高江雅人  竹工芸職人の独り言  竹工房オンセ

高江雅人  竹工芸を初めて37年、徒然なる出来事をアップしています。

親子三代のお付合い  3

2007年05月14日 13時39分54秒 | 友人

06_008 私はレストランから農業へ、だんだんと自分の目指す方向が変わってきた。27歳の時に現在私が住んでいる土地を見つけ、農業をしようと準備を始めた。その時は「竹細工」などするとは夢にも考えていなかった。会社には「30歳になったら、農業をしようと思うので退職させてもらいたい。その後、私の作った作物をレストランで使って貰いたい。」など、申し込みをした。師弟関係で成り立っている経営なので、それまで辞めていく人は ある意味「裏切り者」「脱落者」的な見方をされていたのであるが、初めての円満退社である。29歳で退職後、農業研修でご縁のあった長野県の有機農法や産直運動の先駆者である農家「平沢」氏の所に居候するのである。

その時は、「内城土壌菌」という微生物を使って生ゴミを発酵させ、資料や肥料にして、作物をつくり、また、鶏を飼って卵を当面の現金収入にするなどプランニングしていた。いろんな所の生ゴミ発酵タンクを見に行ったり、農家のお話を聞いたり準備をしていた。しかし、農業をするのってとてもお金が掛かるのですよね。最初の設備投資に莫大なお金が掛かる。発酵タンク、タンクを入れる建物、トラック、トラクター、ハウス、などなど考えたら相当な資金が必要である。私がやろうとしていた土壌菌農法のタンクには「貧乏追放タンク」と名前がついていたが、貧乏人の私には買うことが出来ないのである。2000万以上の借金を背負って、農業で返していく自身がなかった。

いろんな農業の先輩に相談してみると「お前のように、農業に夢見て沢山の人が農業を始めるが10人のうち9人が挫折してやめていく。」農業って、一年分がたった一回の台風でだめになったり、自然が相手なだけに博打のような要素が多いのだ。「何か、現金収入の副業を見つけなさい。作物がダメでも、最低限食べていけるような現金収入を作っておくと良いよ。」この言葉が人生の大きな分かれ道であった。   つづく

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コメント (2)
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