可児市の明智城址を午後2時半ころに出発し、福井県と岐阜県の県境(美濃・越前の国境)の油坂峠に向かう。1556年、明智城の落城とともに城から落ち延びて、越前と美濃の国境の山岳地帯を越えての逃避行。光秀29歳の時で、妻や明智城主だった明智光安の嫡男・光満らも共に越前に落ち延びたと考えられている。美濃からどのルートを通って越前に逃れたのかは定かではない。
当時も今も、美濃(岐阜)から越前(福井県嶺北地方)にぬける道は二つある。一つは関市から長良川の渓谷・渓流沿いの郡上街道と越前街道をぬけ、美濃国の白鳥に至り、そこから「油坂峠」を越えて越前に入り、九頭竜川沿いに越前大野に至る道だ。この「油坂峠」は白鳥の町から九十九折(つづらおり)の峠道が、これでもかこれでもかと延々と続く難所。20年ほど前にここをオートバイで通ったが閉口した峠道だった。白鳥の町から峠の上まで高低差は500m以上はゆうにあるだろうか。峠付近には、大日ケ岳(1709m)や毘沙門岳(1366m)、平家岳(1442m)がそびえる。
もう一つは、関市から武儀川沿いに根尾村に至り、さらに延々としたいくつものいくつもの峠を越え、美濃と越前の国境にある能郷白山(1617m)の山頂に近い尾根伝いの九十九折りの難所である「温井峠」を越えて、さらに越前国の大野に至る真名川沿いのいくつもの峠道を歩き越前大野に至る道だ。このルートは、現在でもかなり危険なため車の通行はほぼない。冠山(1257m)なども近くにあり、私が高校時代に越前市(武生市)で下宿生活を過ごした部屋からは、12月~3月までは、この山々の真っ白な峰々の雪が見えたものだった。(※グーグルアースの地図でこの道を見ても、この道がとても危険であることが瞬時にわかる。もし車で通るとしたら 天気の良い日に半日以上をかけて ゆっくりと進むべき道。)
江戸時代初期に書かれた『明智軍記』には、光秀たちは油坂峠を越えて越前に逃れたと書かれている。今回は、午後7時頃までに福井県の実家ののある南越前町まで到着しなければならない事情もあり、明智城から高速道路(東海環状道路⇨東海北陸自動車道路)を使って、郡上八幡を通り白鳥まで走り続けた。白鳥到着は午後4時前ころとなっていた。高速道を下りて一般道へ。ここからいよいよ難所の油坂峠となる。
司馬遼太郎の『街道をゆく4 郡上・白川街道ほか』には、「美濃国は、北方は山波をかさねている。その山襞を削るようにして長良川が奔り、上流へゆくほど隠国(こもりく)の観が深い。」「郡上から北行する街道は、越前街道とよばれている。越前街道は白鳥村で左へ折れる。」などと書かれている。
明智城が落城したのは、『明智軍記』によれば、九月下旬となっている。可児市の明智城に行ってみて、3千もの義龍軍がこの台地状の城を包囲していたのだが、この城から落ち延びるのはかなり難しいことがわかる。おそらく、城兵が光秀たちを落ち延びさせる目的のためにも、夜間に最後の突撃をし、混乱する包囲軍のすきをついて光秀たちの脱出をはからせたのかとも思われる。そして、義龍軍の本拠地に近づいてしまう根尾村から「温井峠」に至る険しいルートではなく、郡上から白鳥、そして「油坂峠」を越えて越前に逃れたのではないかと思う。
今では高速道路を使えば1時間半ほどで白鳥に着くが、当時であれば、可児⇨関⇨郡上八幡⇨白鳥までは主に長良川渓谷沿いの険阻な道があったはずで、ゆうに5〜6日あまりを要したのではないだろうかと、20年前にバイクで走った時の道を想い浮かべ思った。
20年前とは油坂峠を越える道の状況が様変わりしていた。白鳥の町から天空にループ橋ができていて、そこを通って一気に標高をかけあがったことができるようになっていた。通行無料と書かれていた。この道は最近までは油坂峠を越えるための有料道路だったようだ。一気に標高をこの道で登り、そして長大な油坂トンネルが掘られていて、ここを抜けると福井県に到達できた。白鳥の町から油坂峠まで30〜40分間ほどの九十九折の峠道を覚悟していたが、15分間ほどで通り抜けてしまった。
光秀たち一行も、ここ油坂峠に着いて美濃の山々を振り返り、追っ手から逃れた安堵と美濃を離れる辛さ惜別の思いに誰もがかられたことかと思う。福井県に入り、九頭竜川上流域の渓谷に沿った道をゆるやかに下り始める。左手には九頭竜ダム建設にともなってできた九頭竜湖が延々と続く。ひたすら走り続け、九頭竜峡谷を抜けると、大野盆地の広がりが見え始めた。時刻は午後5時頃となっていた。光秀たちがここを通ったであろう10月上旬、季節は暑くもなく寒くもなかっただろうが、白鳥村からこの大野盆地の入り口に到着するのには、険阻な渓谷沿いの道を通ったはずで、おそらく4〜5日はかかったであろう。
そして、光秀たちはここから大河となった九頭竜川の中流域に沿って勝山の地に至り、さらに九頭竜川の下流域にある福井(越前)平野の丸岡にたどり着いたはずだ。大野から丸岡まではおそらく歩きやすい道が続いていたはずだが、それでも2〜3日はかかる。明智城から越前丸岡まで、およそ2週間あまりを要した逃避行だったかと想像される。
九頭竜渓谷から大野盆地に入った入り口付近の美濃街道(※この街道は越前では逆に「美濃街道」と呼ばれる。現在の白鳥―大野間の国道158号線)沿いに「里芋(さといも)」の直売所が数軒並んでいた。「あの里芋の販売所だ!」と気づいた。あの里芋とは、ここ大野市の上庄地区で栽培され収穫される里芋。福井県と石川県にまたがる手取層群での恐竜発掘調査で親しくなった勝山市在住の恐竜学研究者(福井県勝山市職員)の旭さんから、毎年年末になるとダンボールに入れられた里芋が送られてきた。「上庄里芋」と書かれていた。
この里芋を煮っころがしにして調理したら、今までの里芋の概念が変わってしまった。世にこんなおいしい里芋があったのかという驚きであった。旭さんが亡くなってしまい10年ほど前からはこの里芋を食べることはできなくなっていた。その里芋が目の前にあった。日本一の里芋という感がするこの里芋を、自宅用だけでなく、近所や知り合いにも食べてもらおうとたくさん買った。
しばらく行くと、また販売所があった。ここでもたくさん買って車に積んだ。「直売所―上庄さといも―身が締まって煮崩れしない ねっとりとした食感、大野の里芋は有名だけど その中でも新庄地区でつくられる里芋は特別なんです」と書かれていた。この大野の里芋は室町時代前期から栽培が始まり、九頭竜川と真名川が運んだ土壌には鉄分も多く、朝と昼の寒暖差がとても大きいこの地で育つ里芋は「日本一素晴らしい」とされ、全国各地から注文を受け、すぐに売り切れてしまうようだ。とにかくここの里芋を食べると里芋の概念が変わってしまうことは請け合いだ。
大野盆地はこの季節、ソバの畑が広大に広がり、白い花が美しかった。また、秋のコスモスが美しかった。さて、時刻はもう午後5時をゆうに過ぎていた。日暮れが近い。どの道を通って南越前町に行こうか。最短距離の峠道を通ることにした。いままで通ったことのない道だ。まだ夕闇に完全に包まるまでに1時間弱はある。
実は、司馬遼太郎の『街道をゆく 18 越前の諸道』を読み、大野市の山間にある「宝慶寺」に立ち寄ってみたいと以前から思っていた。その古刹は、大野から池田町に抜ける山間の道(現・県道34号線)沿いにある。この山間の峠道を通っていくことにした。行き方を里芋販売所のおばさんにも聞いておいた。ソバ畑が広がる平地を走り山間地に入るがなかなか遠い。薄暗くなり始めてきた。車にナビはないので地図が頼りだ。
里芋販売所から30分ほどで「宝慶寺」の石碑が道端に見えた。「宝慶寺ご案内」の古びた大きな看板が。狭い山門をくぐり参道を車で登る。ほどなく駐車場があり、ここで車を降りて、大木の杉並木の参道を歩く。小さな山門が突然見えてきた。
大きな山門も見え始め、視界が広がる。境内に入ると、さらに大きく、歴史ある古刹という感のする山門が見えてきた
山門に向かう、数人の修行・禅寺袈裟を着た修行僧の坊さんたちが山門をくぐり本堂や厨に向かう姿があった。
『街道をゆく 越前の諸道』にて司馬遼太郎は、「鎌倉期に入宋してかの地の禅宗を歴訪し、日本に帰って曹洞禅をひらいた僧道元(1200~53)が、晩年、越前に永平寺をつくった。道元のまわりに寂円(1207~99)という中国僧がいた。道元が宋の天童山で修行しているとき、その風を慕って弟子になり、道元の帰国後、あとを追って日本に来、師のの永平寺時代もつねにその身辺にいた。」
道元の死後、大伽藍へと変化し俗化する永平寺の経営に、「寂円は、これに反対した。かれはひたすら道元の風をしたい、大野の山中に入り、十八年間、石の上で座り続けたという。この禅風を、ひとびとは、"孤危険峻"とよんで怖れ、近づかず、参学する者もほとんどなかったといわれる。晩年、山中に一寺をたてた。」と書いている。ここがその一寺、「宝慶寺」だ。ほとんど名前の知られていない曹洞宗の禅寺だが、全国にあまたある曹洞宗の修行道場としての地位は永平寺に次いで高いという。
この寺を足早にあとにして、峠に至るカーブ連続道をひたすら走り登る。峠からは渓流沿いの山道を車で延々と走り続ける。突然に視界に大きく立派な滝が現れた。この滝の付近だけ道が石畳で舗装もされていた。「こんなところに滝が!」と驚いた。山道は薄暗くなり始めていた。「龍双ケ滝―日本の滝100選」と書かれていた。地図を見ると、この峠の山道の道程はまだ半分ほどだった。真っ暗闇になるまでにこの道を抜けたいと思いひたすら走る。午後6時すぎに池田町に着き、給油する。
ここからは、暗くて地図も見えなくなり、ほぼ勘に頼って越前市(武生市)の市街に到着した。ここからは地図がなくても勝手知ったる道路。午後7時半ころに母が一人暮らしで帰りを待つ南越前町の自宅に無事着くことができた。
明智城落城から越前に落ち延びる光秀たちのルートをたどり、少しだけその逃避行の困難さ、大変さを垣間見ることができたような気がする。
※前号のブログで、「規模的には恵那市の明智(長山)城と同じくらいのものかと思う。」と記しましたが、恵那市ではなく可児市の間違いです。訂正します。