祇園祭は7月1日の吉符入に始まり、31日の夏越祭まで、ひと月にわたる真夏の神事である。
今年の祇園祭に大船鉾が蛤御門の変で焼失して以来150年ぶりに曳き鉾として後祭巡行に参加した。それに先立つ前祭の山鉾巡行の後に行われる神幸祭がある。八坂神社から神輿が出て、鴨川を渡り御旅所にやってくる。中世には神輿は四条橋を渡り御旅所に入っていたが。天正19年の秀吉の御土居造営では四条通の御土居には出入口がつくられなかった。出入口がなければ神輿は従来のように四条通を通れないのである。三条橋と五条橋は架けられていたので神輿は三条橋へ迂回していたものと思われる。四条橋が架けられたのは江戸時代になってからである。現在の神幸祭で、神輿は四条大橋を通らず、わざわざ三条大橋へ迂回しているのはその名残りであろうか。
★京都市考古資料館文化財講座『御土居の実像~近年の発掘調査成果から』
天正13年(1585)、関白となった豊臣秀吉は大規模な造営事業を行う。天正14年(1586)に聚楽第、天正16年(1588)に方広寺、天正19年(1591)には御土居を造営する。
御土居は土塁と堀によって京都の町を囲み、その範囲は北は鷹ヶ峰、南は東、東は鴨川、西は紙屋川に至り、延長距離は約23㎞に及ぶ。当時の記録によると、工事は天正19年の閏正月から始まり数ヶ月間でほぼ完了するという突貫工事で行われたようである。
御土居の内側を洛中、外側を洛外という。御土居造営の目的には鴨川・紙屋川の治水、洛中の聚楽第を中心として外敵からの侵入を防ぐ、また古文書によると洛中からの盗賊の逃亡を防ぐ治安の維持とある。
御土居の名称は江戸時代になって定着したもので、豊臣期には「惣堀」、「土居堀」と呼ばれていた。
ルイス・フロイスが本国への通信のなかで秀吉の惣構について触れ、その築造理由を「己が名声を記念するために」築いたと記す。(イエズス会日本報告集)
御土居の貴重な史料に、元禄15年(1702)作成『京都総曲輪(そうぐるわ)御土居絵図』(京都大学総合博物館蔵)がある。
『京都総曲輪御土居絵図』は、寛文9年(1669)、江戸幕府が御土居の管理を角倉与一(すみのくら よいち)に委託したため、角倉家が維持・管理を行うため作成した絵図面である。
平成25年(2013)、北野天満宮境内の御土居で整備を目的とした発掘調査が実施された。地上に残る御土居の初めての発掘調査である。
主な調査成果として次の3点が挙げられる。
1、切石組暗渠を検出した。埋没して位置が不明であった東側の取水口を検出、露出していた排水口と合わせ、切石組暗渠の規模・構造が明らかになった。この暗渠は『京都総曲輪御土居絵図』に描かれた唯一の暗渠にあたる。切石組暗渠は北白川産の花崗岩製である。暗渠は土塁を盛り上げて構築した後に、これを掘り込み、石組みを設置して再び埋め戻している。暗渠の設置の年代を示す遺物は出土していないが、石を切り出す際に打ち込む鉄の矢の楔(くさび)を入れた矢穴の形状から安土桃山時代から江戸時代初期のものとみられる。
2、御土居は紙屋川東岸の段丘上に築かれていることが確認され、その規模や基底部から最上部までの構築方法が明らかになった。土塁の構築土は地山と同種であり、土塁の構築土はその周辺のものが利用されたと考えられる。
3、『京都総曲輪御土居絵図』に描かれる元禄14年(1701)に開削された切通しの道路を検出した。
今回の調査によって、検出された遺構・絵図面・現地地形がそれぞれ『京都総曲輪御土居絵図』と合致することが確認され、その精度の高さが明らかとなった。
御土居が築造された目的には諸説あるが、経済発展を重視した秀吉は、上京と下京の集合体であった京都から、一つの町の京都への改造を目指したのではないだろうか。 (京都市埋蔵文化財研究所 南孝雄)
今年の祇園祭に大船鉾が蛤御門の変で焼失して以来150年ぶりに曳き鉾として後祭巡行に参加した。それに先立つ前祭の山鉾巡行の後に行われる神幸祭がある。八坂神社から神輿が出て、鴨川を渡り御旅所にやってくる。中世には神輿は四条橋を渡り御旅所に入っていたが。天正19年の秀吉の御土居造営では四条通の御土居には出入口がつくられなかった。出入口がなければ神輿は従来のように四条通を通れないのである。三条橋と五条橋は架けられていたので神輿は三条橋へ迂回していたものと思われる。四条橋が架けられたのは江戸時代になってからである。現在の神幸祭で、神輿は四条大橋を通らず、わざわざ三条大橋へ迂回しているのはその名残りであろうか。
★京都市考古資料館文化財講座『御土居の実像~近年の発掘調査成果から』
天正13年(1585)、関白となった豊臣秀吉は大規模な造営事業を行う。天正14年(1586)に聚楽第、天正16年(1588)に方広寺、天正19年(1591)には御土居を造営する。
御土居は土塁と堀によって京都の町を囲み、その範囲は北は鷹ヶ峰、南は東、東は鴨川、西は紙屋川に至り、延長距離は約23㎞に及ぶ。当時の記録によると、工事は天正19年の閏正月から始まり数ヶ月間でほぼ完了するという突貫工事で行われたようである。
御土居の内側を洛中、外側を洛外という。御土居造営の目的には鴨川・紙屋川の治水、洛中の聚楽第を中心として外敵からの侵入を防ぐ、また古文書によると洛中からの盗賊の逃亡を防ぐ治安の維持とある。
御土居の名称は江戸時代になって定着したもので、豊臣期には「惣堀」、「土居堀」と呼ばれていた。
ルイス・フロイスが本国への通信のなかで秀吉の惣構について触れ、その築造理由を「己が名声を記念するために」築いたと記す。(イエズス会日本報告集)
御土居の貴重な史料に、元禄15年(1702)作成『京都総曲輪(そうぐるわ)御土居絵図』(京都大学総合博物館蔵)がある。
『京都総曲輪御土居絵図』は、寛文9年(1669)、江戸幕府が御土居の管理を角倉与一(すみのくら よいち)に委託したため、角倉家が維持・管理を行うため作成した絵図面である。
平成25年(2013)、北野天満宮境内の御土居で整備を目的とした発掘調査が実施された。地上に残る御土居の初めての発掘調査である。
主な調査成果として次の3点が挙げられる。
1、切石組暗渠を検出した。埋没して位置が不明であった東側の取水口を検出、露出していた排水口と合わせ、切石組暗渠の規模・構造が明らかになった。この暗渠は『京都総曲輪御土居絵図』に描かれた唯一の暗渠にあたる。切石組暗渠は北白川産の花崗岩製である。暗渠は土塁を盛り上げて構築した後に、これを掘り込み、石組みを設置して再び埋め戻している。暗渠の設置の年代を示す遺物は出土していないが、石を切り出す際に打ち込む鉄の矢の楔(くさび)を入れた矢穴の形状から安土桃山時代から江戸時代初期のものとみられる。
2、御土居は紙屋川東岸の段丘上に築かれていることが確認され、その規模や基底部から最上部までの構築方法が明らかになった。土塁の構築土は地山と同種であり、土塁の構築土はその周辺のものが利用されたと考えられる。
3、『京都総曲輪御土居絵図』に描かれる元禄14年(1701)に開削された切通しの道路を検出した。
今回の調査によって、検出された遺構・絵図面・現地地形がそれぞれ『京都総曲輪御土居絵図』と合致することが確認され、その精度の高さが明らかとなった。
御土居が築造された目的には諸説あるが、経済発展を重視した秀吉は、上京と下京の集合体であった京都から、一つの町の京都への改造を目指したのではないだろうか。 (京都市埋蔵文化財研究所 南孝雄)