※室町幕府の成立は尊氏が征夷大将軍に任じられた1338年との2説あり)。(北朝)

 天皇(南朝)方を支持する新田義貞たちは、天皇の子である2人の親王を擁して北陸方面へ向かう。そして、敦賀の金ケ崎城に1336年の10月から数千の軍勢で籠城、6万とも云われる足利軍と対峙、厳寒の冬を越しての翌年1337年の3月までの半年間の籠城戦となる。しかし、兵糧尽きて餓えに苦しみ、ついに落城した。この時、義貞の子・新田義顕(18歳)や尊良親王(27歳)や城兵たち300余人は城に火を放ち自害した。もう一人の恒良親王(当時13歳)は、敦賀気比宮の宮司の子息らの手引きで天皇継承の証の神器を携え小舟で敦賀湾岸の蕪木崎までのがれ洞窟に潜むが、足利軍によって捕らえられ京都に護送、幽閉され1338年に毒殺された。

 義貞は籠城戦末期の頃、包囲された城を抜け出し、木の芽峠を越えて南朝方のもう一つの拠点となっていた瓜生氏の居城・杣山城(現南越前町)に入り、5千の援軍とともに落城迫る金ケ崎城に向かうが、城に近いところでの足利軍との戦いに敗れ、杣山城へと退却していった。その後の1338年に義貞たちは金ケ崎城の奪還に成功し、越前国での緒戦に勝利しはじめるが、この年、敵との不慮の遭遇戦の中で義貞は討ち死にする。彼の死により北陸方面での南朝方勢力は衰退していった。明智光秀が美濃国から逃れ10年間あまり暮らしたとされる越前丸岡の「称念寺」門前。ここの寺に近くの藤島で死んだ義貞の墓がある。

   明治23年に建立され、尊良・恒良親王を祀る「金崎宮」や「金ケ崎城址」のある山を見上げる。金ケ崎城の背後のより高い峰続きの山に「天筒山城址」がある。天筒山城はこの金ケ崎城を足利軍が攻略するために陣城を築いたところだ。その後、世は移り、戦国時代となる。越前を支配した朝倉氏により1500年代半ばにこの天筒山一帯に金ケ崎城の付城として天筒山城が築城され、二つの城が一体となってより防御力が増した城郭群となった。ちなみに三方を海に囲まれた金ケ崎城の最高所・月見御殿跡(本丸曲輪)は海抜86m、天筒山城の本丸曲輪のあった場所は海抜171mと90m余り高い。 

 二度目は、有名な「金ケ崎の退き口」である。元亀元年(1570年)4月、越前国の朝倉義景攻撃のため織田信長は10万ほどの大軍勢をもってこの金ケ崎・天筒山両城を攻撃。まずは天筒山の南東方面から城攻めを行い、朝倉一族の朝倉義紀の4000余りが籠る中、猛攻を加え天筒山を攻略する。次いで金ケ崎城落城に迫る。義紀の軍勢は早急な援軍かなわずとみて、朝倉氏の本拠地に向け城を落ち延びていった。

 金ケ崎城を落城させ、そして木の芽峠の隘路を越えて大軍が越前国に討ち入ろうとしたその時、信長の妹・お市の方が嫁いでいて信長と同盟関係にあり、かつ、朝倉氏とも長年の同盟関係にあった東・北近江の戦国大名・浅井長政が軍事行動を起こし、織田軍の背後から信長軍に襲い掛かろうとしてきた。敦賀の地で朝倉軍と浅井軍に挟まれて挟撃される形勢となった織田軍は窮地に陥り、いち早くその全軍壊滅的危機を察した信長は、なりふり構わずに全軍の逃走撤退態勢をとる。

 この時、織田軍の殿(しんがり)軍として、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の軍勢が殿軍の中核となり、落城させた金ケ崎城に立て籠もり残る。城域に織田軍の幟旗を林立させ、織田軍が城に籠っていると見せかけながら、金ケ崎城を徐々に退いていった。追撃する朝倉軍と迫りくる浅井軍。この撤退戦で、徳川家康軍や明智光秀軍、荒木村重軍なども殿軍として活躍している。織田信長最大の危機とされる「金ケ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦である。信長の大軍は、敦賀の西方にある若狭の佐柿国吉城を経て、敵対する可能性もあった朽木氏を味方につけ鯖街道(朽木街道)をぬけて京都に撤退していった。

 金ケ崎城はほぼ三方向が海に囲まれている城だった。付城の天筒山城も西と北はほぼ海に囲まれていた。東側は広大な湿地帯。織田軍は南東や南方の方向から大軍を投入し攻略したのだった。かなりの難攻不落的な城郭群だったことが古図や航空写真を見るとよくわかる。現在は城の周囲の海の多くは埋め立てられて、敦賀港や敦賀セメント工場北陸電力発電所などの敷地となっている。

 金ケ崎宮及び金ケ崎城に向かう。城域への登り口付近には、御影石づくのの巨大な説明石が立てられていて、金ケ崎城の由来や金ケ崎退き口の戦いなどのことが書かれていた。この城が歴史上の舞台となった2度の戦役で、この地で戦った新田義貞・足利尊氏・織田信長・徳川家康・豊臣秀吉・明智光秀・浅井長政らの家紋なども記されていた。「信長・家康・秀吉・光秀」の四役そろい踏みの地となった。

 『奥の細道』の旅の途中にここ敦賀に立ち寄った松尾芭蕉は多くの句をここで残している。ここ金ケ崎にて、「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」と詠んだ。南北朝時代の戦いで、戦いに敗れた新田軍の陣鐘が海に沈み、後に海士に潜らせ探させたが、鐘の竜頭が海底の泥に埋まって引き上げることができなかった。芭蕉は宿の主人からこの話を聞き、金ケ崎城の本丸曲輪である月見御殿での武将たちの月見の光景を想いながら詠んだ一句である。

 歴史上の舞台となったこの城は国の史跡ともなっている。

 金ケ崎城の大手道の石段を登る。「金ケ崎の退き口」「麒麟がくる」などの幟旗が立つ。金ケ崎宮の鳥居や社殿が見えてきた。この金ケ崎宮の創立は明治に入ってからだ。日清・日露戦争がおきた時代、皇国史観が広がってきた影響もあり、敦賀の人たちの熱烈なる請願によって明治26年(1893年)に金崎宮は2親王を祭神として建立された。そして、満州国の設立、日中戦争へと至る過程の昭和9年(1934年)には金ケ崎城・金ケ崎宮は国史跡となる。

 境内には「恋みくじ」なる大きな看板があった。昨今は「恋の神社」ともなっているようだ。その由来は、後醍醐天皇の第一皇子とされる尊良親王が金ケ崎城に在陣中、この地の娘と恋仲になったことによるものらしい。若いカップルの恋愛成就のための参拝の姿があった。

 「金ケ崎の退き口」や織田信長と敦賀についての大きな説明看板。これを見ると、信長は敦賀に3度来ていることがわかる。一度目は1570年の越前侵攻と金ケ崎の退き口の年、二度目は1573年8月の第二次越前朝倉侵攻。この侵攻により朝倉氏は滅亡する。三度目は1575年の越前一向一揆との戦いの際だ。木の芽峠を最前線として城塞群を築いた一向宗勢力を攻略し越前に侵攻、大掃討戦を行い数万のジェノサイド(大量殺戮)を行った。

 「越前五名城御朱印巡り」のポスター。一乗谷城・丸岡城・金ケ崎城・佐柿国吉城・越前大野城の5つ。1000を超える城巡りをした経験から城をみるに、私なりの越前五名城は、丸岡城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城(敦賀、滋賀県との県境尾根の山中)・疋田城(敦賀)となる。あと、金ケ崎城・小浜城・杣山城(南越前町)・一乗谷城・後瀬山城(小浜)を加えて越前十名城となる。なかでも、戦国期の雰囲気が濃厚なかっての国宝・丸岡城天守、土の城としての遺構が山中に戦国期そのままの形でほぼ完全に残っていて、400年以上の時を経て1980年代にその存在が確認され、現在は国史跡となっている玄蕃尾城の二つは秀逸だ。

 金ケ崎宮の境内に「絹掛神社」という社(やしろ)があった。社の由来には、「1897年建立。尊良親王に殉じて、新田義顕以下132名の武士が自刃した。その132名が祭神として祀られる。籠城5カ月、糧食全く尽き果てての壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。」と記されていた。

 城の中枢部に向かう坂道、かなり急な絶壁沿いの城道が続く。途中、「尊良親王自刃の地」と記された石碑のある場所があった。大きな窪地が石碑の周辺に広がる。ここで132名の人たちが一堂に会して自刃したのだろうか。さらに登ると「激戦の地・戦没者の石碑」が見えてきた。一の曲輪(本丸曲輪)に着く。

 本丸曲輪内に「月見御殿跡地」の看板や石碑が。ここから敦賀湾や敦賀半島、越前海岸が一望に臨める。わたしの故郷の家がある漁村あたりも遠望できる。眼下は86mの高さがある絶壁。下に小さな岩礁の岩があり、岩の上に松が見える。「絹掛の松」と呼ばれる松の木が今も葉を繁らせ生きている。恒良親王が小舟で城を落ち延びる時、絹の着物は目立つのでこの松に衣装を掛け捨てたとの伝承のある松の木。落ち延びた先の蕪木の洞窟付近の海岸もここから見える。

 本丸曲輪から少し下ると「三の城戸」跡地、さらに下ると「二の城戸」跡地。曲輪と曲輪の間には防御のための「堀切」が見える。そしてこの付近は、水が湧き出る処があったとされる水場跡や米などの糧道の倉庫などもあったとされている。

 そして更に下ると「一の城戸」跡地があった。この付近にこの城最大の見どころでもある大きなU字形の「堀切」があった。天筒山方面からの尾根伝いに攻め寄せる敵を防御するための場所である。ここで相当の激戦が繰り広げられたのであろう。本丸曲輪や二の曲輪、三の曲輪をこのあたりから見上げると傾斜は50度以上はある。一の城戸からは天筒山城址に至る急な山道が続く。

 金ケ崎城について『太平記』には、「かの城の有様、三方は海によつて岸高く、厳なめらかなり」とあり、この城が南北朝当時、天然の要害地であったことが記されている。

 一の城戸付近の堀切を下から見上げながら麓に下る。南北朝の時代からもあったである照葉樹の大木の根がむき出しになりながらも元気に樹生していた。

 2020年2月号の雑誌『サライ』には、「半島をゆく―敦賀の地政学」と題して特集記事が組まれていた。歴史作家の安部龍太郎氏や歴史学者の藤田達生氏らがこの歴史の舞台であった金ケ崎城を訪れて記事にしている。「海運の要衝に位置し、京都にも近い越前・敦賀。大陸との関係も深く、南北朝の争い、織田信長の天下統一戦線など多くの歴史の舞台となった。その歴史の地を巡る。」と表題に書かれた特集記事。また、2020年10月号の雑誌『一個人』でもここ金ケ崎城のことが掲載されていた。

 ちなみに安部龍太郎は、南北朝時代の歴史小説としては『義貞の旗』や『道誉と正成』を書いていて、とてもすばらしい書籍かと思う。(※新田義貞、佐々木道誉と楠木正成に関する両書籍。)

 私の故郷の家から車で10分ほどの所に「下長谷の洞窟」がある。ここはかって恒良親王が金ケ崎城より小舟で逃れ、隠れ潜んだとの伝承が残る洞窟。かっては蕪木(かぶらき)と呼ばれた漁村の集落はずれの洞窟だが、現在は甲楽城(かぶらき)と呼ばれる。この洞窟の上の小山には村社の「二ノ宮神社」があり、恒良・尊良の二親王(宮)が祭神として現在も祀られている。

 

 

 

 

 

 


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