彦四郎の中国生活

中国滞在記

40歳までのことが謎とされる明智光秀が、初めて文献に記されていた「湖北の田中城での籠城」の地に行く

2020-10-19 13:11:57 | 滞在記

 10月4日、敦賀「金ケ崎城」を訪れて京都に向かう。敦賀の疋田というところで、道は大きく2つに分岐する。左を行けば昔の北陸道(国道8号線)などを通り滋賀県の湖北「木ノ本」「塩津」などあたりに至る。右に行けば161号線、昔の山中峠越えの道で湖北の「海津」に至る。いずれも奈良時代頃からの街道だ。ここ疋田は古代の時代は「愛発(あらち)」と呼ばれ、古代の三大関所(不破の関[関ヶ原]、鈴鹿の関、愛発の関)の一つだった関所があったとされている交通の要衝。そしていくたびの落城悲話が残る「疋田城」の城址がある。

 湖北の海津からここ疋田までの峠道は「七里半道」とかっては呼ばれてもいた30kmあまりの峠の道。その山中峠の近くに「愛発 山中区」の看板が。1207年に越後に流罪となった親鸞がこの地に泊まり越後に護送されていったことを記す石碑がたてられている。「江戸時代には宿駅となり、番所や高札場が設置されていた。享保12年(1727年)には、46戸で200人近い人が住み、問屋も10軒ほどある宿駅であった。」と書かれていた。

 谷川が流れ、かっての家屋や屋敷の跡を物語る石垣が苔むしていた。一軒だけ廃屋が残っている。この地区を奥まで歩いて行くと、野原となっている平地もけっこう広く、50戸数の家屋がかってあったことが納得できた。

 谷川沿いに歩くとアケビが実をつけていた。

 琵琶湖の湖北、滋賀県安曇川町の山々の山麓地に「田中城」という古城がある。近くを京都と滋賀にまたがる丹波山地を水源とする安曇川が流れ、琵琶湖に注ぎ込む。この地は今は高島市という行政区になっている広大な穀倉地帯。ここにはかって高嶋七党と呼ばれる豪族たちが戦国時代にそれぞれの居城・居館を構えていた。最近できたのか、真新しく大きな田中城の説明看板がたてられていた。

 1500年代の半ばになると、この地に勢力を伸ばし始めた湖北の戦国大名・浅井氏への帰属を巡って七家は二分されることとなる。この七家の一つが田中氏だった。田中氏一族は浅井氏への帰属ではなく、朽木に逃れた5年間余り朽木氏に支えられていた13代将軍足利義輝などとのつながりが深かったようで、足利将軍家への支持を旨としていたので浅井氏の勢力とは対立していたらしいことが最近、ある文献が発見され分かってきた。

 平成26年(2014年)、熊本県で『米田家文書』の紙背文書には、「―右一部、明智十兵衛尉高嶋田中城籠城之時口伝也‥‥」(右の一部は、明智十兵衛尉[光秀]が高嶋郡の田中城へ籠城していた折りに教えてもらった‥‥)。この記録は『針薬方(しんやくほう)』、つまり医学に関する内容の奥義書で、米田貞能が書いたもの。「永禄九年十月二十日(1566年10月20日)の日付が記されていた。明智十兵衛がここ田中城にて、浅井勢又は三好勢の包囲に対して共に籠城していた、その最中、越前朝倉氏領国の薬とされるセイソ散などを紹介されたことが記されていた。

 ちなみに「紙背文書」とは、紙が貴重だった昔は、手紙などが書かれた紙の裏面にまたぜんぜん違う文書を書いたりして、紙を再利用していた文書のこと。そんな再利用紙を使って書かれた文書を後世の歴史研究なんかでふとひっくり返してみると、思わぬ記録が見つかることがある。これが「紙背文書」といわれるもの。

 永禄九年(1566年)といえば、明智光秀の年齢は39歳のすでに壮年、もしくは老年にさしかかり始めた年齢。美濃の明智城落城の地から越前国に逃れて10年がたとうとしていた時期だ。すでに足利義輝は前年の1565年に京都で三好一族や松永久秀らの軍勢によって殺されていたが、義輝の弟の足利義昭や将軍家の直臣・細川藤孝らと光秀はなんらかのつながりを持ち始め、ここ田中城に籠城していたと考えられる。ここは越前とも近く、越前の丸岡に妻子や郎党を残しながら、この地に来ていた可能性は高い。謎に包まれていた光秀が初めて文書に記された記録文書の発見だった。その田中城址を初めて訪れた。

 そして、こののち、越前朝倉氏に仕官することがようやくかない、越前一乗谷にほど近い東大味という集落に屋敷を与えられ暮らすことになったのであろうか。

 織田信長が10万の軍勢を動員して1570年に第一次越前国朝倉氏への侵攻の際に、京都から大津、そして琵琶湖に面した湖西道を通過、近江今津からここ田中城に至り一泊している。その後、九里半道とも呼ばれた安曇川沿いの道を通過し若狭の熊川や佐柿国吉城を経て敦賀の金ケ崎・天筒城を落城させ、「金ケ崎の退き口」の危機に陥った。

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」や「米田家文書」の発見により注目されるようになった「田中城」。NHKBSプレミアムで毎週放映されている「英雄たちの選択」の磯田道史氏は、フジテレビの「所ジャパン」という1時間番組に出演。「明智光秀はなぜ信長を裏切った?最新古文書から本能寺の変(秘)新事実」(2020年4月13日放映)で、磯田氏は「古文書には光秀が薬の作り方などを教えたと記されていた。光秀が籠城した田中城はしょぼい城だと思っていたら上がってみたら凄い城だった。各所に防衛のための仕掛けがある。敵が登ってこれないように人工的に急斜面をつくる切岸や、土を盛った人工の壁の土塁、敵を見張ったり狼煙を上げる場所や巨大な堀切など、私は城址を巡って興奮した」と言っていた。

 その田中城に向かう。地元の人たちが最近設置したかと思われる城址案内の標識や、城の縄張り図を印刷したものなどが途中置かれていた。田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、中世の山城で天守台があったと推定される曲輪(本丸曲輪)の標高は220m。今、城の大手道の入り口付近の住宅がある麓からの比高は60mほど。城域の縄張り図を見ると、かなり大きな山城であることがわかる。大手道わきに彼岸花が満開となっていた。地蔵が道端に何体か置かれていた。すぐにけっこう広い曲輪が何段にもわたってつくられているのが目に入ってくる。城道を登る。

 うっすらと汗が出始めるころ、見張所跡の看板が。その周囲にも曲輪群が広がる。大きな曲輪がいつくも続き、周りを土塁が囲む。

 曲輪と曲輪を防御のために遮断する堀切が見える。「松蓋寺」跡への矢印看板が。石段を登って行くと大きなお堂があった。田中城が中世期に築かれる以前、この地は古代の山岳寺院・松蓋寺が建てられていた。そして、廃寺になった所に田中氏が城郭を構えたものと考えられている。

 城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなどの防御施設の遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことが歩いていてわかってくる。本丸曲輪に向かう。本丸曲輪からは、高島郡が一望に見渡せた。田中城は比高わずか60mながら、眼下に西近江街道(湖西道)から湖北の琵琶湖方面を見下ろし、西は朽木街道(別名・鯖街道)も扼す絶好の立地にあることがわかる。

 本丸曲輪の背後の場所方面に行く。傾斜70度あまりの急峻な切岸が続く。そしてこの城で最も大きな堀切があった。そこには土で作られた「土橋」もあった。堀切から主郭方面を見上げると急峻な切岸が迫っていた。

 田中城の山を下って麓に下りた。10月に入っていたため、心配していたダニにはやられずにすんだようだ。

 この田中城は、その後、浅井氏や朝倉氏によって落城しその支配下におかれたが、1573年には信長軍によって落城、志賀郡一帯の支配を認められた明智光秀の勢力下に入った。その後、高島郡の要衝地に大溝城と城下が新しくつくられ、この田中城は終焉を迎えた。

◆ここ高嶋郡(高嶋市)には打下城という大きな山城や丘陵台地に広がる清水山城、琵琶湖の湖水を取り込んだ大溝城などがある。大溝城は京極高次と妻のお江が暮らした城でもあった。