彦四郎の中国生活

中国滞在記

本能寺の寺の変の真相とは―歴史作家・桐野作人講演「岐阜と京都―本能寺の変をどうとらえるか」

2020-10-03 05:35:41 | 滞在記

 新型コロナウイルス感染拡大が日本においても深刻化してきた2月中旬以降、特に3月上旬以降は「不要不急の外出自粛」が社会的にも求められ始めることとなった。そのような状況があったので、私は2月中旬以降のほぼ5カ月間、車で近畿各地の明智光秀に関連した、人もほとんど訪れない山城(やまじろ)史跡や城跡、光秀関連の史跡、特に本能寺の変や山崎合戦(天王山の戦い)の史跡、光秀の死去に伴う史跡や墓地(首塚・胴塚など)を足しげく訪れた。

 「本能寺の変の真相とは」どのようなものだったのだろう。「光秀はなぜ信長を殺すというクーデターを挙行したのだろう」。日本の歴史上最大のミステリー事変だが、明智光秀その人のことも、現地に行くと見えてきたり、感じたりすることも多い。

 京都市の河原町御池に近い法華宗大本山「本能寺」で、9月12日(土)・13日(日)に「光秀と信長 天下布武の道」というイベントが開催された。主催は「岐阜県大河ドラマ"麒麟がくる"推進協議会」。明智光秀の生誕地・岐阜県が、京・本能寺に出陣!と銘打ったイベントだった。近くにある丸善書店や喫茶店に行きがてら、そのイベントの両日ともに本能寺に行った。

 本能寺では、「本能寺寺宝展―信長✖光秀」展が本能寺宝物館で4月25日~9月30日までの5カ月間開催されており、私は9月6日に見に行ってきた。

 9月12日(土)は、「岐阜城盛り上げ隊演舞」や「さくらゆきライブ」、「光秀✖信長」対決クイズが午前、午後にそれぞれ行われていた。

 境内には岐阜県内の明智光秀ゆかりの市のパネル展示や光秀関連グッズなどの商品が売られていた。

 岐阜県の可児市、土岐市、山形市、岐阜市、恵那市と明智光秀とのゆかり地の説明なども。明智鉄道は今年、電車の車体に「麒麟がくる」のラッピングをした車両も走らせているようだった。

 13日(日)は、「歌舞姫ライブ」や「明智光秀甲冑劇(京都・長岡京おもてなし武将隊つつじ)」の演目後、今回のイベントのメインである「光秀と信長―天下布武の道―岐阜と京都、本能寺の変をどうとらえるか」というテーマでの歴史作家・桐野作人氏の特別講演が午後12時30分より本能寺本堂内の会場で始まった。新型コロナ対策として50人限定の参加者事前予約となっていた。

 現在のここ本能寺は、1582年6月にあった「本能寺の変」の「本能寺」ではない。豊臣秀吉が政権をとって、京都の周りに御土居をつくったり聚楽第城をつくった時代に、新たに違う場所につくられたものだ。織田信長廟や本能寺の変で亡くなった信長の家臣たちの慰霊塔などもある。

 

 さて、桐野氏の講演は、「本能寺の変をどう考えるか」ということが話の中心テーマでもあった。桐野氏は2000年代の初頭に『真説 本能寺』という書籍を出版し、本能寺の変の真相に迫った作品を書いている。そして15年後の2019年秋には『明智光秀と斎藤利三―本能寺の変の鍵を握る二人の武将』を出版している。資料考証に基づいたなかなか優れた著作だ。—新史料から明らかにもなった、「本能寺の変」438年目の真実―。この著作は光秀の腹心の武将・斎藤利三の存在がこの本能寺の変に大きく関係していることを考察している。

 本能寺の変を明智光秀が決行するに至る要素や出来事はいくつもあり、その複合的な要素が重なりあって事ここに至る。そしてキーマンとなるのが斎藤利三と桐野氏は考察している。講演の内容は、この最新著作内容に一部沿ったものでもあった。

 明智光秀一族の末裔と称する明智憲三郎がここ数年さまざまな光秀関連書籍を書いている。それをもとにして藤堂裕氏がコミック本として『信長を殺した男―本能寺の変431年目の真実』(巻1~8巻まで現在発売されている)を書き、ベストセラーコミックともなっている。私も全巻買って読んでみたが、なかなか面白い。歴史作家の安部龍太郎氏なども近年、この本能寺の変と世界史「大航海時代」における関係で、スペインやポルトガル勢力との関係に注目した考察をおこなっている。

 本能寺の宝物館の展示のメインに、「伝光秀公御兜(一般社団法人明智継承会蔵)」が展示されていた。兜の左右に明智家の紋章である桔梗がおかれている兜だ。この兜は、私が一度は「欲しいなあ!買いたいなあ!」と強く思った兜だった。今から10年ほど前になるが、兵庫県丹波篠山市の八上城(丹波三城の一つ)の麓にある古物商の店に立ち寄った際、店主が店の奥から出してきて私に見せてくれたものだった。

 店主が「最近、八上城を調べに来た作家の安部龍太郎さんがここに立ち寄られまして、この兜を見てもらいました。彼もこれを見て、"いいですね、欲しいなあ"と言っていました」と話していたのを思い出す。その後、明智継承会が購入したのかと思われる。あの時、もし、私が買っていたらなあ、家宝になるのだがと思うが、明智継承会の所蔵となってよかったのかとは思う。