11/12 イタリア旅行4日目、「オルサンミケーレ教会」を過ぎ、いよいよ「ドゥオーモ」へ近づいてきました。
カルツァイオリ通りを北へ進み、右手に見えた「ジョットの鐘楼」と、「ドゥオーモ」です。
古代と近代が入り交じったようにも感じる多色大理石の壁が現れた時、不思議な感動を覚えました。
フィレンツェ、「ドゥオーモ」付近の中世の絵地図です。
右下の「オルサンミケーレ教会」から赤い線をたどり、「ドゥオーモ」へ向かいました。
進行方向右手に「ジョットの鐘楼」「ドゥオーモ」と並び、その向いに「サン・ジョヴアン二洗礼堂」があります。
サン・ジョヴァンニは、フィレンツェの守護聖人「洗礼者ヨハネ」の名前だそうです。
「ジョットの鐘楼」を背に南東側から見た「サン・ジョヴアン二洗礼堂」です。
建物に向かって左側に南扉、右に東扉が見えます。
壁の白・暗緑色・ピンク三色の大理石で構成する幾何学模様は、その後建設された「ジョットの鐘楼」や、「ドゥオーモ」の壁にも同じ仕様とされたようです。
北西側から見た「サン・ジョヴアン二洗礼堂」です。
建物に向って左の扉が北側で、右の少し突き出た所が西側で、後方に「ジョットの鐘楼」がそびえています。
紀元前1世紀の古代ローマ時代、この場所には軍神マルスの神殿があったと言われています。
四世紀頃になると神殿の上に聖堂が建てられ、九世紀には大聖堂として使われるようになったようです。
1128年、大聖堂は町の人口増加で手狭となり、隣接地に「サンタ・レパラータ聖堂」が建てられ、施設は洗礼堂として使われるようになりました。
又、「サンタ・レパラータ聖堂」の上には現在の「ドゥオーモ」が建てられており、この辺りには、フィレンツェの中心地だった長い歴史がありました。
「サン・ジョヴアン二洗礼堂」の平面図です。
八角形の建物で、西側が祭壇、北・東・西の三ヶ所に扉があります。
当初、木の扉でしたが、その後青銅に金が塗られた扉に換えられています。
南の第1扉は、1336年にアンドレア・ピサーノが約6年をかけて製作し、当初は東の扉でした。
その扉には四つ葉と、菱形を組合せた28枚の枠に「洗礼者ヨハネの物語」などの浮き彫が描かれています。
北の第2扉、東の第3扉は、ロレンツォ・ ギベルティが1403年から1452年までの約50年間を費やして制作したものです。
これは1402年、洗礼堂第2扉の制作者をコンクールで決することとなり、最終審査まで残り、名勝負を演じた二作品です。
旧約聖書「イサクの犠牲」が主題で、向って左の作品がロレンツォ・ ギベルティ、右がフィリッポ・ブルネッレスキの作品です。
優劣を決めかねたコンクールの委員会は、共同製作を依頼したようですが、ブルネッレスキが辞退して ギベルティに決まったとされています。
14世紀のフィレンツェでは黒死病(ペスト)の大流行が続き、1400年には小さな町で死者1.2万人とすさまじいものだったようです。
洗礼堂第2扉の制作者を決めるコンクールの発表があったのは、その翌年1401年で、前例のない大きな話題性のあるイベントだったようです。
近代まで原因不明だった黒死病に対して、当時のフィレンツェ人々は洗礼堂にすばらしい扉を捧げ、ひたすら神に祈ろうとするものだったのでしょうか。
ツアーの人達と、北側の第2扉を見ている風景です。
1402年のコンクールで選ばれたギベルディの作品がこの扉です。
高さ4.9m、幅2.85mの扉には南の第1扉と同様、四つ葉と菱形を組合せたの枠が、ヨコ4列、タテ7段の28枚並んでいます。
ガイドブックで紹介されていた北扉の上にある三体のブロンズ像が見当たりません。
洗礼者ヨハネ像を挟んで信者のパリサイ人とレヴィ人が並んでいるとされていました。
像があった痕跡と思える壁の黒いシミを見ると修理中だったのでしょうか。
第2扉には新約聖書「キリストの物語」を主題とした場面が描かれています。
浮き彫りを一つ一つ見ると素晴らしいものです。
1403年、製作にとりかかった25才のギベルティがこの扉を完成させた時、46才だったそうで、1424年までの21年間の製作に毛織物商組合から支払われた費用も莫大なものだったと思われます。
上から1段目左に「十字架を担うキリスト」、その右に「磔刑」が見えます。
又、上から5段目左に「受胎告知」、その右には「降誕」と物語のつながりがうかがえます。
「ドゥオーモ」を背にして見る、東側の第3扉です。
扉の上には三体の彫像が並び、ここが洗礼堂の祭壇に向う正面の門扉になります。
ギベルティの第2扉の出来栄えを高く評価し、パトロンの毛織物商組合は、続いて第3扉の制作もギベルティへ依頼したと思われます。
第3扉の制作は、1425年から1452年までの27年間かかり、完成した時のギベルティは74才だったようです。
24才で第2扉コンクールに優勝し、50年間を扉の制作に費やした人生とはどんなものだったのでしょうか。
「旧約聖書の物語」を主題としたこの扉を見たミケランジェロは感嘆して「天国の門」と命名、その名が今日まで続いています。
洗礼堂の東扉、ギベルディ作「天国への門」の上部分の写真です。
第1・2扉とは違い、大きな枠で描かれています。
四つ葉と菱形を組合せたの枠にこだわらず、自由に描くよう依頼したものと思われ、ギベルティは、この扉に新しいルネサンス様式で描いたようです。
以下は絵の内容です
上から1段目左側:人間創造原罪
上から1番目右側:アベルの犠牲 カインのアベル殺し
上から2段目左側:ノアの箱船 ノアの泥水 ノアの犠牲
上から2番目右側:アバラハムの物語 イサクの犠牲
上から3段目左側:ヤコブとエサウの物語
上から3番目右側:ヨゼフと兄弟達
「サン・ジョヴアン二洗礼堂」の向こうに「花の聖母大聖堂」と呼ばれるドゥオーモがそびえています。
1421年、ギベルディの第2扉の制作が終盤に差しかかっていた頃、大聖堂のクーポラ(大円蓋)部分の建設再開が計画されました。
次回は、第2扉の制作コンクールでギベルディと名勝負を演じたブルネッレスキが活躍する物語になります。
カルツァイオリ通りを北へ進み、右手に見えた「ジョットの鐘楼」と、「ドゥオーモ」です。
古代と近代が入り交じったようにも感じる多色大理石の壁が現れた時、不思議な感動を覚えました。
フィレンツェ、「ドゥオーモ」付近の中世の絵地図です。
右下の「オルサンミケーレ教会」から赤い線をたどり、「ドゥオーモ」へ向かいました。
進行方向右手に「ジョットの鐘楼」「ドゥオーモ」と並び、その向いに「サン・ジョヴアン二洗礼堂」があります。
サン・ジョヴァンニは、フィレンツェの守護聖人「洗礼者ヨハネ」の名前だそうです。
「ジョットの鐘楼」を背に南東側から見た「サン・ジョヴアン二洗礼堂」です。
建物に向かって左側に南扉、右に東扉が見えます。
壁の白・暗緑色・ピンク三色の大理石で構成する幾何学模様は、その後建設された「ジョットの鐘楼」や、「ドゥオーモ」の壁にも同じ仕様とされたようです。
北西側から見た「サン・ジョヴアン二洗礼堂」です。
建物に向って左の扉が北側で、右の少し突き出た所が西側で、後方に「ジョットの鐘楼」がそびえています。
紀元前1世紀の古代ローマ時代、この場所には軍神マルスの神殿があったと言われています。
四世紀頃になると神殿の上に聖堂が建てられ、九世紀には大聖堂として使われるようになったようです。
1128年、大聖堂は町の人口増加で手狭となり、隣接地に「サンタ・レパラータ聖堂」が建てられ、施設は洗礼堂として使われるようになりました。
又、「サンタ・レパラータ聖堂」の上には現在の「ドゥオーモ」が建てられており、この辺りには、フィレンツェの中心地だった長い歴史がありました。
「サン・ジョヴアン二洗礼堂」の平面図です。
八角形の建物で、西側が祭壇、北・東・西の三ヶ所に扉があります。
当初、木の扉でしたが、その後青銅に金が塗られた扉に換えられています。
南の第1扉は、1336年にアンドレア・ピサーノが約6年をかけて製作し、当初は東の扉でした。
その扉には四つ葉と、菱形を組合せた28枚の枠に「洗礼者ヨハネの物語」などの浮き彫が描かれています。
北の第2扉、東の第3扉は、ロレンツォ・ ギベルティが1403年から1452年までの約50年間を費やして制作したものです。
これは1402年、洗礼堂第2扉の制作者をコンクールで決することとなり、最終審査まで残り、名勝負を演じた二作品です。
旧約聖書「イサクの犠牲」が主題で、向って左の作品がロレンツォ・ ギベルティ、右がフィリッポ・ブルネッレスキの作品です。
優劣を決めかねたコンクールの委員会は、共同製作を依頼したようですが、ブルネッレスキが辞退して ギベルティに決まったとされています。
14世紀のフィレンツェでは黒死病(ペスト)の大流行が続き、1400年には小さな町で死者1.2万人とすさまじいものだったようです。
洗礼堂第2扉の制作者を決めるコンクールの発表があったのは、その翌年1401年で、前例のない大きな話題性のあるイベントだったようです。
近代まで原因不明だった黒死病に対して、当時のフィレンツェ人々は洗礼堂にすばらしい扉を捧げ、ひたすら神に祈ろうとするものだったのでしょうか。
ツアーの人達と、北側の第2扉を見ている風景です。
1402年のコンクールで選ばれたギベルディの作品がこの扉です。
高さ4.9m、幅2.85mの扉には南の第1扉と同様、四つ葉と菱形を組合せたの枠が、ヨコ4列、タテ7段の28枚並んでいます。
ガイドブックで紹介されていた北扉の上にある三体のブロンズ像が見当たりません。
洗礼者ヨハネ像を挟んで信者のパリサイ人とレヴィ人が並んでいるとされていました。
像があった痕跡と思える壁の黒いシミを見ると修理中だったのでしょうか。
第2扉には新約聖書「キリストの物語」を主題とした場面が描かれています。
浮き彫りを一つ一つ見ると素晴らしいものです。
1403年、製作にとりかかった25才のギベルティがこの扉を完成させた時、46才だったそうで、1424年までの21年間の製作に毛織物商組合から支払われた費用も莫大なものだったと思われます。
上から1段目左に「十字架を担うキリスト」、その右に「磔刑」が見えます。
又、上から5段目左に「受胎告知」、その右には「降誕」と物語のつながりがうかがえます。
「ドゥオーモ」を背にして見る、東側の第3扉です。
扉の上には三体の彫像が並び、ここが洗礼堂の祭壇に向う正面の門扉になります。
ギベルティの第2扉の出来栄えを高く評価し、パトロンの毛織物商組合は、続いて第3扉の制作もギベルティへ依頼したと思われます。
第3扉の制作は、1425年から1452年までの27年間かかり、完成した時のギベルティは74才だったようです。
24才で第2扉コンクールに優勝し、50年間を扉の制作に費やした人生とはどんなものだったのでしょうか。
「旧約聖書の物語」を主題としたこの扉を見たミケランジェロは感嘆して「天国の門」と命名、その名が今日まで続いています。
洗礼堂の東扉、ギベルディ作「天国への門」の上部分の写真です。
第1・2扉とは違い、大きな枠で描かれています。
四つ葉と菱形を組合せたの枠にこだわらず、自由に描くよう依頼したものと思われ、ギベルティは、この扉に新しいルネサンス様式で描いたようです。
以下は絵の内容です
上から1段目左側:人間創造原罪
上から1番目右側:アベルの犠牲 カインのアベル殺し
上から2段目左側:ノアの箱船 ノアの泥水 ノアの犠牲
上から2番目右側:アバラハムの物語 イサクの犠牲
上から3段目左側:ヤコブとエサウの物語
上から3番目右側:ヨゼフと兄弟達
「サン・ジョヴアン二洗礼堂」の向こうに「花の聖母大聖堂」と呼ばれるドゥオーモがそびえています。
1421年、ギベルディの第2扉の制作が終盤に差しかかっていた頃、大聖堂のクーポラ(大円蓋)部分の建設再開が計画されました。
次回は、第2扉の制作コンクールでギベルディと名勝負を演じたブルネッレスキが活躍する物語になります。