昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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堅田の「伊豆神社」と、琵琶湖の水軍

2009年02月14日 | 近畿地方の旅
偶然すれ違った近所の方から「浮御堂」を北の湖岸から見ることを勧められ、前回、最後にその写真を掲載しました。

その途中に立寄った「伊豆神社」の案内板で知った室町時代からの自治組織「宮座」や、湖族と言われた琵琶湖の水軍の歴史など、想い出に残る場所になりました。



浮御堂周辺の地図です。

①満月寺の山門(浮御堂)
②伊豆神社
③~⑤浮御堂の北の湖岸の道

下の記事の中で、地図の番号で場所を説明します。


伊豆神社から琵琶湖に向けて細い路地を進むと、③の地点に出ます。

湖岸に出る手前にカンナの花が咲き、石碑が建っていました。

下段に青い文字で「湖族の郷文学碑」と刻まれています。

「湖族」の意味が気になりました。

上の文字板には「城山三郎」「一歩の距離 小説予科練」よりと題名があり、浮御堂付近での場面の一節が書かれていました。

敗戦が色濃くなった大津航空隊で、空襲警報の度に米軍のグラマン機の攻撃から「九四水偵※」を避難させていたそうです。

九四水偵で飛び立ち、浮御堂近くに着水し、芦の原の水路に逃げ込む場面でした。

※九四水偵は、「九四式水上偵察機」のことで、日本海軍の誇る偵察機でしたが、戦争末期になると相対的に性能が古くなり、特攻でも使用されてようです。



③の地点で琵琶湖を見た景色です。

湖岸近くにたくさんの白い水鳥が泳ぎ、対岸には近江富士と称される「三上山」が見えます。

水鳥たちに逃げられないよう、そっと歩いて行きました。



地図④の地点の辺りで、北を向いて撮った写真です。

橋の架かった水路は、伊豆神社につながっているようです。

⑤の地点から湖岸の北を見た景色で、長い琵琶湖大橋が見えています。

湖岸の道には、近所の小さな子供達がお父さんと、楽しそうに遊んでいました。



伊豆神社の門です。

鳥居の手前に水路があり、石橋が架かっています。

神社の周囲は、琵琶湖とつながる水路で囲まれており、環濠集落を思い浮かべました。

■入口に向って左に神社の案内板があり、転記します。
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当社の草創は寛平四年(西暦892年)と伝えられています。
宇多天皇の寛平年中諸国行脚の法性坊尊意僧正により三嶋明神の分霊を此の地に勧請したものであります。
又、村上天皇天暦三年五月(西暦947年)山城加茂大神を勧請し、神田大明神伊豆大権現の二神を祀り、堅田大宮と奉称され堅田全域の総鎮守府として崇敬されて来ました。
さらに当社を中心に室町時代より宮座(今の自治組織)があり、殿原衆と全人衆の会議制運営されたことが、歴史上明らかであります。
主祭神は大山祇の命で御神徳は農林、鉱業、海運、漁業、酒造等多方面に亘り開運の神と崇められています。
当神社の奥に伊豆の霊石 幸福を呼ぶ石があります。
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伊豆神社を中心とした自治組織「宮座」があったことに興味が湧きました。

平安時代後期、堅田に京都下賀茂神社の御厨[みくりや]が設置され、その後、延暦寺の荘園(堅田荘)となっています。

その後、堅田は、延暦寺・下賀茂神社の力を背景に琵琶湖の漁業や、水運などの特権を拡大していったようです。

説明文にある「殿原衆」[とのばらしゅう]は地侍で、臨済宗を信仰して祥瑞寺が創建されています。

又、「全人衆」[まろうどしゅう]は、商工業者たちで、浄土真宗を信仰して本福寺が創建されています。(一番上の地図にある祥瑞寺の左下にあります)

応仁2年(1468)、天台宗の本山、比叡山延暦寺の荘園でありながら他の宗派を信仰していることや、室町幕府の物資を運ぶ船に海賊行為を行ったことから堅田の町は焼討されたこともあったようです。(これを堅田大責[かたたおおぜめ」と言うそうです)

このような苦難の中で、伊豆神社の宮座の殿原衆・全人衆は、結束して立ち直り、その後も琵琶湖の水運や、漁業を取り仕切る自治が行われたようです。



琵琶湖全体の地図です。

堅田は、琵琶湖で最もくびれた場所に近く、湖上の関所としては最適の場所だったようです。

琵琶湖の水運は、陸上交通が発達していなかった昔は、日本海側の若狭湾の敦賀や小浜から湖岸にある塩津・今津などを経由して都へ物資を送る重要なルートでした。

■「大津市歴史博物館 展示案内」の説明文の引用です。
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堅田は、平安時代、京都下鴨神社に湖魚を納める御厨[みくりや]となり、また延暦寺領荘園となりました。そして琵琶湖の最狭部に位置し、海上交通をおさえるのに絶好の場所にあったことから、両社寺の勢力を背景として水運・漁業に活躍し、室町時代には強い湖上特権を獲得しました。・・・・。

・・・延暦寺の湖上関である堅田関の管理権、船に通行税をかけることのできる上乗権などの特権をもち、水軍力を背景に、室町時代には湖上水運を支配しました。
織田信長や豊臣秀吉も、この水軍力を利用するために堅田の特権を保護しています。・・・・。
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この説明文で、瀬戸内海にある愛媛県大三島の大山祇神社と、村上水軍を思い出しました。

この伊豆神社の祭神は、大山祇神社と同じ大山祇命で、伊豆の三嶋神社も大山祇命を祭神に併記しています。

織田信長にも水軍力を評価された堅田の「湖族」の情報が、「湖族の郷資料館」にあったことを知り、見落としたことが残念です。



鳥居を進むと立派な舞殿がありました。

この舞台で、どんな芸能が奉納されるのでしょうか?



本殿の門があり、両脇に貫録のある狛犬がいました。

本殿の周囲は塀で囲われ、その背後にはわずかに社叢[しゃそう]がありました。



伊豆神社の本殿です。

門と、本殿をつなぐ屋根が、参拝する場所のようです。

このような形式の神社を見たことがありますが、鳥居、舞殿、本殿が一直線に並んでいる形式は初めて見ました。

向って右に摂社がありましたが、祭神は分かりませんでした。



境内に入り左手にあった二つの摂社です。

向って左の鳥居の額には「天満宮」と書かれ、祠の横には菅原道真公にちなむ牛もいます。

向って右の鳥居の額は、よく読めませんが「○○大明神」と書かれています。

右手の奥にも鳥居があり、その先に朱塗りの板塀に囲われた摂社がありました。



舞殿の横に黒い石が置かれ、説明板がありました。

神社の入口の案内板に「伊豆の霊石 幸福を呼ぶ石」と説明されていた石のようです。

■すぐ横の案内板の文字が一部読み取れたので転記します。
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此の石は昔から神社の○○の中央に・・・・?
現在の場所に移され 往時は・・・・?
人々がこの石を・・・・?
祈ったものと言い伝えられて・・・・?
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この石は、古代祭祀で神山から神を招き、鎮座頂く依り石「磐座」だったものと思われます。

当然、その時代には、神社祭祀の中心にあった石ですが、神殿が造られ、神が常に神殿に鎮座すると考えられる現在では役割を失い、境内の片隅に置かれているものと思われます。


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