昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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北海道旅行No.12 利尻島野塚で知った幕末の物語

2010年08月23日 | 北海道の旅
7/16 利尻島の「姫沼」では利尻富士がまったく見えず、少し物足りない気持ちで、次の「野塚展望台」へ着きました。



「野塚展望台」から「鴛泊港」方向に美しい夏の利尻島の景色が広がっていました。

向こうには「ペシ岬」へ近づく白い船、手前には静かに昆布漁をする漁船が浮んでいます。

「姫沼展望台」とほぼ同じ方向の景色ですが、断崖の下に広がる海の景色がきれいでした。

赤い模様のある白い船は、稚内港から鴛泊港へ向う9:10着の便のようです。



利尻島の地図です。

利尻島を時計回りで進み、9:00時過ぎに「野塚展望台」に到着しました。

8:10鴛泊港着のフェリーから、レンタカー会社、姫沼展望台、姫沼を経由した割には早いペースのようです。

13:10発の礼文島行きフェリーに乗るまで、時間のある限り利尻島を楽しみたいと、走りまわりました。



「野塚展望台」の広い駐車場から南西方向を見た景色です。

ここでも利尻山は上部を雲に覆われていました。

雄大な利尻富士の姿を早く見たい気持ちがつのります。



ラベンダーの花が咲く「野塚展望台」の駐車場から道路進行方向を見た景色です。

利尻島の道路の各所には大きな島の地図が設置されています。

どこからでも見える利尻山と、海岸沿いを一周道路が分かり易く、レンタカーにはカーナビもありませんでした。



駐車場と道路を挟んだ「野塚展望台」の中央付近の様子です。

「利尻島野塚展望台」の案内板、右手に白い船、左手にペシ岬、その向こうには礼文島が見えていました。



「野塚展望台」から下の海を見ると、小さな漁船が止まっていました。

長い棒を持った人が海の中をのぞいているようで、海底の昆布を採っているようです。



妻は、「野塚展望台」からの美しい景色を見て、さっそくスケッチを始めました。

向って左の石碑には、「国立公園利尻島」と刻まれ、中央の石碑には英文が刻まれていました。

読めない英文の石碑に興味をひかれました。 この土地で何かがあったようです。



英文の石碑の隣に、海を背にした二つの石碑がありました。

石碑によると幕末の頃、この野塚の地にアメリカ人が上陸した事件があったようです。

これらの碑文は、その事件の顛末を小説「海の祭礼」に書いた吉村昭さんによるもののようです。

■外国人の顔が刻まれた左の碑文です。
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嘉永元年六月二日(一八四八年)
日本に憧れたアメリカ人
ラナルド・マクドナルドが
捕鯨船から単身この地に上陸し
長崎に護送され、日本人に初めて
英会話を教えた
これによって英会話に習熟した者たちが
列強と日本との外交交渉に貢献し
日本を滅亡の危機から救った
この利尻島の上陸地は
歴史上、大きな意義を持つのである
 吉村 昭
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■向かって右手の碑文です。
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かれは 磯にむかって手をふった
磯に集まった者たちは しばらくの間
動かずこちらを見つめているようだったが
そのうちに二艘の小舟が
海におろされるのが見えた
小舟は 白い海鳥の群れにつつまれながら
こちらにむかって進んでくる
マクドナルドは はげしく手をふった

 吉村昭作<海の祭礼>文藝春秋社刊より
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石碑にあったラナルド・マクドナルド像です。

あごヒゲが印象的で、いかめしい感じです。



「利尻島郷土資料館」のパンフレットの表紙の一部です。

表紙には島に停泊する帆船や、「ラナルド・マクドナルド」の顔写真も見られます。

資料館には吉村昭さんの小説「海の祭礼」も展示され、「ラナルド・マクドナルド」は、島の歴史の大きな1コマになっているようです。

■「利尻島郷土資料館解説シート」にラナルド・マクドナルドの記述がありました。
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利尻の近世史Ⅲ ラナルド・マクドナルド
 ペリー来航の5年前にあたる1848【嘉永元】年、1人の24歳のアメリカ人青年が利尻島野塚に上陸します。その名はラナルド・マクドナルド、1824年アメリカ合衆国オレゴン州アストリア生まれです。
では、マクドナルドは、なぜ、どのようにして遠い鎖国下の日本を日指して利尻島の地を踏んだのでしょうか。
1845年頃から捕鯨船プリマス号に乗り込み、日本に上陸することを夢みていたマクドナルドは、1846年に『フレンド』誌に掲載された記事「クーパー船長日本訪問談」を目にし、いっそう日本への思いを強くしたと考えられます。その内容は、アメリカの捕鯨船マンハッタン号が小笠原諸島で救助した日本人漂流民22名を乗せて浦賀に行き帰還させたという記事です。ここから彼は、日本上陸へのヒントを得たのでしょう。
 そしてついに、1848年6月、思い描いていた夢の瞬間が訪れます。3ケ月間日本ミ毎で捕鯨をしていたプリマス号が、宗谷海峡を通り捕鯨基地のあるホノルルに戻ることになっていました。マクドナルドは、単身上陸することを船長に告げ、ボートに乗り込み陸地を目指します。最初の上陸地、焼尻島で数日を過ごした後、とうとう利尻島野塚で遭難を装いアイヌの人びとに救助されるかたちで上陸します。彼が、利尻という「島」を目指した理由としては、本土へ直接上陸することを避ける、あるいは利尻山を目印として海流にのり北上しやすかったことが考えられるでしょう。
 では、彼の島での滞在はどのような状況だったのでしょうか。彼は、上陸して10日ほどは野塚で過ごし、島民タンガロ(多次郎?)と身ぶり手ぶりでやりとりしながら互いに心を通わせていました。しかし、当時運上屋のあった本泊に移送されてからは、不自由の身となり20日ほど拘束されます。その後、宗谷・松前に2カ月弱拘束され、長崎へ移送されてしまいます。
 移送された長崎では、外国人という境遇でありながら、しだいに彼の人あたりのよい温厚な性格に周りの日本人も心を許していきます。座敷牢の中ではあったものの、オランダ語の通詞(通訳)であった森山栄之助(後にペリー来航の際、通詞を務める)ら14名に英語を教え、そして自らも積極的に日本語を学ぽうとしました。
1849年4月に日本を去るまでの約7カ月問を長崎で過ごした彼は、晩年も『日本回想記』を著すなど日本に対する熱い思いを持ら続けていたようです。
 こうした日本での約150年前に行われた国の違う人同士のことばの壁を越えた交流は、勇気ある1人のアメリカ人青年と異国日本で彼を受け入れた人々がもたらした歴史として再認喜哉されるべき出来事といえるでしょう。
 現在、野塚展望台には、彼の半生を描いた小説『海の祭礼』の害者吉村昭氏の文学碑とマクドナルドの功績を称えた顕彰碑・英文銅板が建てられています。
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「利尻島郷土資料館」のパンフレットにあったラナルド・マクドナルドの白黒写真にセピア色を付けてみました。

よく見ると、まだ初々しさを感じる青年です。

命を掛けて上陸した彼の日本への興味は、いったいどのようなものだったのでしょうか。

小説「海の祭礼」を読んでみたいと思います。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
利尻島 (クラ)
2014-05-20 00:09:35
 ブログみさせてもらいました。ありがとうございます。自分も以前 北海道旅行で利尻島へ行きました。美しい自然、湖など感動が一杯 また行きたいです。そして、江戸時代(幕末)に関する出来事の碑なども見かけました。当時の利尻島 そして道北はどのような世界だったのだろうか?
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利尻島 (tako_888k)
2014-05-21 15:58:27
クラ様
コメントありがとうございます。

利尻島を一周し、すばらしい大自然の風景に感動した想い出がよみがえりました。
ラナルド・マクドナルド青年が日本を目指した強い思いは160年以上経った今でも分かるような気がします。
又、北海道旅行に行きたい心境です。
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