昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

イタリア旅行No.18 フィレンツェ 「花の聖母大聖堂」大円蓋の建設

2011年01月31日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、フィレンツェのドゥオーモ「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母大聖堂)」へやってきました。



フィレンツェ「花の聖母大聖堂」のファサードを見上げた風景です。

そびえ立つ巨大なファサードに圧倒されます。

フィレンツェは、毛織物産業の発展で1200年に2.5万人だった人口が、1300年頃には10万人に迫る急成長だったようで、パリ・ヴェネツィア・ミラノ・ナポリと並ぶヨーロッパの五大都市の一つになったそうです。

1296年、手狭になったサンタ・レパラータ大聖堂の場所に新たな大聖堂の建設が計画され、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオにより着工されました。

その後、アルノルフォは数年で死去、1334年後任に選ばれたジョット・ディ・ボンドーネも1337年頃に死去、弟子のアンドレア・ピザーノ(隣の洗礼堂南扉の作者)が引継ぎました。

そして1359年、次に引継いだフランチェスコ・タレンティによりクーポラ部分を除く建物が完成されました。

しかし、残っていた工事は、高さ約50mの建物の上にポッカリと開いた、直径約40mの穴の上に巨大なクーポラ(大円蓋)を載せるもので、当時の技術では技術的に不可能と危惧されていたようです。



花の聖母大聖堂と、その地下に遺構が眠るサンタ・レバラータ大聖堂の平面略図です。

東西の奥行き153m、南北の幅90m、ファサードからの幅38mと大規模な建物で、高さ107mのクーポラ(大円蓋)が完成した1436年には世界最大の教会だったようです。

「サンタ・レバラータ大聖堂」の遺構は建物西側の地下にあり、比べて見ると現在建物の約三分の一の長さです。

「サンタ・レパラータ大聖堂」は、フィレンツェの守護聖人レパラータへの信仰から1128年に建てられたもので、現在のサン・ジョヴァンニ洗礼堂から大聖堂の機能が移されました。

405年、フィレンツェの町が東ゴート王ラダガイススの軍に攻められた時、聖女レパラータが現れて撃退した伝説から町の守護聖人とされ、その記念行事「サンタ・レパラータ祭」は今でも行われているようです。



「花の聖母大聖堂」のファサードの横に「ジョットの鐘楼」がそびえています。

四角形の平面の一辺が約15m、高さ約82mの塔の上には階段で上がることができ、眺めも良いようです。

「ジョットの鐘楼」は、1334年にジョットが着工し、フランチェスコ・タレンティによって25年目の1359年に完成されました。

ジョットは、着工後3年の1337年に亡くなり、鐘楼建設は弟子のアンドレア・ピザーノ(洗礼堂南扉の制作者)に引継がれました。

1350年にはフランチェスコ・タレンティに引き継がれ、三人の建築家により完成されたもので、鐘楼の名称は、設計・着工したジョットにちなんだものと思われます。



「ジョットの鐘楼」の後方にクーポラ(大円蓋)がそびえていました。

この大聖堂のクーポラ部分の工事は、ブルネッレスキにより、約15年の歳月をかけて完成されました。

1402年のサン・ジョヴアン二洗礼堂第2扉のコンクールで敗退したブルネッレスキは、延べ15年間ローマへ滞在し、古代ローマ時代の遺跡の研究から建築技術を学んだようです。

1420年、遂に大聖堂にクーポラ(大円蓋)を載せる工事のコンクールが開催されました。

コンクールの最終審査に残ったのは洗礼堂第二扉のコンクールと同様、ギベルティと、ブルネッレスキでした。

技術的な裏付けのない伝統的な木製の仮枠を使用するギベルティ案に対して、ブルネッレスキ案は、木製の仮枠を使わず、内殻・外殻の二重殻構造で積上げ、屋根自体で支持する工法を考え出しました。

1420年、最終的にブルネッレスキ案が採用され、ライバルだったギベルティを共同責任者として工事が開始されました。

しかし、ギベルティには画期的な建築技術が理解できるわけもなく、1423年には工事の全権をブルネッレスキ一人に委ねることになったようです。



クーポラ(大円蓋)を見上げた風景です。

数人の観光客が見下ろす茶褐色の屋根の上を見てもクーポラの巨大さが分かります。

ブルネッレスキは、効率的に高所へ資材を引上げる巻き上げ機を考案し、多額の報奨金を得たそうです。

歯車を複雑に組み合わせ、牛を動力とする機械だったようで、現代の建築現場にそびえるクレーンの原型ともいえるものだったようです。

東西の奥行き153m、南北の幅90m、ファサードからの幅38mと大規模な建物で、高さ107mのクーポラ(大円蓋)が完成した当時は世界最大の教会だったようです。

クーポラの頂上に見える十字架を載せた黄金の球は、更に30年後の1471年に設置されています。



大聖堂の主祭壇の前の風景です。

おごそかな祭壇の上に美しいステンドグラスが輝き、クーポラからやさしい光が落ちています。

着工から140年を経た1436年3月25日、完成したサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式が教皇エウゲニウス四世により行われました。

奇しくも教皇エウゲニウス四世は、前教皇派との対立で二年前からフィレンツェへ亡命しており、その晴れの席にはメディチ家のコジモ・イル・ヴゥッキオ(祖国の父)も列席していました。

1434年までのフィレンツェ共和国は、アルビッツェ家が実権を持つ体制でしたが、ローマ教皇庁の財務管理の業務で台頭するメディチ家を警戒して1433年に当主コジモが追放されました。

しかし、翌1434年にメディチ派によるクーデターが成功し、アルビッツェ家に対する教皇エウゲニウス四世の調停もあり、アルビッツェ派は追放されることとなりました。

メディチ家が初めて共和国政治の実権を持った時期でもありました。



高いクーボラを見上げた風景です。

周囲約40mの巨大な天井には神々しい「最後の審判」(フレスコ画)が描かれています。

八角形のクーポラの下に美しいステンドグラスの丸窓が輝いています。

八ヶ所の窓のステンドグラスにはロレンツォ・ギベルティや、ドナテッロなど聖書を題材とした作品があるようです。



天井に描かれたフレスコ画「最後の審判」です。

1572年からジョルジョ・ヴァザーリによって制作が始まり、その死後を引き継いだフェデリコ・ツッカリにより1579年に完成された作品です。

1541年、バチカン宮殿システィーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの最後の審判が完成した約30年後のことでした。

この大聖堂にフィレンツェ出身の巨匠ミケランジェロが描いた「最後の審判」の世界を再現させようとしたのでしょうか。



サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母大聖堂)のファサードの風景です。

意外にもこのファサードが完成したのは1887年だそうで、クーポラが完成した1436年から約450年後のことでした。

しかし、1059年に完成した「サン・ジョヴアン二洗礼堂」や、1359年に完成した「ジョットの鐘楼」と見比べてみてもまったく違和感がなく、美しい三色の大理石の壁が調和しているようです。

1296年、大聖堂の建設に着工したアルノルフォ・ディ・カンビオは、ファサードから始めて、下部はその頃に造られていたようですが、造り直すためメデイチ家のフランチェスコ一世により撤去されました。

何度かのファサードのコンクールが開催されたようですが、結局決まらないまま数世紀が過ぎて、19世紀になってしまったようです。



ファサードの上を眺めた風景です。

中央に見える像は、キリストを抱く聖母マリアのようです。

町の人々は、広場を見下ろす聖母マリア像を見上げと、見守られている安堵の気持ちを抱いているのでしょうか。

ここファサードは「花の聖母大聖堂」の顔のようです。



ファサードに向かって左側の屋根にミケランジェロのダビデ像が飾られていました。

当然、本物ではないようですが、すぐに目に入ってきました。

ダビデ像は、ミケランジェロ広場や、シ二ョリーア広場で見ましたが、これで三体目です。
 
やはりダビデ像は、フィレンツェの町の象徴のようでした。



「花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)」のファサード前のドゥオーモ広場の北側に十字架が載せられた丸い柱が立っていました。

この柱は、フィレンツェの守護聖人の一人ゼノビウス(サン・ザノービ)が起こしたとされる奇跡を記念して建てられた柱です。

聖ゼノビウスは、フィレンツェの初代司教で、サン・ロレンツォ教会に5世紀初頭に埋葬されていた遺骸を新設のサンタ・レバラータ大聖堂(現ドゥオーモの場所)へ移す時にその奇跡がおこったようです。

運ばれていた聖ゼノビウスの棺が群衆に押されて檎[にれ]の枯木にぶつかると、木はたちまち生き返って緑の葉が茂ったそうです。

その檎の木があった場所がこの場所で、柱の中段を見ると葉が茂った木が描かれていました。

毎年、奇蹟が起きたとされる冬の1月26日には、この柱に花輪が飾られるそうです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。