たろの日記ページ,gooブログ版

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統計と人の話を再び

2011-07-07 19:09:15 | ココロ
以前わたしはガンにかかり(また終わってませんが)悩んだ時の心情から統計は人間(の心情)にマッチするのか? というのを書きました。ガンというのはどこまでも確率で語られる病気です。生存率や再発率,また発生率など。原因がある程度特定されているガンでも同じ生活をしていてもなる人とならない人がいて,それは統計で語られます。

学者であるわたしはそれはそれで理解できるのですが,一方患者としては自分が助かるのか?治るのか?が「視点」であり,マクロに語られる治る見込みというのは,まるで心に響かないという気がしました。正直90%治るという数字があっても,10%に入ったらどうしようと悩むし,80%が助からないとう数字があっても20%に入るかもしれないという希望を持ちます。実際わたしが今ここで文章を打っている確率は50%無かったかもしれません(わたしのガンは症例が少ないのか細かい統計値が見当たらないので,はっきりとしたことはいいにくいのですが)。

そういう経験から,学者であるにも関わらず,わたしは「人」に語る時に統計で納得させるのは無理だろうという感触をもってました。そしていま世の中を見ると,原発,放射能,ガンの発生,地震の発生等,多くが確率で語られ,そして見事に「人々」を納得させることが出来ずにいるように思います。

実際に数百年から1000年に一度しかこないといわれた大地震がきてしまったわけですから,確率的に低いということが,何の安心にもならないという印象を人々の心に刻み付けられてしまったのではないでしょうか。こういう中で,ガンにかかる人の数が数パーセント以下だとかいわれても,たぶん安心できるはずはありません。

がん患者が感じていた,統計でしか語れない事象にたいして確率のみで語られても何の安心も出来ないという感触を,この大地震は一般の人まで広げてしまったのではないか?という気がします。

少し話が脱線しますが,これまで公害というのは多くは化学物質が悪さをしていて,「化学」によって語られていた様に思います。生物も化学反応を起こすし,医療も化学を使うので,なんとなくそれは自然のことのように思ってました。しかし今放射能,および放射性物質が問題になってる時に,放射能が「物理」で語られること,そしてその物理で語られるものが,生物や医療(病気)へ影響する事にたいして,多少の違和感を感じてます。まぁ実際は化学にも生物にも医療にも物理のテクニックを使う領域はたくさんあるんですけど。

化学反応は科学の領域だけど,原子の世界は物理なのねと思うとちょっと不思議な感じがします。更に物理は非常に数学的です。物理に統計を持ち込んだのは割りと新しい(というか数学でも統計は新しいのですが)とは思いますが,統計で原子を語るのも数学,または物理的な技術なのかも知れません。あと物理って「物のコトワリ」なんですよね。

話がそれましたが,実は心理学でも統計は良く使います。今の科学は統計を非常に便利に使い,人の心も統計で表そうとします。そもそも統計は理屈がわかってない事象を扱うことが出来るから便利なのです。ただ実際に「一人の人間」の視点に立ったとき,統計や確率があまりに心情とかけ離れているという感覚はわたしの中では日々強くなっていきます。確かに科学として,学問として統計が便利だというのは良くわかります。でも統計で人の心を動かせると思うのはたぶん間違いです。いま,多くの「専門家」がそういう間違いを犯してないでしょうか?。今の世の中の論調を見ていると,少しそういうことを感じます。
コメント
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