昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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イタリア旅行No.16 フィレンツェ、「オルサンミケーレ教会」の守護聖人像

2011年01月20日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、「ヴェッキオ宮殿」、「シ二ョリーア広場」を見た後、次の「ドゥオーモ」(花の聖母大聖堂)へ向いました。



「シ二ョリーア広場」から北へ、カルツァイオリ通りを「ドゥオーモ」へ向って歩いていると左手の建物にブロンズ像が飾られている建物がありました。

一般の建物になぜ彫像が飾られているのかと、一瞬疑問に思う様なたたずまいの「オルサンミケーレ教会」です。

ブロンズ像が飾られている壁面の窪みの名は、「壁龕」[へきがん]で、教会などでよく見かけました。



建物に向って左にあるブロンズ像は、フィレンツェの守護聖人「洗礼者ヨハネ像」です。

「洗礼者ヨハネ像」は、当時フレンツェで随一と言われた芸術家ロレンツォ・ギベルティが毛織物商組合の依頼により制作したものです。

13世紀頃からフィレンツェは、様々な同業者組合(アルテ)の代表で構成される平民政府が統治する時代になっていました。

1404年に再建された「オルサンミケーレ教会」の建物外周の壁には14ヶ所の「壁龕」[へきがん]が計画され、費用負担と、制作責任を同業者組合(アルテ)へ割り当てたようです。

又、各同業者組合(アルテ)では、それぞれに自分達を守護する聖人が決められていたようで、その聖人の像を当時の芸術家に注文して作ったものです。



中世フィレンツェの中心地、南の「シ二ョリーア広場」から北の「ドゥオーモ」の範囲の地図です。

「シ二ョリーア広場」から北へ向う赤い矢印のある道が「カルツァイオリ通り」、通りに面した赤い場所が「オルサンミケーレ教会」です。

又、「オルサンミケーレ教会」の少し北の四つ角から西に行くと「レプブリカ広場(共和国広場)」や、赤い□印の場所には凱旋門があります。



「カルツァイオリ通り」に面した「オルサンミケーレ教会」の中央部分です。

この教会には「奇蹟の聖母」と言われる不思議な伝説がありました。

750年から1240年までの約500年間、この場所には「サン・ミケーレ礼拝堂」が建ち、その後、穀物市場になっていたようです。

穀物市場のロッジャ(開廊)の石柱に描かれた聖母像による奇蹟が始まったのは1292年頃からだったそうです。

フィレンツェでは病や怪我が治り、手足の不自由な人も元に戻るなど、町から疫病がなくなったと伝えられています。

その後の火災で「奇蹟の聖母」が消失、1337年に教会は再建されたそうです。

1404年に教会の2・3階を増築して非常時用穀物倉庫としたようで、同業者組合の守護聖人が作られることとなったのがこの時期だったようです。



建物中央の壁龕にあったブロンズ像で、ヴェロッキオが商事裁判所の依頼で制作した「聖トマスの不信」(1483年頃)の像です。

新約聖書に出てくる場面で、復活した「イエス・キリスト」が、イエスの復活が信じられない弟子の一人「トマス」へ磔の時に刺された脇腹の傷を示し、「信じる者になりなさい」と語りかけている場面です。

当初、この壁龕にはグエルファ党が依頼し、ドナテッロが制作した大理石像「トウールーズの聖ルイ」(1423年頃)があり、その後壁龕が商事裁判所へ売却されたようです。



1601年にジャンボローニャが法律家・公証人組合の依頼で制作したブロンズ像「聖ルカ像」です。

この像は、通りに面した壁の向って右にあるで、元はニッコロ・ランベルティが制作した大理石の「聖ルカ像」(現在パルジェッロ国立美術館保存)があったようです。

建物が出来た時代、ブロンズ像は非常に高価で、当初は裕福な毛織物商・両替商・毛織物業の三組合だけだったようです。

さすが、中世から毛織物の生産と、金融で発展したフィレンツェです。



壁龕の横の壁、四ヶ所にこんな飾りが付いていました。

同じ大きさのものですが、それぞれデザインが違っていましたが、いずれも人物像です。



建物の上を撮った写真ですが、三階建ての二階までが写っています。

簡素な建物ですが、壁の飾りがおしゃれです。



壁にフィレンツェの紋章がありました。

百合の花(実際はアイリスの花)をデザインした紋章「フルール・ド・リス」で、中世から国際的通貨として知られるフィレンツェの「フィオリーノ金貨」を連想しました。

「フィオリーノ金貨」にはこの百合の紋章と、フィレンツェの守護聖人「洗礼者ヨハネ」の像が刻印されています。

1252年、平民政府が始まったフィレンツェでは、ヨーロッパ各国に先駆けて純度の高い「フィオリーノ金貨」を発行し、ヨーロッパ各地で高い信頼を得たようです。

毛織物の原料の羊毛をイギリスや、スペインから仕入れ、製品をヨーロッパ、地中海諸国へ販売する広域決済のために考えられたのでしょうか。

金貨は約3.5グラム(5円玉とほぼ同じ)と小さなものだったようですが、フィレンツェの金融業が発展し、ヨーロッパ各地に支店を有するメディチ家などを輩出する基礎になったようです。



「オルサンミケーレ教会」を通り過ぎ、次の四つ角で左を見ると「レプッブリカ(共和国)広場」の凱旋門が見えていました。

1865年から1871年、フィレンツェが統一イタリア王国の首都になった時期があり、その頃に造られたようです。

城壁の大半が撤去され、外周道路となったのもこの頃で、貴族の宮殿や、教会建物の多くも政府機関で使用されたようです。

遷都では、人口約12万人のフィレンツェの町へヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王室約2.5万人が移住することなり、住宅、政府建物の確保は実に大変な準備だったものと思われます。

その後数年で、首都はローマへ遷都されましたが、住民の大きな反対運動もなかったようで、町の落着きを取戻した安堵感がうかがえるようです。



「レプッブリカ(共和国)広場」に立つ高い円柱「豊饒の柱」の上にドナテッロ作「豊饒」像がありました。

これは女神の像でしょうか?

紀元前の古代ローマ時代、フィレンツェは、ローマ帝国の植民都市だったそうで、その時代の町の中心がこの柱の場所だったようです。

古代ローマの都市の設計では、東西、南北、二本の大通りの交差点(フォルム)を中心として町が造られたとされ、円柱の場所が交差点だったようです。



凱旋門の上に書かれていた文の意味が分からず、気になって資料を探してみました。

■「図説フィレンツェ」中嶋浩郎著 河出書房新書より
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太古の市の中心は
長い荒廃の時を経て
かつての栄光を取り戻した
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「太古の市の中心」とは、二本の大通りの交差点(フォルム)のことで、「長い荒廃の時を経て」とは広場が穀物市場に転用されていた時代のことと思われます。

「かつての栄光を取り戻した」とされるこの広場も凱旋門が完成した時には、既に首都はローマに遷都されていたそうです。

通りすがりで見たこの広場にも長い歴史が刻み込まれていました。