昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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沖縄本島旅行の1日目は、「浦添ようどれ」の見学 №1

2008年06月28日 | 沖縄の旅
4月9日、数ヶ月前からプランを練っていた2泊3日の沖縄本島の旅行に行きました。
今回は、沖縄本島南部の史跡を中心に観光しました。

10時過ぎに那覇へ到着、レンタカーを借りて那覇市の北、沖縄県浦添市仲間にある史跡、「浦添ようどれ」を目指しました。
これまでの旅行で、行きたくて行けなかったスポットです。
今日は、「浦添ようどれ」の歴史と、概要をまとめましたが、資料の写真や、情報量が多く、数回に分けて掲載を予定しています。



「浦添ようどれ」の外観写真です。
浦添城(グスク)の北斜面に造られた琉球王朝のお墓です。

きちんと面を切揃えた白い琉球石灰岩で築かれた石垣が、とても雄大で、美しい曲線を描いています。
このような石垣の技術は少なくとも700年以上前にあったことがうかがえます。

首里城のそばにも世界遺産となっている王陵「玉陵(たまうどぅん)」がありますが、それより200年以上古い時代に築かれたようです。



14世紀頃の沖縄本島にあった主な城(グスク)と、勢力地図です。
「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていた資料「首里城以前の琉球王城」の一部を抜き取ったものです。

1406年、山南の東部の豪族で佐敷按司(地方領主)だった尚巴志が浦添城(グスク)を攻め、中山の察度王朝武寧王を滅ぼしたそうです。
その後尚巴志は、居城を浦添城(グスク)から首里城(グスク)へ移したそうです。



「浦添ようどれ」の入り口付近の案内板に年表が掲載されていました。

「浦添城(グスク)」は、舜天王統から始まり、「浦添ようどれ」は英祖王統から始まっていることがわかります。

「浦添城(グスク)」は、第一尚氏王朝が首里城へ移った後は、第二尚氏王朝の尚維衡(尚真王の長男)が浦添城(グスク)に居を構えた記録があります。
尚維衡は、王位に就くことがありませんでしたが、その曾孫「尚寧」が、七代の王となっています。



「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていた「浦添城(グスク)」付近の航空写真です。
向って左上に「浦添グスク・ようどれ館」があり、オレンジ色の線で囲まれた森が「浦添城(グスク)」の領域です。
「浦添ようどれ」は中央のやや上に位置しています。



「浦添グスク・ようどれ館」で上演されていた「浦添城(グスク)」のビデオ画面です。
山上に石垣で囲まれた「浦添城(グスク)」が広がり、手前の斜面に「浦添ようどれ」が見えます。
又、「浦添ようどれ」の下に「伝極楽寺跡」と案内されています。

「極楽寺」は、英祖王が建立した琉球最古の寺院と言われています。
一番上の写真を撮る時に、下に寺院が建っていたような場所があったはずですが、分かりませんでした。
いったいどんなお寺があったのでしょうか?



「浦添ようどれ」の入り口付近の案内板に「浦添ようどれ」の全景のイラスト描かれていました。

向って右に赤い字で「現在地」とあり、案内板と駐車場があります。
向って左に三重の石垣に囲まれた一番庭があり、二つの墓の扉が見えています。
向って右の墓は英祖王の墓、向って左は尚寧王の墓です。



この案内板にあるイラストの向かって右下には、古い絵図の写真が掲示されていました。写真の下の注釈に「仲座久雄収集 (仲座巌氏 提供)」とありました。

断崖の上を見ると沖縄では聖なる木とされる「クバの木」が描かれています。
沖縄の信仰は、祖先の霊を崇めるもので、この王陵でも御嶽でも同様の信仰と思われます。



この写真は、「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていたものです。
沖縄戦で壊滅的に破壊された「浦添ようどれ」です。

■写真の説明文を転記します。
「沖縄戦で壊滅した浦添ようどれ」
浦添はさる沖縄戦で激戦地となりました。この戦争で、浦添ようどれのみごとな石積みは跡形もなく破壊されました。
墓室の石積みは、戦後、琉球政府文化財保護委員会によって修理されましたが、墓庭を取り囲む石垣は失われたままでした。



この写真も、「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていたものです。

■写真の説明文を転記します。
「浦添ようどれの発掘調査」
平成9年度から浦添ようどれの復元のための発掘調査が行われ、沖縄戦で破壊された石垣が残っていることがわかりました。
また、瓦溜まりや金属工房跡が発見され、西室(英祖王陵)では瓦葺き建物の柱をのせる礎石も見つかり、浦添ようどれの変せんを解明する新たな発見もありました。



「浦添グスク・ようどれ館」で頂いたパンフレットに載っていた「浦添ようどれ」の写真です。
上の沖縄戦で破壊された写真や、発掘調査の写真と対比して見ると見事に修復されたことがよく分かります。

■「浦添グスク・ようどれ館」で頂いたパンフレット説明文を転記します。
「浦添ようどれ」
浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王朝初期の王陵で、咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれています。
その後1620年に浦添出身の尚寧王が改修し、王自身もここに葬られました。
岸壁に横穴を掘り墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子があります。
向って右側が英祖王、左側が尚寧王の墓といわれています。
「ようどれ」とは琉球語の夕凪(ゆうなぎ)です。


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