先週の3月10日は、昭和20年に「東京大空襲」があった日だ。押上駅から新あずま通りに入ると、古い喫茶店があり、そこの2階に「東京大空襲犠牲者遺族の会」という看板が
ある。この界隈は昔から製造業を営む工場が多く、軍需とも繋がっていたので、アメリカはここを集中的に攻撃したということだ。
お惣菜やさんが多く残っているのは、家族で朝から晩まで働いていたので、家に帰ったてから、ごはんの用意をする、という時間がなかった証拠。「おたがいさま」がお互いにあった。またお店の家族もそんなことをよく知っていて、みな気持ちよさそうに、家業を手伝っている。
この界隈はまた「花町」の面影を多く残す。花町は「三業地」(さんぎょうち)と呼ばれた。旅館、料理、芸事・・・・3つが、ちゃんと分業して成田っていた。
温泉旅館も、大手スーパーも、「ねこそぎ商法」みたいに、ぜんぶ持っていこうと
するから、人間関係も、ふれあいも、街の情感も、みんなねこそぎ、なくなって
しまう。「自分が、自分が」の象徴だ。
「失われていないものが残る街」にいると、「失われたものの大切さ」が身に染みる。なくしたり、落としたものは、チャリンと音がしないので、やっかいなものだ。そんなことも忘却しないと、前にいけない時代、イヤなご時世になったものだ。
戦争も遠くになったけど、日本人も遠くなったような気がする今日このごろ。
そんな「日本人」を呼び戻せるような「場」を創りたいと、まじめに思って、
今日も押上にいって、一仕事。じっと手を見る。
ある。この界隈は昔から製造業を営む工場が多く、軍需とも繋がっていたので、アメリカはここを集中的に攻撃したということだ。
お惣菜やさんが多く残っているのは、家族で朝から晩まで働いていたので、家に帰ったてから、ごはんの用意をする、という時間がなかった証拠。「おたがいさま」がお互いにあった。またお店の家族もそんなことをよく知っていて、みな気持ちよさそうに、家業を手伝っている。
この界隈はまた「花町」の面影を多く残す。花町は「三業地」(さんぎょうち)と呼ばれた。旅館、料理、芸事・・・・3つが、ちゃんと分業して成田っていた。
温泉旅館も、大手スーパーも、「ねこそぎ商法」みたいに、ぜんぶ持っていこうと
するから、人間関係も、ふれあいも、街の情感も、みんなねこそぎ、なくなって
しまう。「自分が、自分が」の象徴だ。
「失われていないものが残る街」にいると、「失われたものの大切さ」が身に染みる。なくしたり、落としたものは、チャリンと音がしないので、やっかいなものだ。そんなことも忘却しないと、前にいけない時代、イヤなご時世になったものだ。
戦争も遠くになったけど、日本人も遠くなったような気がする今日このごろ。
そんな「日本人」を呼び戻せるような「場」を創りたいと、まじめに思って、
今日も押上にいって、一仕事。じっと手を見る。