昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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白滝山の石仏を造った人々

2010年05月19日 | 山陽地方の旅
5月1日、尾道市因島の白滝山へ登った続きです。

今回は、頂上の境内で管理人さんに石仏の興味深いお話を聞くことが出来ました。

又、白滝山の伝承をよくご存じの方から見せて頂いた本※「宗教界の偉人 柏原傳六の話」を参考に、二度目の石仏拝観をまとめてみました。


※ 参考書籍「宗教界の偉人 柏原傳六の話」中島忠由著 昭和廿五年十月二十日 重井中学校発行 非売品
以下、「柏原傳六の話」と省略します。


表参道を登り、山門をくぐると目の前に多宝塔がそびえています。
(写真右下は多宝塔の先端部分です。)

左手の建物は観音堂の管理室で、多宝塔の後方には裏参道口があります。

山門近くで管理人さんにお会いし、この4面の多宝塔には白滝山の石仏を作った8人の石工たちが、各々の代表作とも言える石仏を1体ずつ彫っていると教えられました。

多宝塔の周りに色とりどりの草花が咲いています。

正月に訪れた時には葉牡丹が植えられていたのを思い出し、植替えられた季節の花に参拝者への温かい気遣いを感じました。



白滝山の頂上付近の案内地図で、現地の案内文を基に作ってみました。

図の右上に「表参道」、「山門」、その下に「多宝塔」、「裏参道」が図の下にあります。

図の左が白滝山の頂上で、「柏原伝六夫婦像」、その下に不思議な巨岩施設「日本大小神祇」があります。

前回の記事で紹介した「柏原林蔵像」「番外札所 白瀧観音堂」は、山門をくぐり、右手の石段を上がった左手にあります。



多宝塔の石仏で、尾道の石工の棟梁「太兵衛」が彫ったとされる不動明王像です。

下部には四角に囲まれた「石工太兵衛」の文字も見えます。

この迫力ある不動明王像は、四面の多宝塔の管理室側(東側)全面に彫られており、裏参道から入ると正面右手にそびえて見えます。

昔の表参道は、現在の裏参道だったそうで、参拝者に最もよく見えるこの東面が名工「太兵衛」の作品の場所となったようです。

現在の表参道がいつ頃造られたのか分かりませんが、頂上の山門から表参道を少し下った場所にある「慈母観音」には「昭和」の文字が見え、その隣の「塩神」の石碑も明治以降に作られたそうです。



多宝塔の南側に彫られている石仏で、裏参道から進むと右手に見えます。

作者や、仏像名は不明ですが、南側全面を使って彫られており、「太兵衛」に次ぐ石工の作品と考えられます。

前回の拝観では見過ごしていた多宝塔の石仏ですが、管理人さんのお話しで当時の石工達の存在感が強く浮かんできました。



多宝塔の山門側(西側)に彫られた三体の石仏で、向って右側は、上段で紹介した南側の石仏です。

石工達の息遣いが感じられる精魂が籠った作品が並んでいます。

白滝山でひたすらノミを打ち続けた3年3ヶ月、腕を上げた石工達の最後の仕事だったのでしょうか。



多宝塔の観音堂側(北側)に彫られた三体の石仏で、左手には最初に紹介した「太兵衛」の不動明王像も見えます。

多宝塔の石仏も様々な姿に彫られており、三体並ぶ左の仏像は、赤ん坊を抱いた姿にも見えます。

白滝山の独創性にあふれた、数百体の石仏を彫る仕事は、尾道の石工達にとって大きな苦労の反面、石工冥利に尽きるものだったのではないでしょうか。

この他、管理人さんからは十字架のある数体の石仏や、女性的な立て膝の石仏、それを覗き込む石仏、その横で怒っている石仏などを教えて頂き、とても楽しい拝観が出来ました。



多宝塔の南側の塀のそばに、裏参道口に向かってひっそりと建てられた石造がありました。

管理人さんのお話では、伝六のお弟子さん「伊藤五兵衛」の石造だそうです。

「伊藤五兵衛」は、地元の方ではないようですが、当時の表参道口で参拝者を迎える位置にあり、「一観教」を支えた重要なお弟子さんの一人と思われます。

書籍「柏原傳六の話」では石仏造営の場面で、伝六が「弟子の林蔵、軽右ヱ門、亀太郎(土生の人河上氏)初五郎等とはかり」とあり、中核のお弟子さんは「伊藤五兵衛」以外にも数名いたようです。



多宝塔から頂上方向へ進む石段を上がると正面中央に三体の「釈迦三尊像」が安置されています。

管理人さんの説明では基壇の石積みは、城の石垣を築く技術が使われ、ノミと金づちで、石垣のカーブを精巧に合わせるには石工の高い技術が必要だそうです。

後方のその他の石仏の基壇とは比較にならない美しい石積みで、地震にも非常に強いそうです。

書籍「柏原傳六の話」によると白滝山の観音堂は、明治4年、ふもと重井町の善興寺(曹洞宗)に合併してその奥院となったとされています。

又、この石仏も当初「大石佛三尊像」とされていたものが、合併時からは「釈迦三尊像」として釈迦、文殊、普賢を現わすものに変えられたと書かれています。

現在の石仏名は、造営当時から続いているものばかりではないようです。



向って左の普賢菩薩の台座に、振り返った姿のゾウが彫られています。

管理人さんから聞いて分かりましたが、顔、鼻、耳はゾウらしいものですが、お尻は牛、尾は馬、足は虎のようで、当時見たこともない動物を彫る石工たちの苦労がうかがわれます。

しかし、全体としては違和感のない動物の姿に見えており、石工の創作力の素晴らしさを感じます。



前回も紹介した石仏造営の指揮をとった「柏原林蔵」の石像で、石仏が完成した頃(64才)の姿と思われます。

書籍「柏原傳六の話」では「伝六は始め尾道の浄土寺山上を選んで、浄土境をつくろうと計画していた・・・柏原林蔵のすゝめによって郷土白滝山上にそれを現わすこととなり・・」と書かれ、重要な聖地の選定に伝六は、林蔵の意見を採用しています。

伝六は、文政10年(1827)石仏造営の発願し、柏原林蔵を責任者として1月から工事が着手されています。

聖地の意見採用や、石仏造営をまかせた伝六の決断には林蔵に対する大きな信頼感がうかがわれます。

ところが翌文政11年(1828)3月、広島藩の取り調べを受けた伝六が48才で他界する大事件がありましたが、その後も石仏造営は続けられ、文政13年(1830)3月、遂に完成したそうです。

林蔵は、教祖伝六の死という絶望的な悲しみや、様々な困難に遭遇したと思われますが、完成までの3年3ヶ月、一度も山を下りず石仏造営に打ち込んだそうです。

伝六の死に耐え、伝六が描いた浄土の世界が白滝山に完成した時、造営に関わった林蔵をはじめとする人々の感慨は、いったいどんなものだったのでしょうか。



頂上に近い場所に立つ伝六夫婦像で、右に空席があります。

管理人さんのお話では空席には後継者の石像を予定していたと考えられているそうです。

又、伝六は、広島に数か月拘束され、釈放された直後に亡くなったそうで、毒殺のうわさはこの状況からささやかれたものと思われます。

書籍「柏原傳六の話」によれば伝六の家は、農業の他、木綿や紫紺等の問屋を営む裕福な家だったようです。

子供が出来ない両親は西国三十三所観音巡礼に行き、授かった子が生まれながらにして額に白毫星を持つ伝六だったそうです。

(このことから考えると、代々秘かに伝えられる隠れキリシタンとは違うようです。)

柏原家の遠祖は、武蔵国入間郡の武士で、鎌倉時代に西国に移り、戦国時代は村上水軍の一翼を担った一族のようです。

その後、伝六が悟りを開いた様子は、2010年01月29日掲載の<江戸末期 因島の宗教家「一観」の書>をご覧下さい。



頂上の展望台の東側にある「日本大小神祇」です。

私は、てっきり古代祭祀の施設かと思っていました。

管理人さんの説明では儒・仏・神・基の四宗教の統合体としたのがこの施設で、一観(伝六)さんはこれを象徴として拝んでいたそうです。

江戸末期、信者が続々と増えていた一観の語る「一観教」の教えとはどんなものだったのでしょうか。


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