武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

それからの武田惣角

2011年08月12日 | Weblog
★白滝在住の合気道家・久保田師範による村民が見た武田惣角『白滝記』 平成19年。

 武田惣角は白滝では「柔道先生」と呼ばれていたらしい。一般の方々には柔道も柔術も対して違いがわからなかったのだろう。そんな柔道先生・惣角は白滝ではちょっと恐れられた人だったようだ。私が勤める農場にいるおばあちゃんは惣角の三女・志づかさんと同級生だったこともあり、惣角の家にも入ったことがあるらしいが、家の中には数種類の武器がかけてあり、やはり恐ろしくて早くおいとましたかったと語ってくれた。

 白滝で一番良く聞く話は武田惣角の庭の話である。現在、惣角の記念碑が立てられているところが実際に惣角が最後に住んでいた土地だとされているが、そこはX字の交差点になっていて惣角の土地は三角形である。その三角地帯をちょっと近道しようとして通りかかったのを見られようものなら、惣角が飛び出してきて怒って追いかけてきたという。捕まったら最後、関節を極められ懲らしめられてしまう。惣角にやられたのが原因で、腕の関節が変形したままの人もいたようだ。

 たかが庭を横切っただけでと思う方もいるかもしれないが、武田惣角の用心深さは相当なものだったらしい。これは色々な書物で、惣角と関わった先生方が証言している。「男は外に出たら7人の敵がいると思え」という武士のような気構えで生きてきた惣角からすれば、自分の土地に勝手に踏み込んできた者も当然敵とうつっただろう。白滝住民から実際に話を伺って書かれた小説「大雪山のふもとから」によると、姿が見えなくても庭を横切ったことがばれ、どこからか棒が飛んできたこともあったようだ。この本によると、惣角の庭を横切るのは一種の度胸試しにもなったらしい。

 庭のエピソードには武田惣角の失敗談もあった。馬がイチゴを食べたことに腹を立て、夫婦連れの夫の方を懲らしめていた惣角に妻が「何をする!」と体当たりしたところ、これが当たってしまったという話。惣角はばつが悪くなったのか、そそくさと家の中に引き上げたという。これには惣角のような達人でもそんなことがあったのかと驚いた。植芝盛平もそうだが、達人は武勇伝が目立つのでこういう話が聞けるのはとても興味深い。

 また、庭の話とは別に武田惣角が道の交通料をとっていたという話も聞いた。この話の真偽は分からないが、見た目や、性格の厳しさから白滝住民にとって惣角はあまりいい印象ではなかったようである。

 植芝盛平は白滝原野を開拓するため、和歌山紀州団体の団長として白滝に入植し、人々のために働いた。一方、武田惣角はその厳しい性格や、会津なまりのひどさからそれほど人と触れ合う機会はなかったようである。しかし、大東流の指導は行っていたようだ。惣角がどの程度の指導を行ったのかはわからないが、白滝には惣角から手ほどきを受けた人が結構いたらしい。

 そのうちに武田惣角は植芝盛平の家に転がり込むようになる。毎日の惣角の世話で盛平はだんだんと自分の仕事ができなくなっていった。盛平は白滝から出た初の上湧別村村会議員をも務めるが、一年足らずでやめている。その背景にも惣角がいたのかもしれない。このことについて、盛平は後にこう語っている。「公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分のうちのようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部とられてしもうた」(白滝村史編纂取材録音テープ/昭和42年)。本当にここまでひどい目に合わされたのかどうかはわからないが、惣角と関わったことで白滝での生活が破綻したことは間違いなさそうだ。盛平は白滝から離れることを考えるようになる。盛平はどうやら故郷田辺に戻り、武道家として生きていくつもりで道場も建てていたようだ。盛平は白滝を去る時にも田辺の道場について語ったらしく、そのことは白滝の方からも聞いたことがある。ちなみにこの話をしてくれた方は、盛平が白滝を捨てて田辺で武道家になろうとしたことで、盛平にいい印象を持っていなかった。

 そして大正8年12月、植芝盛平は「チチキトク」の電報を受け取り、これを機に帰郷を決行した。その際にも盛平は惣角に土地を与えている。その後は結局田辺にとどまらす、京都の綾部へ行くことになるのだが、惣角には行き先を告げなかったという。そして、惣角が終生家を持ち続けた白滝には戻って来る事がなかった。

 先の「大雪山のふもとから」によると、武田惣角が指導していたのは大東流だけではなかったらしい。同書には惣角が剣道を指導したという記述が出てくるのである。元々惣角が剣術家であったことは知っていたが、この話はこの本で初めて知った。今でこそ、白滝には剣道少年団くらいしかなく剣道熱も下火であるが、一時期の白滝は大変剣道が盛んであり、強い剣士が多かったという。その剣道も元は惣角が始めたものかと思いをめぐらせると、意外なところに惣角の落とした影を見ることが出来る。

 達人もやはり年には勝てぬと見え、晩年の武田惣角は大小便垂れ流しの状態で歩くこともままならなかったと聞いた。そのために杖をついているのだが、その杖はとても太い木刀であったという。握り方も変わっていて、通常杖を握るときは親指が上にくると思うが、惣角はその逆で親指が下を向いていたという。この握りであれば、手を返せばそのまま木刀を持つ格好となる。惣角は年老いても常に臨戦態勢であったのだ。おまけに木刀も極太であったというからすさまじい。足腰は弱っても、剣で鍛えた腕力は健在だったのだろう。

 武田惣角は齢80を越えても全国を旅し続け、各地で教授を行った。その旅立ちの際、白滝の駅に向うときも一人ではろくに歩けず、支えられていたという。しかし、そんな状態でも一人で旅を続けたのだからすごい。そして、旅の途中青森で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
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