■今週は水曜日に卒業式(というのかな?)のあとパーティー2つ、翌木曜日は職場の送別会、ということで、先週の2件と合わせると、これほどアルコールの入った月もないだろう。おそらく新記録である(ただし量はごくわずかだ。)
■今日は用事があって渋谷に出かけたのだが、あいにく閉まっていて目的は果たせず。陽気がいいので代々木公園を散策してからBook 1stで買い物。『SF Japan』(春期号)に山田正紀、笠井潔、恩田陸の鼎談があり、その中で山田正紀が「人間は関係代名詞が七重以上に入り組んだ文章を理解することができない、というのは、何か元ネタがあるんですか?」という問いに対して「ありません。まったくの創作です。」と答えている。これですっきりしたが、それはそうだろう。「十三重の埋め込み文になっている古代文字」とでもすれば少しはリアリティがあったかも知れない。もっとも人間はオンラインで直感的に理解することはできなくても、分析して意味をとることは可能だろう。『神狩り2』では「クオリア」(主観的な感覚質)が中心的なアイディアになっている。クオリアについては1)評価不可能、2)問題設定の不良、3)解明可能という立場があるようだが、僕自身はかなり疑問だと思っている。
■3月10日にZwaan, R. A. & Radvansky, G. A. の状況モデルに関する展望論文に触れた際、「比較のための第三者」ないし「第三項」として状況モデルを使うのはおかしいと指摘した。もうひとこと付け加えておこう。状況モデル(あるいはメンタルモデル)が言語理解の際に構築されるのであれば、それは翻訳の媒介項として使うのではなく、むしろ「翻訳者は翻訳の読者が構築する状況モデルが原文の読者の作り上げる状況モデルと類似することになるような言語表現を達成すべきだ」、といった翻訳の指針(のひとつ)として使うべきではないか。それは結局「第三項」にすることと同じではないか、とか、それはNidaのDynamic Equivalenceとどこが違うのかという反論はありうる。しかし「原文→状況モデル→訳文」という、いわば三角モデルと、「原文→状況モデル1 訳文→状況モデル2 状況モデル1,2の比較」というモデルは同じではない。また、Nidaの「核文以下のレベルでの転移」とも違う。翻訳者は原文から得られた状況モデルを入力として翻訳のproductionを行うのではない。この事情は関連性理論の「解釈的類似」に基づいて翻訳する場合でもたぶん同じだ。比較は翻訳の初稿のあと、「事後的に」、第三項を解さずに直接行われる。ううむ、うまく説明できていない。
■今日は用事があって渋谷に出かけたのだが、あいにく閉まっていて目的は果たせず。陽気がいいので代々木公園を散策してからBook 1stで買い物。『SF Japan』(春期号)に山田正紀、笠井潔、恩田陸の鼎談があり、その中で山田正紀が「人間は関係代名詞が七重以上に入り組んだ文章を理解することができない、というのは、何か元ネタがあるんですか?」という問いに対して「ありません。まったくの創作です。」と答えている。これですっきりしたが、それはそうだろう。「十三重の埋め込み文になっている古代文字」とでもすれば少しはリアリティがあったかも知れない。もっとも人間はオンラインで直感的に理解することはできなくても、分析して意味をとることは可能だろう。『神狩り2』では「クオリア」(主観的な感覚質)が中心的なアイディアになっている。クオリアについては1)評価不可能、2)問題設定の不良、3)解明可能という立場があるようだが、僕自身はかなり疑問だと思っている。
■3月10日にZwaan, R. A. & Radvansky, G. A. の状況モデルに関する展望論文に触れた際、「比較のための第三者」ないし「第三項」として状況モデルを使うのはおかしいと指摘した。もうひとこと付け加えておこう。状況モデル(あるいはメンタルモデル)が言語理解の際に構築されるのであれば、それは翻訳の媒介項として使うのではなく、むしろ「翻訳者は翻訳の読者が構築する状況モデルが原文の読者の作り上げる状況モデルと類似することになるような言語表現を達成すべきだ」、といった翻訳の指針(のひとつ)として使うべきではないか。それは結局「第三項」にすることと同じではないか、とか、それはNidaのDynamic Equivalenceとどこが違うのかという反論はありうる。しかし「原文→状況モデル→訳文」という、いわば三角モデルと、「原文→状況モデル1 訳文→状況モデル2 状況モデル1,2の比較」というモデルは同じではない。また、Nidaの「核文以下のレベルでの転移」とも違う。翻訳者は原文から得られた状況モデルを入力として翻訳のproductionを行うのではない。この事情は関連性理論の「解釈的類似」に基づいて翻訳する場合でもたぶん同じだ。比較は翻訳の初稿のあと、「事後的に」、第三項を解さずに直接行われる。ううむ、うまく説明できていない。
あとの方は、その通りですね。編集段階と言っていいと思います。
①まず、理解(評価)と生成の非対称性。わかるけどできないことは多い。②文章を作ったり作品を作ったり翻訳を作ったりする場合、人は、生成者の立場と理解者の立場をいったりきたりしている。つまり、自分でえいやっと作ってみたものを理解者の立場で観察してみてOKかどうかを評価している。(もちろん、編集とか推敲とかいったような意識的なものもその一部ですね)③ある入力に対して②の過程で安定してきたものは自動化されて単にすばやく訳・表現・生成できるようになる。
ながながすみません。
ご指摘のように状況モデルと意味表示は重ならないのですね。最初からそう言えばよかったんですが。たまたま翻訳にも役立つという箇所で取り上げられた実例が、意味表示レベルのようにとられかねないものだった、ということです。何か中間言語のようなものと解釈されかねない感じがありました。
翻訳者は実際にはいろいろなことをやっているのでしょうが、熟練した翻訳者ほどTAPではとらえられないような自動性をそなえているんじゃないかと思います。なんだかしらないが、とにかく訳してしまうということですね。
別件ですが「曼荼羅道」は集英社文庫、「善魂宿」は新潮文庫です。
翻訳のプロセスモデルとしては僕はJames Holmesの'two-plane, two-map model'がいいんじゃないかと思っています。このモデルはごく簡単に言うと、翻訳者は原文を理解し原文の心的表示(Holmesはこれをmapと言います)を作り上げ、その上で様々な選択をする。その選択に基づいて第2のmap(目標言語の心的表示)を作り、それを基準にして訳文(目標言語)を産出する、というものです。起点言語のmapから目標言語のmapへの転移を媒介するのは「対応規則correspondence rules」です。
こういう翻訳のプロセスモデルの研究はもっと進める必要があると思うのですが、最近はあまり見かけませんね。(Delisleの本もHolmesの本も1988年刊です。)
さすが水野先生、通訳翻訳理論、言語理論と大変幅広く展望が利いてますねえ。また、mkkさんなど優秀な方が集まられるところもすごいです。
鈴木健さん、そして鈴木さん経由で池上さん、面白いですね。
ただ、僕がイメージしていたのは中央埋め込み文center-embedded sentencesでした。こんなの(↓)
The rat the cat the dog bit chased ran away.
Millerのmagical number 7 (plus minus 2)というのはかなりいいかげんな実験の結果で、被験者がリハーサルできてしまうような状況だったようです。最近のコンセンサスは4 (plus minus 1)で、1(笑)という主張もあります。