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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

会社の仕事

2009-03-05 22:33:32 | 社会
検索すればすぐに引っかかるだろうからリンクしませんが,漫画家佐藤秀峰氏のWebが話題になっていて,そこのプロフィールのページに佐藤秀峰氏が生まれてこれまでの人生についてマンガで描かれてました。話題になってるのはブラックジャックによろしくというマンガがモーニングからスピリッツに移った経緯,もっと前から他の雑誌でもいろいろと秀峰氏が納得いかない扱いを受けていて,その辺の事も書かれてます。
わたしがよく見るページはマンガとかアニメファンが多いので,基本的には秀峰氏よりも雑誌社の行動に批判的ですが,わたしは秀峰氏が描いた内容にもかかわらず,雑誌社のやったことにも一理あるな,と思うところが結構ありました。特にセリフを書き換えたり,監修者をつけたりとかいうのは,トラブルを避けるという会社としては当然の行動だと思います。もっともそれに対して名前をさらして仕事をしてるのは自分だといっている秀峰氏の言い分も納得できるものですが,まぁ会社というのはそういうものです。原稿料も経費を作者の要求通りに認めていたら立ち行かないでしょう。本人の知らないところでキャンペーンをかけたりムック本を作るのも経営という観点ではありうるでしょう。
ただ,真実はわかりませんが,編集者や雑誌社が秀峰氏を事前に納得,もしくは説得できなかったのは,編集者達の落ち度だと思います。そういう意味では,編集者がきちんと仕事をしてないように読めます。
仕事をする組織というのは,実際に作業をしている人以外に大量の人がいます。そういう人がいる理由は別に仕事を手伝うためじゃなく,作業をする人が仕事を進めるにあたり起き得る色んな障害を取り除くためにいて,本人がそういうのをストレスに感じないようにするのが仕事です。外部からのトラブルを避けるために内容を書き換えたり,エクスキューズを書いたり,また費用を捻出できないとかいろいろあるでしょうが,それを本人にうまく伝えることこそが仕事でしょう。きっと結果的に同じ仕打ちを秀峰氏が受けていたとしても,うまくやれば,本人は納得,納得いかないにしても我慢できたかもしれません。
まぁ,でもこの編集者の仕事の悪さは反面教師として参考にしないといけないなとも思いました。
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学校で習うことは役に立たないに対する違和感

2009-02-25 22:38:34 | 社会
時々聞くに,「学校で習うことは社会に出ても役に立たない」という人がいますが,わたしには違和感があります。わたしの実感とは合いません。
学校で習ったことが役に立たないという人は,何が言いたいのでしょうか?。
「学校では勉強ができないと評価されたけど,自分は社会では困ってないよ」と言いたいのか?。「自分が今役に立てている能力は全部独学で身につけた」と言いたいのか?。それとも逆に,「学校では成績優秀だと言われたけど,今の自分は社会では役立たずだ」という意味でしょうか?。
わたしの実感では,漢字の読み書きだって,九九だって,面積の求め方だって,移動の所要時間や速度の求め方だって,温度とかの意味やカロリーとかだって結構普通の生活で役に立ってます。県や国の名前も知らないと苦労すると思うし,学校で習ったことで知らないと苦労する事って多いと思うけどけどなぁ。中学や高校の勉強だってだって,まぁ理系は自分が技術系の研究やってるから役に立ってるのは当然として,文系の授業だって,歴史知ってると大河ドラマみても楽しいし,海外にいって観光地をみても楽しい。憲法とか全然知らないと国会の話とかを聞いてももっとチンプンカンプンだろうなぁ。
もちろん中高以降の勉強については知らなくても生きていけるし,生きている人はいるのかも知れないけど,読み書き算数が役に立って無い人ってどれくらいいるんだろう?。また学校にいかなくて,独学や塾で身につけた人っていうのもいるんだろうけど,そっちの方が世の中多いんですか?。もちろんそうだとしても学校で身につけられるんだったら,そっちの方が効率良くないか?どうせ小中は義務教育なんだしと思います。
いやそうじゃなくて読み書き以外にたくさん習ったけど使ってないことあるでしょ?といわれるかもしれませんが,別に学校に限らず,普通は自分が人生のうちに覚えたことって直接使うのは数割じゃないかしら?。でもそういう直接使わない部分が「引き出し」とか「糊代」になるんだと思います。
ちょっと話が変わりますが,パソコンとかを使いこなす能力というのが,今の学校(の授業)であまり評価されない,という話を読んだのですが,確かにパソコンは,今は学校でも教えるんでしょうけど,わたしはこれは「技術」だと思うし一般性がそんなに高くないので,読み書きに比べると,重要度が低いかもしれません。基礎学力というより,ツールですよね。ソロバンとか物差しの類いでしょう。
ソロバンや物差しは数学や物理を勉強する上では必要(有用)ですが,数学や物理そのものではありません。10年20年たっても必要な知識かというと疑問だということです。わたしの20年前はコンピュータを使うというとBASICやUNIXでしたし,LaTeXの時代もありました。emacs lispとかも。
これらを身につける過程でコンピュータを使いこなす思考法を身につけることは重要ですが,BASICの知識自体は今は殆んど役に立ちません。今のパソコンを使いこなす能力だってこうなる可能性があります。ワープロやスプレッドシートを使いこなすとかWebで検索する能力とか,もしかしたら10年後には全く違った概念でコンピュータを使う必要が出てくる可能性だってあるでしょう。ですから,評価するとしたらツールを使えることよりも,コンピュータのより一般的なところを理解できているか?というところではないでしょうか?。
余談ですが,絵を描いたりするのは,確かに技術ですが,絵を描くことによって身につく美的センスはいろんなことに応用が効くと思うので,やっぱり教育にはふさわしいと思います。音楽も。
まとめると,わたしは学校の勉強はそれなりに役に立つから,まぁまじめにやっておいたほうがいいよ,と。もちろんそれに落ちこぼれたからっていってリカバーができないわけではないので,落ち込む必要はないですけど,役に立たないと言い切るのはどうかな?と思います。
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発言力を得ること,正しく使うこと

2009-02-21 22:58:32 | 社会
村上春樹氏がエルサレム賞受賞式でガザ攻撃を批判したというニュース。
村上氏がエルサレム賞を受賞したというニュースは先月から聞いていて,Webとかでも賛否両論というか,受賞受けることとか受賞式に行くことに対して否定的な意見,それに対する反論をいくつか読んでました。受賞に行く前にTVでもどこかの団体が反対していたというニュースが流れていて,話が大きくなってるなぁという印象でした。
結果的に村上氏は受賞は受けたけど,しっかりエルサレムへ行ってガザ攻撃を批判するというかなり勇気がある行動をしたと思います。
…と書くのは簡単ですが,わたし自身は村上氏の作品をまったく読んだことがない人なので,まぁこれ以上どうこういう事は出来ません。ただ村上氏のファンは結構多いし,今回のファンの議論とかを読んでいても,たぶんしっかりとした考えに基づく行動であったのでしょう,と思います。
で,どうしてこの話題を取り上げたか?というと,わたしは今回の話を聞いて村上氏が持っている発言力の強さを感じたからです。その発言力はおそらく村上氏の作り出した作品の成功によるもの,また作品の内容によるもの,そして彼の普段の言動とかにもよるものかもしれません。わたしは彼のこれらのものを知りませんので,想像で書いてますが,周りの反応を見ていると,発言力があることだけはよくわかります。
世界の情勢,社会についていろいろ語る人というのは,今のブログ主体の世の中では山の様にいます。気軽に物事を語る人もいれば,しっかりいろいろ調べて意見を持って文章を書いている人もいます。でも,どんなにその文章の質が高くても,その発言が世の中に影響力を持つには,それ以外に,その人自身がもつ影響力が必要で,それを持つためには,長い時間をかけて,その人が何かの仕事で成功しなければいけないということなのだ,と思いました。
人が何のために成功を望むかというと,お金のためだったり,名声だったり,異性に持てるためだったり,作品を後世に残すためだったり…いろいろ人それぞれだとは思いますが,わたしは自分の発言の影響力を高めるため…というのが実は結構,そういう成功欲の根本にある気もします。発言力だけあれば,お金やモテがなくても意外に人は満足を得られるかもしれない…,などと思うこともあります。
なんとなく普段からそういうことを思っていたので,今回村上氏がまさに経済とか政治とかとは別のところで大きな発言力を手にしていて,それを非常に正しい使い方をするために,エルサレムまで行ったのだなと感じました。
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「普通」が作る世界

2009-02-08 21:52:18 | 社会
ちょっとデリケートな話なんでリンクはしませんが,ネットで障害がある人を普通高校に入れてほしい,テストの点数が合格点じゃなくても入れてほしいと願う人が文章を書いていて…,ちょっといろいろと思いました。
こういう問題は当事者じゃないので,よくわかりません。家族が障害を持った子供を普通の人と一緒の環境で育てたいという気持ちはわからないでもないけど,子供本人にとってそれは幸せなことなのか?。また一緒になったクラスメイトにはどうなのか?迷惑なのか?それともそういうのはいい経験になるのか,いろいろ考えられて,どれももっともだと思います。だから,特定のケースにはどうこう言えても制度としてこうあるべきというのは決めにくい。ただし制度がないと,一人でその制度に外れたことをするのは難しいとも思います。
その件について,何か答えを出そうとは思わないけど,一方で「普通高校」という言葉が気になりました。普通高校と言うから普通の高校に子供を通わせたいと思うのかしら?。世の中に普通高校なんてなくて,さまざまな色んな高校があって呼び名もさまざまだったら,普通高校に行かせたいと思うのだろうか?と。いや,障害者と健常者を分けていれば,どういう名前だろうが,健常者が行くところが,障害者のとっては「普通」学校だと言うことなんだろうけど。
こういうことを思ったのは,「普通高校」はあっても「普通大学」はありません。まぁ大学全入時代が来てるし,専門大学も合併して総合大学が増えてるから,もしかしたらそういう大学が「普通大学」になるのかもしれないけど,じゃぁ普通会社,普通職場っていうのがあるかというとやっぱりない。社会に出たら,もちろん障害者ということでの苦労は多いとは思うけど,健常者もいろんな意味で人と差別や区別をされて生きていく必要があります。もうそこには「普通」というものはなくて,それでもあるという幻想がなんとなくあって,そんなものの様な気もします。
わたしはだいぶ前に,世界は一様に均等であるよりも,できるだけ細かく分かれていて,それぞれの中で異なる価値観で運用されれば良い,そして人々は自分の好きな価値観の世界に所属し,そのメンバーとして貢献すればいい,と考えていたことがあります。実現は難しいと思いますが,今でもその考えはあまり変わってません。人は一人では生きられなくて,どこかのメンバーや権威に寄り添うことで楽になると思うのだけど,その価値観についていけない人が必ずいるわけで,そういう人は無理してそこに所属するのはしんどいだろうと?,そんな風に考えたりしてます。
わたしは人ががんばるには,競争や評価はあってもいいとおもいますが,そこで劣等感を感じる人も,別の尺度や価値観でなにか満足を得られれば良いと思います。
多様な価値観があったほうがいいと思ってるので,「普通」という概念自体に抵抗を覚えるのです。。
元々この文章を書いたきっかけが障害者がらみの文だったので,多様な価値観ということがその人たちに生きる場を与えることになるのかどうかは良くわかりません,というか逆に一部の人を別の世界に押し込むことになるのではないか?という危険性もあって,だから,デリケートな問題だとは思うのですが,やっぱり「普通高校」とかいうから,まるでそこに「普通」というものがあって,そこにいけないのは「普通じゃないみたい」に思うのかな?と思ったりしました。

あっ,そうそう。自動車の免許って「普通免許」って言うんですよね。変ですよね。「普通」って言葉,結構行政用語でよく使われますが,なんか変な響きを持ってるよなぁと思います。あんまり使わないほうが良いんじゃないかなぁ?
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ホンダとバイクと日本

2009-01-31 09:11:39 | 社会
ホンダのS2000が生産終了というニュースを読んで,へー,一回くらい乗ってみたかったなぁ…とか思いました。
それはいいんですが,今日,ふと数年ぶりにホンダのページを観て,そこのバイクの全ラインナップを見て驚きました。なにこの「生産終了」ばかりのラインナップ?。
バイクに乗らなくなって7,8年くらい経つんでしたっけ?。最後に買って10年以上経ったと思いますが,その間,バイクメーカのラインナップを全然チェックしてませんでした。街を走るバイクを見てると,スポーツバイクが減って,レトロなバイクとかスクータが増えているのはわかっていたし,バイク自体の量が減ってるというのは感じてましたが,わたしの意識では世界一のバイクメーカであるホンダのラインナップがここまでさびしいことになっているのに驚きました。生産終了もそうですが,それを入れてもわたしが10代とか20代のときと比べて,たぶん半分以下,いや四分の一くらいしかモデルの種類がないように思います。しかも今日観たページの生産終了は,どうも今年度終了になる様に思ったのですが,今年度さらにモデルの種類が減ったということでしょうか?。
もしかしてホンダって今,危ないってことなの?と思ったのですが,どうでしょうか?。
世界のバイクの四大メーカというと,ホンダ,ヤマハ,スズキ,カワサキの日本の四メーカで,つまり日本が世界のバイクをリードしていたはずなのですが,もしかしたら他の国にその座を渡そうとしてるのでしょうか?。
そんなことを思いました。いや,バイクファンの皆さんにはもう当たり前のことなんでしょうけど…。アメリカやヨーロッパのバイクメーカが数種類しかバイクを作ってない…とかいうのと,日本のメーカも同じになるのかしら?。ついでに書くと,最新のバイクでも10年前の最新のバイクと,たいして進歩してないようにも見えるんですよね。なんかいろいろとさびしいものを感じました。やっぱり車とかバイクって,もうテクノロジーを感じるものじゃないのかなぁ。とほほ。
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素人の牽引

2008-12-19 20:42:35 | 社会
レジデント初期研修用資料さんの「専門家は結論を出せない」というのを読んで,あぁそうだよなぁ,という気がしました。確かに専門家が集まって,アーダコーダ言っていても結論がでないことは多々あります。そしてそういう状況を打破するには確かに素人に権限を持たせてつれてくればいい。そうすると何かが大きく変わります。
それについて弾さんは,素人が専門家を引っ張ったほうがいい三つの理由を挙げてます。専門家が素人のためにいるというのは,あまり同意しないのだけど,最後に専門家の力量を上げてきたのが素人ということについては思い当たる節がたくさんあります。
というかわたし自身が経験上,素人であるえらい人に振り回されて,良かったことが何度もあるからそうおもうのです。良かったといっても,良い思いはせず,やってるときは結構最悪な感じなのですが,振り返るといろいろと結果を残せたとかそういうことです。
わたしはとある技術の専門家ですが,同僚として同じ分野の専門家がたくさんいる組織にいます。そうすると,やっぱり視点が狭いというか,一つのことの深いところばかり見てしまう。やる前に,結果を想像して,可能性がひくことをやりたがらないとか,まぁいろいろあるのですが,そういうときに,その分野に対して素人である人がトップでやってきて,いろいろと要求条件を挙げてくる,われわれはそれを無下に出来ないから,いろいろ苦労しているうちに,自分達が思っていた以上のことが出来てしまう,という経験を何度もしてます。
素人は無茶な要求をするのですが,本質的なことをストレートに要求する場合が多いです。専門家の方が,些細なことにこだわったり,なんだかんだいって,自分が興味があることにもって行きたがったりします。素人が掲げた方向性が結構無茶な場合でも,結局専門家がわきを固めるので,意外になんとかなったりして,結果的に状況が好転することが多い。本当に出来ないような要求を挙げてくる場合もありますが,その場合は専門家も必死になって,それが無理なことを説明する。そうすると本当は何が障壁になっているのか明らかになったりするとか,素人でもわかるように説明するとか,それはそれで意味があるわけです。
というわけで,素人が専門家を使うというのは,いいことが多いので,実際いろんな組織でやられてるとは思います。まぁでも,素人に使われている専門家は,まぁ大変でちっとも楽しくなかったりするのですよ(苦笑)。だからそれが嫌だったら,やっぱり専門家の中で素人にわかるような結論をしっかり出すことなんでしょう。
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日本型成長は特殊なのか?

2008-11-13 17:45:50 | 社会
先日ふと演奏系の音楽雑誌を見ていました。そこには,管楽器とか弦楽器の広告が載っていて,まぁ大体ヤマハとか,ヤナギサワとか,そういうのなんですが。元々ピアノにしてもラッパにしてもギターにしても西洋の楽器で,中学生のブラバンレベルの知識で申し訳ないのですが,金管ならバックとかサックスだとセルマーとか,ピアノだとスタンウェイとか,生ギターだとマーティン,エレキだとフェンダーとかギブソンとか,まぁ代表する楽器はそれぞれです。でもヤマハとかはそのほとんどを出しているんですよね。で,日本人が勝手に思ってるだけかもしれませんが,まぁまぁプロでも使えるレベルのものを出してます。
これってすごいですよね。明治に入って,西洋の楽器を真似して作るようになって,そして100年ちょっとで,まったく同じレベルとまではいかなくてもそこそこのものを作ってしまったわけです。
楽器だとそうですが,家電とか車とかだって西洋のを真似して初めて,ある意味追い越しているものもあるわけです。バイクとか世界の四大メーカは日本です。日本の家庭に並んでいる家電や楽器,車,台所用品とか服とか靴とか,ほとんど西洋の文化のものですが,ほとんど日本製もしくはメイドイン中国とか韓国もありますが,つまり日本製のものをそろえてもなんら西洋と遜色がありません。
だから,日本人が考える西洋化とか先進国化というのは,こういうテクノロジー分野でいうと西洋にある製品を西洋と同じレベルで作れることを指し,それを使って生活することを指します。でもこういうことってこれから後にやってくる発展途上国どこでも可能なことなんでしょうか?。今,中国とか韓国とか車とか家電をどんどん開発してます。西洋とか日本に追いつこうとしていると思います。彼らはいつか追いつき追い越すのでしょうか?。そうしたら日本の車や家電は不要になるのでしょうか?。
実はどうもそれはそれで変な話の様な気もします。世界中で車を作っても仕方ないように思います。
なんか違和感を感じたのはもともと楽器なので楽器に話を戻すと,車や家電と違って,こちらはいまだに完全に西洋を追い越してません。なぜなら西洋楽器は西洋の文化のものだからです。つまり利便性とか機能の問題ではなく,西洋にある楽器が基準だから追い越すことが出来ないわけです。だとすると真の意味で西洋の楽器メーカを日本が追い越すのであれば,西洋にない楽器を世界に広めなくてはいけません。今のところ一部の電子楽器とかだとそういう部分はあります。でもまだまだほとんどありません。
本当はどこかの製品を真似して追いつけとやってるうちは,まだまだ先進国ではないようにも思います。あと同じところを目指すのであれば,結局一番は一人ですから,パイの奪い合いになるわけです。それぞれの国がそれぞれ独自の得意分野を持ってすみ分けるのが本当はいいんでしょう。
でも日本はほとんどの工業製品の分野で西洋を真似して,いつの間にか追いついたり追い越したりしていました。だから,今日本の後から来る国たちもきっとそういうのを目指しているのではないでしょうか?。でもみんながみんな日本と同じような「西洋に追いついた感」を感じることは出来るのでしょうか?。
ちなみに日本は工業製品では追いついたかもしれませんが,なにも文化を発信してきてないので,文化では全然追いついた感がありません。服のブランドとかほとんど西洋のものばかりです。今ようやく日本発の文化が西洋に認められようとしてますが,それがマンガとアニメだったりするあたりが面白いと思います。
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消費者庁

2008-10-18 18:54:54 | 社会
数日前からこんやくゼリーが話題になっていたのですが,個人的にはこんにゃくゼリーを好んで食べるわけではないので,どうでもいいといえばいいと思ってます。ただ,漠然とそこまで国が面倒を見るべき問題なのか?とか,食べ物をのどに詰まらせて死ぬことをメーカが保障すべきなのか?という疑問はあります。とはいえ,関心がないといえばないのですが,こんにゃくゼリーが消費者庁設立のきっかけと書かれているのを見て,消費者庁ってそういうことをやるところなのか?と思うとげんなりします。
そうこう言ってるうちに,また中国製冷凍野菜で被害にあった人がいて,さすがにこういうのは行政が監視とか取締りとかしてもいいんではないか?,であれば,消費者庁の存在意義があるのか?という気はします。
わたしの中では,大人が食べたら安全なものをで,使用上の注意をすれば問題ないもので事故が起きるのと,食べ物を食べたら毒薬で死ぬというのは,規制のあり方は根本的に違うと思うのですが,普通はそう思うわないのでしょうか?。後者はしっかりやってほしいし,他にも薬品とかの扱いで消費者に危険が及ぶものは国が面倒を見てもいいでしょう。
ただ消費者庁が,こんにゃくゼリーのもののあり方まで指導する組織と言うことになると,何だろう?という感じです。
なんというか,最近は自己責任の逆というか,何でも国のせいにするのが流行っているのか,先日はTVで株価が暴落して,株で損をしたのをあたかも当人は悪くないかのように報道してしてました。さらに高齢者医療で天引きが始まったと批判気だったのだけど,天引きがいやだという人は踏み倒そうとでも思っていたのでしょうか?。まぁ払い込みに行ったときに銀行のお姉さんとしゃべるのが楽しみだったとかそんな感じ?。高齢者の気持ちを踏みにじるとかいってる人がいましたが,行政なんて市民の気持ちを踏みにじるものでしょ?という気持ちもあります。
最近の行政とか国会の話を見ていると,どうも行政が国民におべっかを使って耳障りがいいことをいうのに一生懸命な気がします。なんでも感でも至れり尽くせりで,ますます国民は頭を使わなくてもいいですよ…といわれているようなそんな感じ。そういえば,今日はおれおれ詐欺対策で,警官とかがATMに張り付いていたそうですが,それも含めて,そこまでするのか?とか。
普通に考えれば,そういうのはサービスがいいとは言わなくて,何かだまされているような気がすると思うものじゃないでしょうか?。頭を使わずに生活でき,自分で自分の食べ物さえ選べずに,気がついたら物事に文句を言うだけで,自分で判断できない人が増えていく…という様になっているのではないか?文句を言ってるようで,実は肝心のことは知らされずに,気がついたら,誰かに都合がいいような世の中になってるような気もします。
そういう気持ち悪さを感じるんですよね。消費者庁というのが,まるでよろず相談所みたいにみえて,つまり単なるガス抜きではないか?どうも胡散臭い組織の様に最近感じています。
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世間のいじめのヒエラルキー

2008-10-01 09:03:07 | 社会
中山元大臣の発言はひどくて,どこにも賛同しません。でも当人は単一民族とごね得の件は訂正したのですが,日教組の話は否定せず,まぁ彼には何か思うところがあったようです。その信念に従うかどうかは,選挙区の有権者が判断すればいいと思います。
ちょっと話がそれますが,日教組というと,わたしが高校のとき日教組の先生達がストライキを良くやっていたので,当時はいい印象ありませんでした。学校に行ったら先生がストやっていて,別の日に補習とかやらされましたから。今になってみたら,先生も労働者の権利とかあるので,組合活動をするのも当然のように思いますが,まぁ当時は学生だったので…。でも皆さんも例えば電車がストしたりして通勤に影響がでたら,ろくでもないなぁ…と思うでしょ?。でもない?:-p。

と,これは余談でしたが,本題は,そういえば,ちょっと前は先生たたきを世論(*ここでいう「世論」は実態がないのですが)はやっていたと思うのですが,今度は先生の悪口を言った政治家を叩くんだ…と思ったことです。大分の不正採用の話は良く知りませんが,日教組というより教育委員会のほうの問題なんでしたっけ?。その辺をきちんと区別して日教組への攻撃を言いがかりだと思っていたのかはわかりませんが,なんか世論が教員の悪口を言うのはいいけど,政治家が教員の悪口を言うと政治家が叩かれるのねと,そういうことを思いました。普段世論は役人の悪口をいいますが,政治家が役人の悪口を言うと,世論はどっちの肩を持つのかしら?。
なんとなく大臣←議員←官僚←(教員・警察)←公務員←医者←(公共サービスの職員・経営者)←←←(世論)みたいな感じで文句を言いやすいようなヒエラルキーがあるんじゃないか?とかそういう気がしてきました。いや,順番はかなり適当なんですが…。
で,文句を言う人はいつも自分を最右翼の「世論」の様に思っているのかもしれませんが,いつ自分がこの左側に入れ込まれるかわからないというのが,つまりいついじめるほうからいじめられるほうに入るかわからないという日本のいじめの構造に類似してるよな,と思いました。

いや,冗談なんですけどね。
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幸せな年寄りが自分の未来に見えない社会

2008-09-23 18:26:41 | 社会
自分がいる会社は会社を退職したOBとかと懇談会とかをやることがあり,そういうのをみてると,OBに本当に手厚い会社だなぁと思います。また制度とかを調べても会社の福利厚生もものによっては退職しても利用できるものがあったり,そういう意味では退職したらハイさよならではなく,ある意味死ぬまで面倒を見てくれる部分もあります。
こういうことをやっているのを若い人に見せたら転職しようとか思わないのでは?と思ったりもしますが,そうでもないのかな?とも思います。というのは,いま日本の社会で,ご老人が年金とか医療で不平を言ったり,別の部分で優遇されているのを聞くと,若い人はもっと大変で,年寄りが優遇されるのは,すこしずうずうしくないか?とかそういう感情が少し湧き出てきます。
つまり,今の日本は,お年寄りが幸せに暮らしていても,「自分が歳をとったときに同じように幸せに暮らせるだろう」という風に思えないということなんでしょうか。だからお年寄りの幸せに何か僻みを感じてしまう。会社の先輩を見ていても,自分達が年寄りになったときに,今の会社は存続しているのだろうか?とか少し感じてしまいます。
こういう風に感じるから,福祉はうまく行かないし,そういう風な意識にまだまだなってないということなのかもしれません。歳をとるにしても,病気になるにしても,そういう状態が,いずれ自分にもやってくると思ってないから,そういう人が優遇されると僻みを感じるのかもしれません。また,今のお年寄りが,若いときに,今の自分よりいい暮らしをしていたという思い込みがあり,若いときもいい想いをして,今もいい想いをするのかよ,みたいなものがあるのかもしれません。でも実際は今のお年寄りの若い時代は,成長はあったかもしれませんが,今よりも経済は悪かったし,病気や犯罪や公害ももっと多かったはずです。実は昔は良かったというのは思い出の中の幻想で,実際はそうでもなかったようにも思います。
というわけで,そういう部分に世代の断絶感を少し感じ,やっぱり年寄りの幸せは自分の未来の幸せであるという風に感じられないと,なかなか福祉社会になるのは難しいのだなと思います。北欧とかそういう意識になってるんですかね?。そうならないのは,何がまずいのでしょう?
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