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昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

下関市長府の功山寺の高杉晋作の銅像

2007年10月21日 | 山陽地方の旅
下関市長府の「功山寺」へ行きました。
国宝の仏殿や、長州藩を討幕に転換させたといわれる高杉晋作が挙兵した場所でも知られています。



旧山陽道に面した石段を上がった所に「功山寺(こうさんじ)」の「総門」があります。

「総門」に向って右の石碑には「不許葷酒入山門」と書かれてあります。
「葷」とは「五葷(ごくん)」とも呼ばれるニンニク・ネギ・ニラ・タマネギ・ラッキョウの五種類の精力が着く野菜のことのようです。
「葷」を食べたり、「酒」を飲んだ者は門をくぐるなという意味のようですが、欲望を捨てて悟りを開く修行のじゃまにならないようにする目的のようです。
このような石碑は、禅宗の寺の門でよく見かけますが、「禁牌石(きんぱいせき)」というそうです。

最近は、お坊さんも結婚し、性欲を捨てない時代になったため「禁牌石」も有名無実になったのでしょうか。
そういえば前夜、下関駅近くの韓国の家庭料理の店で、ニンニク・ニラなどが入った料理を食べて行きました。

総門を入った左手に「功山寺」の案内板があり、転記します。
■功山寺(長府川端町)
曹洞宗、嘉暦二年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇の荒廃をみた。
その後、慶長七年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に転宗した。二代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。
現在の仏殿は、元応二年(1320)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定、十代藩主匡芳の時、当地工匠の作による山門は市指定文化財となっている。
その他境内には、県文化財の木造地蔵菩半跏像をはじめ、大内義長の墓と伝えられる宝篋印塔、五卿西下潜居の間、高杉晋作挙兵の処など数々の史跡や文化遺産が残されており、境内地(付、伝大内義長の墓)も記念物として市文化財に指定されている。



総門へ上がる石段の横に石碑がありました。
中央の石碑は、「高杉晋作回天義挙之所」と刻まれた碑です。
その向かって左には、碑の説明板が二段に書かれてあり、以下に転記します。

■碑の解説
高杉晋作回天義挙之所 明治維新の策源地 正にこの地この所である 回天とは何の意か 天皇親政の古に復えすの意であろう 義挙とは何ぞ 義は正義の義であり忠義の義である この碑は高杉が明治の昭代をつくり出した地点を示す 否少なくもその主なる一人である 由来歴史は人を造るが 人また歴史を造りもする 高杉は歴史を造る人か 高杉のこの挙は 直ちに近代国家への進展を見なかったが たしかにその一道程を進めたものと言えよう

■横山健堂
大正九年(1920)十二月建立の「高杉晋作回天義挙之所」碑と格調高い解説を施した副碑には揮毫・撰文の署名が見られないがどちらも論客「黒頭巾」こと横山健堂の筆による 明治五年(1872)萩に生まれた彼は東京帝国大学を卒業後読売・毎日両新聞記者として活躍 殊に人物評論のジャンルに新境地を開いたことで知られる ふるさとのためには国宝功山寺仏殿の天井にシャクナゲの絵を丸山晩霞に描かせたり 東行庵高杉晋作墓の史跡指定に奔走 自ら海上アルプスと命名した青海島を全国に広めるなどの功績も多い 昭和十八年(1943)十二月二十四日病没



総門をくぐって参道を進む景色です。
向かって左に「地蔵堂」がありました。
「地蔵堂」の中に「木造地蔵菩薩半跏像」という木像があるようです。



参道の向こうに「山門」が見えてきました。
このあたりの景色が見所のようです。
紅葉の季節もいいでしょうね。

「山門」の脇にあった説明板を転記します。
■下関市指定文化財(建造物)
功山寺山門
指定年月日 昭和四十五年三月四日
この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(1773)長府藩主 十代 毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。
山門(三門)とは、本堂に入るのに通らねばならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、その略からといわれています。禅宗の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。
建築様式の特色として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱四本と控柱八本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。
また、櫓を支えている太い十二本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削り込み、その下部先端は急に細めた、粽型となっています。
山門の建築資材は、これまで度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅の素木を用いて建てられています。
木鼻等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗様式を今に伝える貴重な文化財です。
 下関市教育委員会



山門を見上げた写真です。
柱が、横に4本並び、奥に3列と、合計12本の柱の上に建っています。
上の説明文にある禅宗の門「三間三戸」とは、畳の長い面が3つ並んだ長さの3間が、4本柱の間に3つの通路がある意味のようです。




功山寺の建物配置図がありました。



功山寺の「法堂(はっとう)」です。
「法堂」は、仏教を講義する場所で、主に禅宗で使われる名称のようです。
他の宗派では、「講堂」と呼ばれるようです。



屋根のカーブが美しい「功山寺仏殿」です。
左右の釣鐘型の窓も印象的でした。

説明板を転記します。
■国宝(建造物)
功山寺仏殿
 桁行三間 梁間三間 一重裳階(もこし)入母屋造 桧皮葺
 指定年月日 昭和二十八年十一月十四日
 鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。
床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎板を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。
見事な曲線を見せる桧皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧垂木は天井中央より放射状に配置され、扇垂木とも呼ばれています。
また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。
さらに前面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、わが国最古の禅寺様式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建造物です。
この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。
功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安三年(1650)秀元の没後、戒名(功山玄誉大居士)をもって功山寺と改称しています。
 平成五年七月
 山口県教育委員会
 下関市教育委員会


法堂の前にあった「輪蔵」です。
この中には八角形の回転式経庫がるそうで、これを一回転させれば納められているお経の本を全て読んだと同様の功徳があるそうです。
但し、中には入れてくれません。

説明板を転記します。
■市文化財 功山寺輪蔵
功山寺境内に建つ土蔵造りのこの建物は輪蔵(経蔵)と呼ばれ、五・四五メートル(三間)四方、面積二九・七平方メートル。屋根は宝型造りで桟瓦葺きで、中央尖部互の露盤には、蓮弁様縁取枠内に一文字三つ星の毛利家紋が浮き彫りされている。
また、入口の向拝(幅一間)は軒下位置に切妻照り破風で正面向きに取り付けてある。
輪蔵内部は、中央に八角形の回転式経庫を備えており、経庫には奥書のある一切経の経本が納められ、経庫を一回転させれば一切経の全部を読誦したのと同じ功徳があるといわれている。
このような「輪蔵」は、中国に始まる禅宗寺特有の形式であるが当寺の輪蔵は、寛政十一年(一七九九)に長府藩第十一代藩主毛利元義公が藩祖秀元公百五十回忌の供養として建立、経本千六百冊を納めて寄進したもの。
本市におけるその希少性と、長府藩にかかわる郷土史的意義から貴重な遺産として市文化財に指定されている。



輪蔵の隣に高杉晋作の銅像がありました。
高い台座の上を見上げると、馬に乗った高杉晋作は、以外に若くスマートな青年でした。
銅像といえば老人のイメージが強く、これまで見た最も若い姿の銅像でした。


説明板を転記します。
■高杉晋作回天義挙銅像
解説碑
嘉永六年(1853)米艦四隻浦賀に来航して徳川三百年鎖国の夢破れ 国論は支離滅裂 我長州藩もまたその帰結を知りません 国外では欧米諸国が競って全アジアを制圧し最後の塁である我国に迫って来つつあります 時は元治元年(1864)十二月十五日夜半 高杉先生は遂に意を決して四面の楚歌を排し この地この処に義挙の一鞭を奮い 藩内の俗論派を倒して藩論を尊皇倒幕に統一し 薩・長・土の盟約を結び 第二征長幕軍を長州藩の四境に迎え討って皆これを敗退させ 遂に内は王権を復古して明朗闊達な大和民族本然の姿に返し 外は四海を圧する明治維新(1868)の基を作られました。
明治維新発祥の地 ここ功山寺境内に この度回天義挙像の建設成り 高杉先生当時の姿そのままに只今眼前にあります この誇りを我等永久に語り伝え 言い伝えて 子々孫々教育の糧に致さんと切に願うものであります
 昭和四十七年(1972)十二月十五日
 長府博物館友の会々長  続 渉



「長門尊攘堂」を歴史博物館として転用した「下関市立長府博物館」が、功山寺敷地内の仏殿の隣にありました。

「長門尊攘堂」は、昭和8年(1933)に吉田松陰・品川弥二郎の遺志を継いだ桂弥一(長府在住)が、尊王の教育などを目的に私財を投じて建設した建物のようです。
戦後に長府博物館となり、昭和55年に下関市に移管されたようです。



博物館の横に、ちょっと珍しい慰霊塔がありました。
全国から集めた有名・無名の勤王の士を祀った霊石が丸い塚に並べてあります。
長門尊攘堂とともに桂弥一によって創建されたもので、今でも十月二十日慰霊祭が行われているそうです。

正面にあった説明板を転記します。
■万骨塔
昭和八年(1933)十月、当地に「長門尊攘堂」を創設した桂弥一が、日本各地から石を取り寄せて建設した慰霊塔で、有名・無名の勤王の士を、当時の府県毎に祀っていた。
なお、名称は「一将功成って万骨枯る」に由来する。


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