朝、那覇のホテルを出発して南城市大里西原の大里城へ行きました。

沖縄が、三山時代と言われた14世紀頃の勢力分布を想像した地図です。
大里城は、別名「島添大里城」と言われ、南山エリア(黄色)の東部にあります。
「大里城」のすぐ南には、佐敷城があり、佐敷按司[あじ]だった尚巴志[しょうはし]が、三山を統一する過程で、最初に攻略したのがこの「大里城」と言われています。
尚巴志は、この「大里城」を拠点として中山「浦添城」を攻略、その後も重要な拠点としていたようです。

「大里城跡」近くの集落を過ぎると大里城跡の門がありました。
門の中央に大きな石が車止めに置かれているようです。
■門から十メートル手前にあった「大里城跡」の案内板を転記します。
==========================================================================
「大里城跡」
大里城跡は、大里村字西原の北側、標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵台地に形成されている。
北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。
この城跡は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司によって築城されたと「中山世鑑」の中に記されている。
また尚巴志が最初に攻略した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。
城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。
1991年の村内遺跡分布調査の際試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。
平成4年1月 大里村
==========================================================================

門を入ると、草の生えたとても広い場所があります。
この辺りが、「大里城」の二の郭だったようです。
この郭の広さは沖縄のグスクの中でも特に広いように思えます。
兵を鍛えたり、戦いの前に多くの兵が集まる場所でもあったと思われますが、2~3千人は入れそうです。
広場の奥に建物が見えます。
建物の壁には大きな字で「城」と書かれ、床はステージのようになっていました。
写真に向かって右側に二本の大きな木があり、その間に「一の郭」に上って行く道があります。

二本の木の間を上っていく道です。
道の両脇には小さな赤い花がたくさん咲いていました。

坂道の途中から右に入る道があり、脇道の左側に拝所があります。
拝所の周りにも小さな赤い花が、いっぱい咲いていました。

坂道を上がると細長い広場があり、「島添大里城」の案内板がありました。
案内板を撮影して読んでいると、道の向こうから歩いて来た地元のオジーと出会いました。
挨拶をすると、とても気さくな人で、大里城について色々な話を聞かせて頂きました。
この広場の道を直進すると大里按司の墓があり、手前を右に上がると展望台に上る道があると教えてもらいました。
又、この一帯にはとてもたくさんの拝所があり、お祭りの日には集落の人達が手分けして拝んで歩いても半日近くかかることなど、地元の人ならではの解説でした。
大変、お世話になりました。
このオジー、朝10時頃にもかかわらず、色黒の顔に赤みが差し、アルコールの臭いがプンプンでした。
朝から泡盛で、上機嫌だったようです。
ちなみに写真に写っている手は、案内板の説明してくれていたオジーのものです。
手にも赤みが差しています。

上の写真にある案内板の一部、大里城の「想像復元図」です。
周辺を歩いてみた地形のイメージと、復元図がいま一つ一致しません。
復元図によれば、ここから北に首里城、浦添城、から勝連城まで望めるようです。
■「島添大里城」の案内板にある説明文を転記します。
==========================================================================
島添大里グスク 南城市史跡
史跡はおよそ東西200m、南北100m、面積が20,000㎡以上もあって、県内でも有数の規模を誇るグスクです。
グスクの北側、大地縁の断崖を背にして一の郭、そこから南東方向へ二の郭、三の郭と放射状に広がっています。グスクの中心部である一の郭は、一段高く基檀上に造成された正殿跡と、その前面に御庭と考えられる平場から構成されています。過去の調査によって建物の柱を支えるための基石が数箇所から確認され、島添按司の住居である正殿規模は約22m×13mもあり、幾度も改築が行われたと考えられています。
城内には一の郭を囲む城壁のほか、数箇所に城壁が残っており、さらに発掘調査によって、採石を免れた城壁の基礎部分が地中より確認されています。
出土遺跡には、土器やカムィヤキ・中国製陶磁器・東南アジア製陶磁器・日本製陶磁器・鉄器・石器・装飾品・古銭・自然遺物など多くの文物がみられ、往時の繁栄ぶりが窺えます。
平成15年2月2日指定
沖縄県南城市教育委員会
==========================================================================

細長い広場を左手に進むと、こんな拝所がありました。
この辺りが一の郭だったようです。
オジーに聞いた通り、この前を通り過ぎる道を直進して大里按司の墓を目指しました。
細い道が、突然急な下り道になり、危険を感じたので引き返してしまいました。

展望台に上る坂道の途中にあった拝所です。
オジーの話通り、拝所がたくさんあります。

展望台の施設です。
残念ながらあまり遠くの景色は見えませんでした。
坂道を歩き大汗をかいていましたが、心地の良い風で一息つきました。

展望台の施設の横にあった拝所です。
小さな屋根のある変わった施設が見えます。
「浦添ようどれ」でも見た「焚字炉[ふんじゅるー]」に似ています。
「焚字炉[ふんじゅるー]」についてはこのブログ2008-07-05掲載の「浦添ようどれ 一番庭」の見学№3 の最下段に説明しています。

大里城跡の調査で石垣が確認されたという地図を見て、その領域を赤い線で描いて見ました。
次回は、大里城の門の近くにある「チチンガー」の見学を掲載予定です。
オジーから「ミーグスク」のことも聞いていましたが、見学を忘れてしまい次回の楽しみとしています。

沖縄が、三山時代と言われた14世紀頃の勢力分布を想像した地図です。
大里城は、別名「島添大里城」と言われ、南山エリア(黄色)の東部にあります。
「大里城」のすぐ南には、佐敷城があり、佐敷按司[あじ]だった尚巴志[しょうはし]が、三山を統一する過程で、最初に攻略したのがこの「大里城」と言われています。
尚巴志は、この「大里城」を拠点として中山「浦添城」を攻略、その後も重要な拠点としていたようです。

「大里城跡」近くの集落を過ぎると大里城跡の門がありました。
門の中央に大きな石が車止めに置かれているようです。
■門から十メートル手前にあった「大里城跡」の案内板を転記します。
==========================================================================
「大里城跡」
大里城跡は、大里村字西原の北側、標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵台地に形成されている。
北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。
この城跡は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司によって築城されたと「中山世鑑」の中に記されている。
また尚巴志が最初に攻略した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。
城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。
1991年の村内遺跡分布調査の際試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。
平成4年1月 大里村
==========================================================================

門を入ると、草の生えたとても広い場所があります。
この辺りが、「大里城」の二の郭だったようです。
この郭の広さは沖縄のグスクの中でも特に広いように思えます。
兵を鍛えたり、戦いの前に多くの兵が集まる場所でもあったと思われますが、2~3千人は入れそうです。
広場の奥に建物が見えます。
建物の壁には大きな字で「城」と書かれ、床はステージのようになっていました。
写真に向かって右側に二本の大きな木があり、その間に「一の郭」に上って行く道があります。

二本の木の間を上っていく道です。
道の両脇には小さな赤い花がたくさん咲いていました。

坂道の途中から右に入る道があり、脇道の左側に拝所があります。
拝所の周りにも小さな赤い花が、いっぱい咲いていました。

坂道を上がると細長い広場があり、「島添大里城」の案内板がありました。
案内板を撮影して読んでいると、道の向こうから歩いて来た地元のオジーと出会いました。
挨拶をすると、とても気さくな人で、大里城について色々な話を聞かせて頂きました。
この広場の道を直進すると大里按司の墓があり、手前を右に上がると展望台に上る道があると教えてもらいました。
又、この一帯にはとてもたくさんの拝所があり、お祭りの日には集落の人達が手分けして拝んで歩いても半日近くかかることなど、地元の人ならではの解説でした。
大変、お世話になりました。
このオジー、朝10時頃にもかかわらず、色黒の顔に赤みが差し、アルコールの臭いがプンプンでした。
朝から泡盛で、上機嫌だったようです。
ちなみに写真に写っている手は、案内板の説明してくれていたオジーのものです。
手にも赤みが差しています。

上の写真にある案内板の一部、大里城の「想像復元図」です。
周辺を歩いてみた地形のイメージと、復元図がいま一つ一致しません。
復元図によれば、ここから北に首里城、浦添城、から勝連城まで望めるようです。
■「島添大里城」の案内板にある説明文を転記します。
==========================================================================
島添大里グスク 南城市史跡
史跡はおよそ東西200m、南北100m、面積が20,000㎡以上もあって、県内でも有数の規模を誇るグスクです。
グスクの北側、大地縁の断崖を背にして一の郭、そこから南東方向へ二の郭、三の郭と放射状に広がっています。グスクの中心部である一の郭は、一段高く基檀上に造成された正殿跡と、その前面に御庭と考えられる平場から構成されています。過去の調査によって建物の柱を支えるための基石が数箇所から確認され、島添按司の住居である正殿規模は約22m×13mもあり、幾度も改築が行われたと考えられています。
城内には一の郭を囲む城壁のほか、数箇所に城壁が残っており、さらに発掘調査によって、採石を免れた城壁の基礎部分が地中より確認されています。
出土遺跡には、土器やカムィヤキ・中国製陶磁器・東南アジア製陶磁器・日本製陶磁器・鉄器・石器・装飾品・古銭・自然遺物など多くの文物がみられ、往時の繁栄ぶりが窺えます。
平成15年2月2日指定
沖縄県南城市教育委員会
==========================================================================

細長い広場を左手に進むと、こんな拝所がありました。
この辺りが一の郭だったようです。
オジーに聞いた通り、この前を通り過ぎる道を直進して大里按司の墓を目指しました。
細い道が、突然急な下り道になり、危険を感じたので引き返してしまいました。

展望台に上る坂道の途中にあった拝所です。
オジーの話通り、拝所がたくさんあります。

展望台の施設です。
残念ながらあまり遠くの景色は見えませんでした。
坂道を歩き大汗をかいていましたが、心地の良い風で一息つきました。

展望台の施設の横にあった拝所です。
小さな屋根のある変わった施設が見えます。
「浦添ようどれ」でも見た「焚字炉[ふんじゅるー]」に似ています。
「焚字炉[ふんじゅるー]」についてはこのブログ2008-07-05掲載の「浦添ようどれ 一番庭」の見学№3 の最下段に説明しています。

大里城跡の調査で石垣が確認されたという地図を見て、その領域を赤い線で描いて見ました。
次回は、大里城の門の近くにある「チチンガー」の見学を掲載予定です。
オジーから「ミーグスク」のことも聞いていましたが、見学を忘れてしまい次回の楽しみとしています。