昔に出会う旅

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長崎旅行-7 雲仙普賢岳噴火の被災遺構 「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」

2013年01月15日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県島原市の「島原城」の次は、雲仙普賢岳の火砕流で被災した 南島原市「旧大野木場小学校校舎」と、南島原市「道の駅みずなし本陣」に併設された「土石流被災家屋保存公園」など雲仙普賢岳噴火による被災遺構の見学です。



1991年(平成3)9月15日、雲仙普賢岳からの火砕流により全焼した「旧大野木場小学校被災校舎」正門からの風景です。

死者行方不明者43名、損壊家屋49戸の大惨事となった1991年(平成3年)6月3日の火砕流から約3ヶ月後に被災しており、生徒や、近隣住民は避難して無事だったようです。

火砕流による全焼建物とされていますが、黒煙ですすけた感じはなく、これは高温の火砕流による火災の特徴なのでしょうか。

雲仙普賢岳の火砕流や、土石流による被害は、1993年(平成5) 8月まで続き、その後の死者は1名に留まったものの、火砕流による損壊家屋271戸、土石流等による損壊家屋581戸と、この地域が壊滅的な状況に陥ったことがうかがえます。

後方にそびえるのは眉山で、約200年前の1792年(寛政4)、火山性地震により東斜面の大崩壊が起こり、有明海沿岸全体に大津波を発生させ、14,920人以上の死者を出す「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる大災害を起こしたことで知られています。



「島原まゆやまロード」から見下ろした「旧大野木場小学校被災校舎」付近の風景です。

校舎の隣の建物(写真右端)は、雲仙普賢岳の監視を行う「砂防みらい館(大野木場砂防監視所)」です。

左手に大きな砂防ダムが造られ、校舎と手前の眉山の間は火砕流や土石流を流すと思われる幅の広い谷となっていますが、この辺りは火砕流により多くの家屋が焼失した北上木場町と思われ、その後の防災整備で大きく地形が変わったのかも知れません。

「島原まゆやまロード」は、眉山の西を通り、「平成新山」を間近に見上げるルートにあり、翌朝に島原市を発つ途中に撮った写真です。



「砂防みらい館(大野木場砂防監視所)」の展示室にあった航空写真で、雲仙普賢岳噴火による被災地域の全景です。

写真には平成5年9月6日とあり、災害発生がほぼ終結した頃の様子と思われます。

普賢岳、平成新山から水無川河口付近まで火砕流の跡と思われる白くなった地域が被災と思われますが、全焼したとされる「旧大野木場小学校」の辺りには緑が見られ、災害は隣接した範囲にも及んだようです。



「土石流被災家屋保存公園」の案内板にあった航空写真に補足説明を加えたものです。

写真上段は、「土石流被災家屋保存公園」の場所を案内するものと思われ、公園となった水無川のすぐそばの家屋が水無川からあふれた土石流により被災したことがうかがえます。

写真下段は、公園の拡大写真で、被災家屋を保存展示する白いテントの建物を中心に周囲に数棟の被災家屋が保存されています。

航空写真は平成10年9月の撮影とされ、災害の終結から約5年を経て次第に復旧が進んでいる様子が見られます。



大きなテントの建物の中に土石流で埋まった家屋が並んでいます。

雨で押し流されて来た大量の土石流で無残な姿になってしまったようです。

大自然の圧倒的な驚異になすすべもなく被災した家屋に人間の無力さを痛感させられます。

向こうの二階建ての建物は、近くから移設されたもので、一階の玄関付近には土砂がなく、屋内の被災状況をのぞくことができました。

■公園の案内板です。
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土石流被災家屋保存公園の概要
 土石流被災家屋保存公園は、土石流災害のすさまじさと防災の重要性を来園の皆様へ知っていただく目的で作られたものです。
 公園内のすべての家屋は、平成4年8月8日~14日の土石流により被害にあったもので、平均で約2.8メートル埋没しています。
 ●敷地面境:約6.200m2  ●保存家屋:11棟
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屋外に保存された被災家屋です。

向こうの白壁の建物は、道の駅みずなし本陣の施設「大火砕流体験館・火山学習館」のようですが、手前の被災家屋の高さと比べると、一階分の高さに埋まった土砂の上に建てられたことが分かります。

■公園の案内板です。
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土石流被災家屋保存公園
 雲仙普賢岳の平成噴火では、火山の山麓lこ大きな土石流が何度も発生しました。1992年(平成4年)8月8日~14日にかけ、水無川でも大規模な土石流が続発しました。ここではそのときに埋没した家屋を当時のまま保存しています。これらの家屋に住んでいた人たちは避難していたため、人的被害はありませんでしたが、私財が失われ、移転を余儀なくされてしまいました。

 土石流で大きな被書を受けた水無川流域。1992年8月8日の深江町の降水lは最大時間雨量37mmと少し強い雨でしたが、非常に大規模な土石流が発生して周囲の家屋を襲いました。
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案内板にあった写真で、よく晴れた水無川の上流に溶岩ドームが盛り上がる普賢岳の風景です。

写真に見える日付は92.8.7で、この一帯を埋め尽くした土石流の前日でした。

既に普賢岳からの火砕流で、水無川の上流の多くの家屋が火災に遭い、雨で押し流される土石流を警戒して多くの住民が避難していたようです。



上段の写真の翌日1992年8月8日、雨で押し流されてきた土石流で水無川の風景は一変しています。

水無川には大きな岩に混じって壊れた家屋の一部と思われるものも見られます。

大量の土石流は、水無川流域の様々な物を呑み込んで有明海方向へ流れていったようです。



島原半島の地図に「仁田(にた)峠循環道路」の「仁田峠第二展望台」や、「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」の場所を表示してみました。

雲仙岳頂上に近い「仁田峠第二展望台」には「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」を見学した翌日に訪れたもので、普賢岳・平成新山の頂上や、火砕流が流れ落ちた有明海方向が一望できる場所です。

あいにくガスに霞んで、ハッキリとした風景を見ることができませんでしたが、雄大な大自然の風景の片鱗を味わうことが出来ました。

■仁田峠循環道路を通った時に頂いたパンフレットの説明文です。
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・仁田峠第二展望台~島原半島随一の絶景ポイント~
国道57号線を島原市から雲仙温泉の方に向かい、雲仙ゴルフ場の近くで右折すると仁田(にた)峠循環道路に入ります。この道路沿いにあるのが、仁田峠第二展望台です。
この展望台からは、平成新山溶岩ドームと、そこから海に向かって延びる水無川上流の急斜面が、荒涼とした景観を作っています。水無川の下流域では、火砕流や土石流の被災域と、川の両岸に造られた導流堤が有明海まで続きます。平成噴火で噴出した土砂が、眉山を避けるように堆積していることから、約200年前には大災害を引き起こした眉山が、平成噴火の時には島原市街を土石流や火砕流から守ったようにも見えます。天気の良い日には、さらに遠方に阿蘇火山や霧島火山が見える事も。
視線を右手に移すと、深江(ふかえ)・布津(ふつ)・貝崎(かいざき)といった断層が、細長い森となって海まで続いています。さらに右手には海に突き出た原城跡、そして、島原半島の南端にある岩戸山(いわどさん)が見える事も。晴れている日に一度は訪れたい、島原半島随一の絶景ポイントです。
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「仁田峠第二展望台」の案内板にあった展望写真(上段)と、火砕流を説明するイラスト(下段)です。

火砕流は、写真左側の「平成新山」の溶岩ドームが崩壊、右側の斜面を火砕流が流れ落ち、冷えて固まった土砂が雨により土石流となって「水無川」河口付近の海を埋めてしまったようです。

噴火した山頂や、流れ落ちた斜面、海岸までの被災地を一望しながら見る案内板は、説得力のあるものです。

■仁田峠第二展望台の案内板
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平成新山と被災地の遠望
 地下から上がってきた高温の溶岩は、粘り気が強いため、山頂付近でこんもりと盛り上がった地形をつくりました。これが溶岩ドームです。溶岩ドームは山の急斜面に張り出すように流れたため、溶岩が部分的に崩れ落ちて火砕流が発生しました。平成新山の裾野には、火砕流の流れた跡を見ることが出来ます。また、有明海まで達した土石流の跡も眺められます。
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案内板に「幻の雲仙岳」と書かれた不思議な図がありました。

「雲仙岳」(普賢岳、国見岳、妙見岳などの総称)全体に多くの断層があり、山が沈下しているようです。

もしも沈下しなかったら2,000mを超える山となるとして、「幻の雲仙岳」のタイトルを付けたようです。

「雲仙地溝」と呼ばれる地殻構造に興味が湧いてきます。

■仁田峠第二展望台の案内板
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沈みゆく雲仙火山
 雲仙火山は北側に千々石断層、有価に市井・深江断層と、多くの断層によつて切られています。そのため内側が沈み込むように落ち込んでいます。このような地質構造を「地溝」と呼びます。雲仙地溝の中央部では、火山噴火で積もった噴出物の量が膨大に溜まつています。もし沈み込んでいなければ、普賢岳は二千メートルを超える九州一の山だったと考えられます。
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図書館で、やっと見つけた雲仙地溝の図です。

「雲仙・普賢岳大噴火 寛政と平成の記録」(村山磐著 東海大学出版会出版)に掲載され、「雲仙地溝帯(伊藤和明「地震と火山の災害史」から」と補足が付けられていました。

調べていくと地溝は、九州を横断して別府湾へ突き抜け、さらに四国、紀伊半島へ伸びているようです。

又、「島原半島世界ジオパーク」のパンフレットによると地溝の北にある千々石[ちぢわ]断層は、「島原半島を南北に引き裂く大地の動きがつくった半島内最大の大地の裂け目です。約30万年の間に大地は最大450mもずれ、断層の南側の地面は今も年間1.5mmの割合で沈降を続けています。」とあります。

又、下記の資料では島原半島や、九州が南北に引き裂かれ、年間1.4cm拡大ているとは・・・まったく知りませんでした。

日本列島は、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、北アメリカプレートがせめぎあっていることは知っていましたが、これらの地殻変動を理解するにはもう少しお勉強が必要のようです。

■「雲仙・普賢岳大噴火 寛政と平成の記録」(村山磐著 東海大学出版会出版)より
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雲仙火山群は雲仙地溝内に噴出したのであるが、この雲仙地溝は今もなお年間一・四cmの速度で南北に拡大し、沈降を続けている。地溝の北は千々石断層、南は深江断層の二つの正断層によって画されている。千々石断層は、西側では断層崖となっているが、東側では普賢岳や眉山を構成する溶岩類で覆われているので明確な位置は明らかでない。深江断層は、深江.布津両町境付近を流れる深江川に沿った西北西~東南東方向の断層である。
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