7/15 稚内市のホテルにチェックインし、16:30頃から国道238号を東へ約30Kmの場所にある宗谷岬へ向かいました。
国道238号は、稚内市から網走市までのオホーツク海沿岸を走っています。
稚内の市街地を出ると、宗谷湾に沿った信号の少ない道路です。
道の先に「宗谷丘陵」が広がり、おびただしい数の風力発電の風車が見えてきました。
北海道旅行№3に掲載した幌延町浜里地区の「オトンルイ風力発電所」の28基をはるかに超える規模です。
宗谷周辺の地図です。
地図右下部分が、北海道の北端部分の地図で、全体は宗谷岬付近を拡大しています。
右下の広域地図にある赤丸印の稚内市街地から、宗谷岬をめざして走っています。
宗谷岬の2~3Km手前にあった「間宮林蔵渡樺出航の地」です。
右にカーブした道路のすぐ左に小さな駐車場と、石碑がならんでいました。
■広場の中央にあった案内板を転記します。
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間宮林蔵渡樺出航の地
ロシアの南下政策に驚いた幕府は文化5年4月13日(1808)間宮林蔵と松田伝十郎を北蝦夷(きたえぞ・カラフト)の調査に向かわせた。
流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、風俗の異なる北蝦夷に渡り、東海岸を調べた。
この年、林蔵は再び北蝦夷に渡り越冬、翌年文化6年春、西海岸を北上し北蝦夷は大陸と海峡をへだてた島であることを確認した。夏には大陸交易に赴くギリヤーク人に同行しアムール下流の満州仮府デレンを訪れ、この地方の情勢を調査し、「東韃(とうだつきこう)」として報告された。
後にシーボルトは「間宮の瀬戸」と名付けて世界に紹介した。
稚内市教育委員会
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背が高く、真新しい石碑に「間宮林蔵渡樺出航の地」とあり、側面に「文化五年樺太探検の功績を讃え之を建るものなり」と刻まれています。
約200年前、間宮林蔵たちは、まさにこの後方の海岸から樺太へ向けて出航したようです。
向かって右の石碑に「宗谷アイヌ 柏木ベン」の名で、以下の碑文が刻まれていました。
==============================
此地は吾が祖先の樺太と
逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し
石標を建てのすべてが
毎年の祭を行えり此石
は当時をしのぶ唯一のもの也
宗谷アイヌ 柏木ベン
==============================
伝承によると間宮林蔵は、最初の樺太探検の時、海岸に自分の墓石を建て悲壮な覚悟で出航したそうです。
又、この地に住む宗谷アイヌ最後の文化伝承者だった柏木ベンさんの証言では、集落でこの石を祀り、林蔵祭が毎年行われていたようです。
碑文にある「間宮林蔵渡樺を記念し石標を建て、のすべてが毎年の祭を行えり此石は」とは、上記の伝承によるものと思われます。
「稚内市北方記念館」に「柏木ベン」と紹介された年老いた女性の写真が展示されていました。
この写真の下には男性の「柏木ベンタ」と、女性の「柏木シマ」と紹介された写真がありましたが、3人の関係が書かれておらず、柏木ベンさんのご両親か、ご兄弟かとも思われます。
■柏木ベンさんの写真の横にあった説明文です。
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宗谷アイヌ
ソウヤ(現在の稚内市宗谷)を中心に居住していたアイヌの人びとを宗谷アイヌといいます。
19世紀はじめには400人規模の人びとが住んでいました。
北海道アイヌの文化と樺太アイヌの文化の接点をなす重要な場所に位置しているにもかかわらず、その文化的実態はよくわかっていません。
1961年(昭和36年)の柏木ベンさんの逝去により宗谷アイヌの文化の伝承者は絶えました。写真はありし日の柏木ベンさんです。
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かつての宗谷アイヌ400人規模の集落は無くなり、その文化の伝承は途絶えてしまったそうです。
弱肉強食の帝国主義が広がる時代、アイヌ民族の悲劇がここにもありました。
同じく「稚内市北方記念館」に展示されていた「間宮林蔵」のブロンズ像です。
「稚内市北方記念館」の展示では林蔵たちの二度の樺太探検、さらに大陸へ渡って調査した現地の風景・風俗等の絵など多くの資料が展示され、とても興味深いものでした。
展示を見終わってこの像を見ると、極寒の地へ命がけの探検に旅立つ林蔵の覚悟が伝わって来るようでした。
「間宮林蔵渡樺出航の地」を訪れる前に「稚内市北方記念館」を先に見るべきだったと、少し悔やまれます。
海を背にして並ぶ石碑です。
両端の石碑をよく見ると、歌碑のようでした。
■向って右の石碑です。
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海峡に大きく
昇る今日の月
古竹
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■向って左の丸い石碑です。
==============================
歌 碑
噫宗谷海峡
東海林義夫
暮色蒼然 掩樺太
幾万同胞 再不帰
茫洋咽頻 悲憤情
一片残光 照海峡
還らざる
友の面影
偲びつヽ
宗谷岬に
一人佇む
==============================
二つの歌碑と、間宮林蔵渡樺出航との関係も分かりませんが、参考のため、刻まれた文字を転記しました。
石碑のある海岸から宗谷岬の方向を見た景色です。
海に小さな岩礁が見えます。
地図で見ると「平島」のようです。
「間宮林蔵渡樺出航の地」から宗谷岬の方向へ少し走った辺りから北に見える「弁天島」です。
島にはおびただしい数の鳥が島を覆い、その向こうにはサハリン(樺太)の島影がぼんやりと見えていました。
地図では「平島」と共に宗谷岬の西北西にあり、「宗谷岬」が最北端と思っていましたが、どうもこの「弁天島」が最北端のようです。
「弁天島」は、別名「ソウヤ岩」と言われ、アイヌ語の「ソ・ヤ=磯岩の岸」が語源だそうです。
日本最北端の地は「宗谷」岬ではなく、この「ソウヤ」岩だったのです。
しかし、正式な日本最北端の地は、ロシアから返還されず、実行支配されていない北方領土の択捉島にあります。
今回の北海道旅行では、知床周辺も訪れ、北方領土問題を少し実感した旅でもありました。
国道238号は、稚内市から網走市までのオホーツク海沿岸を走っています。
稚内の市街地を出ると、宗谷湾に沿った信号の少ない道路です。
道の先に「宗谷丘陵」が広がり、おびただしい数の風力発電の風車が見えてきました。
北海道旅行№3に掲載した幌延町浜里地区の「オトンルイ風力発電所」の28基をはるかに超える規模です。
宗谷周辺の地図です。
地図右下部分が、北海道の北端部分の地図で、全体は宗谷岬付近を拡大しています。
右下の広域地図にある赤丸印の稚内市街地から、宗谷岬をめざして走っています。
宗谷岬の2~3Km手前にあった「間宮林蔵渡樺出航の地」です。
右にカーブした道路のすぐ左に小さな駐車場と、石碑がならんでいました。
■広場の中央にあった案内板を転記します。
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間宮林蔵渡樺出航の地
ロシアの南下政策に驚いた幕府は文化5年4月13日(1808)間宮林蔵と松田伝十郎を北蝦夷(きたえぞ・カラフト)の調査に向かわせた。
流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、風俗の異なる北蝦夷に渡り、東海岸を調べた。
この年、林蔵は再び北蝦夷に渡り越冬、翌年文化6年春、西海岸を北上し北蝦夷は大陸と海峡をへだてた島であることを確認した。夏には大陸交易に赴くギリヤーク人に同行しアムール下流の満州仮府デレンを訪れ、この地方の情勢を調査し、「東韃(とうだつきこう)」として報告された。
後にシーボルトは「間宮の瀬戸」と名付けて世界に紹介した。
稚内市教育委員会
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背が高く、真新しい石碑に「間宮林蔵渡樺出航の地」とあり、側面に「文化五年樺太探検の功績を讃え之を建るものなり」と刻まれています。
約200年前、間宮林蔵たちは、まさにこの後方の海岸から樺太へ向けて出航したようです。
向かって右の石碑に「宗谷アイヌ 柏木ベン」の名で、以下の碑文が刻まれていました。
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此地は吾が祖先の樺太と
逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し
石標を建てのすべてが
毎年の祭を行えり此石
は当時をしのぶ唯一のもの也
宗谷アイヌ 柏木ベン
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伝承によると間宮林蔵は、最初の樺太探検の時、海岸に自分の墓石を建て悲壮な覚悟で出航したそうです。
又、この地に住む宗谷アイヌ最後の文化伝承者だった柏木ベンさんの証言では、集落でこの石を祀り、林蔵祭が毎年行われていたようです。
碑文にある「間宮林蔵渡樺を記念し石標を建て、のすべてが毎年の祭を行えり此石は」とは、上記の伝承によるものと思われます。
「稚内市北方記念館」に「柏木ベン」と紹介された年老いた女性の写真が展示されていました。
この写真の下には男性の「柏木ベンタ」と、女性の「柏木シマ」と紹介された写真がありましたが、3人の関係が書かれておらず、柏木ベンさんのご両親か、ご兄弟かとも思われます。
■柏木ベンさんの写真の横にあった説明文です。
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宗谷アイヌ
ソウヤ(現在の稚内市宗谷)を中心に居住していたアイヌの人びとを宗谷アイヌといいます。
19世紀はじめには400人規模の人びとが住んでいました。
北海道アイヌの文化と樺太アイヌの文化の接点をなす重要な場所に位置しているにもかかわらず、その文化的実態はよくわかっていません。
1961年(昭和36年)の柏木ベンさんの逝去により宗谷アイヌの文化の伝承者は絶えました。写真はありし日の柏木ベンさんです。
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かつての宗谷アイヌ400人規模の集落は無くなり、その文化の伝承は途絶えてしまったそうです。
弱肉強食の帝国主義が広がる時代、アイヌ民族の悲劇がここにもありました。
同じく「稚内市北方記念館」に展示されていた「間宮林蔵」のブロンズ像です。
「稚内市北方記念館」の展示では林蔵たちの二度の樺太探検、さらに大陸へ渡って調査した現地の風景・風俗等の絵など多くの資料が展示され、とても興味深いものでした。
展示を見終わってこの像を見ると、極寒の地へ命がけの探検に旅立つ林蔵の覚悟が伝わって来るようでした。
「間宮林蔵渡樺出航の地」を訪れる前に「稚内市北方記念館」を先に見るべきだったと、少し悔やまれます。
海を背にして並ぶ石碑です。
両端の石碑をよく見ると、歌碑のようでした。
■向って右の石碑です。
==============================
海峡に大きく
昇る今日の月
古竹
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■向って左の丸い石碑です。
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歌 碑
噫宗谷海峡
東海林義夫
暮色蒼然 掩樺太
幾万同胞 再不帰
茫洋咽頻 悲憤情
一片残光 照海峡
還らざる
友の面影
偲びつヽ
宗谷岬に
一人佇む
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二つの歌碑と、間宮林蔵渡樺出航との関係も分かりませんが、参考のため、刻まれた文字を転記しました。
石碑のある海岸から宗谷岬の方向を見た景色です。
海に小さな岩礁が見えます。
地図で見ると「平島」のようです。
「間宮林蔵渡樺出航の地」から宗谷岬の方向へ少し走った辺りから北に見える「弁天島」です。
島にはおびただしい数の鳥が島を覆い、その向こうにはサハリン(樺太)の島影がぼんやりと見えていました。
地図では「平島」と共に宗谷岬の西北西にあり、「宗谷岬」が最北端と思っていましたが、どうもこの「弁天島」が最北端のようです。
「弁天島」は、別名「ソウヤ岩」と言われ、アイヌ語の「ソ・ヤ=磯岩の岸」が語源だそうです。
日本最北端の地は「宗谷」岬ではなく、この「ソウヤ」岩だったのです。
しかし、正式な日本最北端の地は、ロシアから返還されず、実行支配されていない北方領土の択捉島にあります。
今回の北海道旅行では、知床周辺も訪れ、北方領土問題を少し実感した旅でもありました。
途中在った詩碑の漢詩を写し間違えていらっしゃるので、一応お知らせしておきます
暮色蒼然 俺樺太
ではなく
暮色蒼然 掩樺太
です
「掩」
は
「掩ふ(おおふ)」
と読み、
暮色蒼然、樺太を掩ふ
となります。ご参考までに
ご指摘、ありがとうございます。
さっそく訂正させて頂きました。