芳賀町は、宇都宮市の東側に隣接する人口15,000人弱の町です。
この芳賀町で、11日午後、
ロマンの碑が無くなっているのに町職員が気付き、
真岡署は窃盗事件として捜査しているとのニュースが昨日ありました。
下野新聞によると、最後に町職員が見かけたのが5月17日で、
町内の農業集落排水処理施設2カ所で11日、銘板がなくなっているため、
町職員が巡回して気付いたとの事で、
ロマンの碑とは何かと思われるかと思いますが、
1974年(昭和49年)に県立美術館が開催した
「青木繁・福田たねのロマン展」が契機となって、
芳賀町東高橋の五行川のほとりに設置されました。
このロマンの碑は直径約1mで、明治時代の洋画家青木繁と
恋人で町出身の洋画家福田たね、子どもの幸彦の姿が刻まれています。
建立には建設委員会を組織して約1千万円の寄付を集め、
益子町で活動していた
ハンガリー出身の彫刻家、ワグナー・ナンドールが制作したものです。
1976年に完成し、
石を積み重ねた土台にセメントで固定されていたとの事です。
青木繁は、1882年(明治15年)7月13日、
現在の福岡県久留米市荘島町で、
旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれました。
青木は1899年(明治32年)、16歳の時に
中学明善校(現福岡県立明善高等学校)の学業を半ばで放棄して単身上京、
画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事しました。
1900年(明治33年)、
東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、
黒田清輝から指導を受けます。
福田たねは、1885年(明治19年)年1月、
栃木県芳賀郡水橋村(現芳賀町)で、呉服屋の次女として生まれます。
18歳で絵を学ぶために上京、不同舎に入門し、青木繁と出会いました。
1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、
友人や福田たねらとともに、千葉県南部の布良に滞在しました。
代表作『海の幸』はこの時描かれたものです。
『海の幸』には、福田たねの顔も描かれています。
福田たねは、この写生旅行で、懐妊します。
1905年(明治38年)年、青木と入籍しないまま、
茨城県真壁郡伊讃村川島(現在の筑西市)の木賃宿で長男を出産します。
この長男が幸彦です。
戸籍上は、たねの父の子(たねの末弟)として届けられました。
1907年(明治40年)、青木とたねは福田家の縁戚に滞在し、
青木は『わだつみのいろこの宮』を描きますが、
父の廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷してしまい、
たねとは離別します。
たねは、1910年(明治43年)、
別の男性と結婚し、多くの子どもに恵まれたとの事です。
幸彦は、父母を知らずに、たねの実父に育てられました。
尺八などの音楽を学び、福田蘭童と号します。
尺八奏者として知られる傍ら、作曲家としても活動し、
日本放送協会のラジオ番組「新諸国物語・笛吹童子」の
オープニングテーマ及び劇中曲を手がけます。
福田蘭堂は離婚歴がありますが、前妻との子が
クレージーキャッツの石橋エータローです。
1962年(昭和37年)、
館山市布良に青木繁《海の幸》記念碑が建立されましたが、
その除幕式には、たねと蘭童が参列したとの事です。
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